第2話 街道の魔法使い
アウローラを出てから、エリアスはずっと機嫌がよかった。
背負った旅鞄は軽くない。紙と帳面を欲張って詰め込んだせいで、歩くたびに肩へ重みがかかる。それでも、今さら減らそうとは思わなかった。
街道の先には、低い丘が連なっている。
振り返れば、見慣れた街並みはもう遠い。知らない土地へ向かっている。それだけで楽しかった。
「天気もいいしな」
空を見上げる。
旅の初日から雨に降られていたら、それはそれで話の種にはなっただろうが、できれば濡れずに歩ける方がいい。
道の脇には草原が広がり、ときおり旅人の姿が見えた。荷を背負った男、二人連れの旅人、荷車を引く商人。向かう先はそれぞれ違い、エリアスと同じ方向へ進む者もいた。
こうして歩いていると、世界が本当に続いているのだと実感する。
アウローラでも、遠い土地の地名や気候、そこで使われる魔法は本で読めた。だが、紙の上の数行を覚えることと、自分の足でそこへ向かうことは違う。
「腹減ったな」
最初に出てくる感想がそれか、と自分でも思う。
昼には少し早いが、休める場所があれば保存食を開けよう。そう考えながら歩いていたとき、前方から叫び声が聞こえた。
「止めろ! 止めろって!」
続けて、木材が激しく軋む音。
エリアスは足を止めた。
緩い下り坂の向こうから、積み荷を載せた大きな荷車が転がり落ちてくる。
引いていた獣はすでに外れているらしく、荷車だけが坂を下っている。片側の車輪が大きくぶれ、今にも外れそうだった。
その少し前には、二人の旅人がいる。慌てて道の端へ逃げようとしているが、一人は年老いていて動きが遅い。
さらに荷車の後ろから、三人ほどの男が必死に追いかけていた。
「なるほど」
エリアスは旅鞄を肩から下ろした。
状況を見る。
重い荷車を正面から止めれば積み荷が崩れる。勢いだけ殺しても、壊れかけた車輪が持たない。まずは車輪が通る地面と、荷車の揺れを抑える風を使う。
エリアスは街道へ意識を向けた。
地面がわずかに盛り上がる。
荷車の進路を塞ぐほど高くはない。車輪がそこへ乗ったとき、少しずつ勢いを逃がせる程度の緩やかな起伏だ。
続けて風を動かす。
荷車を正面から押し返すのではない。
左右から包むように風を流し、揺れを抑えながら速度だけを削る。
大きく傾いていた荷車が、一度激しく軋んだ。
だが、倒れない。
街道に作った起伏へ車輪が乗るたび、その勢いが少しずつ落ちていく。
エリアスは目を細めた。右からの風が少し強い。弱めた途端、左の車輪が跳ねかけた。そちらの地面だけわずかに持ち上げ、ずれた積み荷が崩れる前に風の流れを変える。
ほんの数呼吸。
暴走していた荷車は、旅人たちに届くよりずっと手前で速度を失った。
最後は前へ進む力すらなくなり、ぎし、と一度鳴って止まる。
街道に静けさが戻る。
「……よし」
エリアスは息を吐いた。疲れはない。
壊れかけた荷車へ近づき、状態を見る。
片側の車輪を支えていた部分が傷んでいる。このまま進ませるのは危ない。
「大丈夫ですか?」
先に、道端へ逃げていた旅人たちへ声をかけた。
「あ、ああ……」
老人が呆然と荷車を見た。
隣にいた若い男も、しばらく何も言わなかった。
「今の……あんたが?」
「そうですけど」
「いや、そうですけどって……」
若い男は荷車とエリアスを交互に見る。
その間に、後ろから走ってきていた三人が追いついた。
「はあっ、はあっ……荷車……!」
先頭の男が膝へ手をつき、激しく息を切らしている。
「止まってる……?」
「止めました」
エリアスが答えると、男は顔を上げた。
「あなたが?」
「ええ」
「どうやって……」
「地面と風を少し」
「少し?」
男は街道を見て、倒れずに止まった荷車を見て、無傷の旅人たちを見た。
「少し……?」
二度目は独り言だった。
エリアスは首を傾げた。
大げさなことをしたつもりはない。
荷車を粉々にしていいなら、もっと簡単だった。正面から強い魔法をぶつければ済む。
だが、それでは積み荷も道も巻き込む。
人を助けても荷物を全部駄目にしては、商人が困る。
「車輪の方、かなり傷んでますよ。このまま使うのはやめた方がいいです」
「いや、それより……」
商人らしい男はまだ混乱していたが、やがて大きく息を吐いた。
「助かりました。本当に。荷車もそうですが、あのお二人まで巻き込んでいたら……」
「誰も怪我してないならよかったです」
「お礼を――」
「別にいいですよ」
エリアスはすぐに答えた。
男が目を瞬く。
「たまたま通りかかっただけですし」
「しかし」
「それより、荷物を下ろした方がいいと思います。この車輪、完全に壊れたら今度こそ倒れますよ」
そう言うと、商人たちは慌てて荷車へ向かった。
積み荷をいくつか下ろし始める。
エリアスも少し手伝った。
魔法で全部片づけてもよかったが、人の手で済むことまで何でも魔法にする必要はない。
先ほど助けた老人も近寄ってきた。
「若いのに、たいした魔法使いだな」
「ありがとうございます」
「どこかの魔術師か?」
「まあ、そんなところです」
「そんなところ、で済む腕には見えんが」
老人が笑う。
エリアスも笑い返した。大賢者の弟子だと名乗ってもいいが、旅の初日から会う人間に師の名を聞かせて歩くのも格好がつかない。本を出すときには大々的に使わせてもらおう。
「これ、よかったら」
荷物を下ろし終えた商人が、小さな包みを差し出した。
「本当に大したものじゃないんですが。干した果物です」
「いいんですか?」
「もちろんです。何もなしでは、こっちが落ち着きません」
そう言われれば断る理由もない。
「じゃあ、ありがたく」
エリアスは受け取った。
礼を求めたわけではないが、差し出された干し果物を頑なに断る理由もなかった。
包みを開いて一つ口へ入れる。
甘い。
「うまいですね、これ」
商人がようやく笑った。
「でしょう? この先の町でも売ってますよ」
「それはいいことを聞いた」
食べ物の情報は重要だ。
魔法ほどではないが、かなり重要だった。
商人たちはその場で荷を減らし、傷んだ車輪を気にしながら近くの町まで進むことにしたらしい。
エリアスは同行を勧められたが、断った。
「歩きたいんです」
せっかく旅に出たのだ。
初日くらい、自分の足で街道を歩きたかった。
「それじゃ、本当にありがとうございました」
「気をつけて」
商人たちと別れ、エリアスは再び旅鞄を背負った。
少し進んで振り返ると、商人たちはもう荷車と向き合っていた。エリアスも前を向く。
街道は、さっきまで荷車が暴走していたのが嘘のように静かだった。
歩きながら、もらった干し果物をもう一つ口へ入れる。
「旅って、こういう感じか」
知らない人間と出会い、少し関わって、また別れる。悪くない。むしろ、かなり好きかもしれない。
午後が深まるにつれ、街道の人影も少なくなった。今日中に町へ着ければいい。エリアスは景色を眺め、ときどき立ち止まって遠くの丘を見た。
やがて、夕暮れの光の中に町の輪郭が見えてきた。
「お」
屋根の向こうに煙が上がっている。宿も、飯もあるだろう。酒も期待できる。
魔法を探す旅は始まったばかりだ。面白いものに出会うのは明日でも、その先でもいい。今日は歩いた分だけ腹が減っていた。
「さて。何食うかな」
エリアスは少しだけ足を速めた。
夕暮れの町へ向かって。




