第1話 大賢者の弟子、旅に出る
旅に出る朝、エリアスが最後まで気にしていたのは、着替えの枚数でも保存食の量でもなかった。
「……紙、もう少し持っていくか」
机の上の紙束を見ながら、エリアスは呟いた。
旅鞄には、すでに筆記具と何冊かの帳面が入っている。それでも足りなくなる気がして、予備の紙をさらに加えた。
荷物が増えるのは面倒だ。けれど、旅先で面白い魔法を見つけたのに記録する紙がない、などという事態だけは避けたかった。
各地に残る魔法を見て、使い手に話を聞く。魔法式を読み解き、どういう条件で成立し、なぜその形になったのかを整理して論文にする。
旅の目的を並べれば、ずいぶん学者らしく聞こえた。
「で、それをまとめて本にする」
エリアスは鞄の口を閉じた。
一冊で終わる必要はない。面白い魔法が多ければ、二冊でも三冊でも書けばいい。
大賢者アドルフ・ヴァイス最後の弟子が、世界各地の知られざる魔法をまとめた魔導書。
題名だけでも、それなりに売れそうではないか。売れれば宿代を惜しまずに済むし、安酒よりうまい酒を選べる。料理を値段で諦めることも減るだろう。
それに、名声もついてくる。
「大賢者の弟子で、著名な魔導書の著者。それで金もある」
かなりいい。
「……モテるな」
エリアスは真顔で頷いた。金も名声も、うまい飯も酒も欲しい。美人に笑いかけられる人生なら、なおいい。
もちろん、魔法の研究も本気だった。
机の上には、旅支度とは別に数枚の紙が残っている。そこには、これから調べたいものが思いつくまま書き込まれていた。
町や村で使われている魔法。特定の仕事をする者だけが知る魔法。家庭の中で、親から子へ当たり前に伝わる魔法。
名のある魔術師が作ったわけでもなければ、大きな研究成果として王立魔法協会へ持ち込まれたわけでもないもの。
それでも、魔法である。
アウローラ魔導国では、魔法は深く研究されていた。魔法教育も、魔道具も、研究制度も発達し、人々の日常にまで魔法技術が入り込んでいる。魔法石と固定された魔法式を利用した道具も珍しいものではなく、魔法は一部の研究者だけが扱う秘術ではなかった。
そして、その土台にはアドルフ・ヴァイスが整理した現代魔法の体系がある。
アドルフは散らばっていた知識と現象を分類し、魔法を読み解くための共通した道筋を作った。
エリアスはそれを学び、自分の手で使いこなしてきた。
術式を組み、魔力の流れを読み、強さを調整し、必要なら途中で止める。複数の構成を扱い、それぞれがどう作用するかを見ながら組み替える。そうした魔法の操作は、エリアスにとってすでに特別なことではなかった。
大賢者最後の弟子という肩書は、ただ師の名を借りたものではない。火の魔法なら炎の形だけでなく、その奥で働く術式を見る。魔力がどこを流れ、何を条件に作用するのか。完成した魔法をほどいて中身を見られるから、知らない魔法にも問いを立てられる。
アドルフの体系があるから、体系の外にあるものを拾える。
世界中の魔法がすべて整理されているのなら、旅に出ずとも、アウローラの書庫で論文を読めばいい。
だが、そんなはずがなかった。
寒さをしのぐために考えた魔法も、仕事を少し楽にする工夫も、その土地で当たり前に使われているからこそ記録されないことがある。そういうものまで研究者の机に運ばれてくるとは思えなかった。
むしろ、使っている本人たちがわざわざ研究対象だと思っていないものほど面白いかもしれなかった。
「名前すらない魔法とか、ありそうだよな」
想像するだけで楽しくなってくる。
どんな魔法式で、何を条件に働くのか。既存の体系で説明できるのか。それとも同じ現象へ、まるで違う組み方で到達しているのか。
誰が、何のために考えたのかは、式だけを見ても分からない。使う人間に会って、使うところを見て、話を聞きたかった。
「よし」
エリアスは鞄を背負った。
部屋を見回す。
忘れ物はない――と思う。
金も旅道具も、研究のための紙も揃えた。
これで足りなくなるなら、それはそれで喜ぶべきことだ。書ききれないほど面白い魔法に出会えたということなのだから。
外へ出ると、朝の空気が頬に触れた。
アウローラの街は、すでに動き始めていた。
店を開ける者、通りを急ぐ者。生活用の魔道具を扱う店先では、朝から品物を並べる音がする。
見慣れた光景だ。研究の進んだアウローラでさえ、暮らしの中には研究者が名前をつけない魔法がある。山を越え、海を渡れば、農村や港町や雪国で、人々が必要に迫られて作り、受け継いできたものがどれほど残っているだろう。
考えるうちに、足取りが軽くなった。
やがて街の出口が近づく。
ここを越えれば、あとは街道だ。
エリアスは一度だけ足を止め、振り返った。
長く魔法を学んだ街には、本も論文も研究者もいる。それでも本棚にない答えを、これからは自分の足で探す。
「さて」
前を向く。
街道が朝の光の中へ伸びていた。
最初の一つに出会うのは、今日かもしれないし、何日も先かもしれない。鍋の火加減を助けるだけの魔法でも、濡れたものを乾かすだけの魔法でもいい。誰かが毎朝使っているものを、自分がまだ知らない。それで十分だった。
見つけて、調べて、書く。それが溜まれば本にする。売れたら金も名前も手に入る。
「それで美人にモテれば、言うことなしだな」
思わず笑う。魔法が好きで、旅も楽しみたい。うまい飯も酒も金も女も欲しい。そのどれかを、旅に出るために置いていく気はなかった。
エリアスはアウローラを背にして、街道へ踏み出した。
世界には、まだ知らない魔法がある。
なら、拾いに行こう。




