次の魔法
完成した魔導書第一巻は、エリアスの手を離れた。旅先で見つけた魔法を解析し、論文にしたものから選び、並べ直し、足りないところを補って一冊にまとめた。もう、エリアスが手を入れるものではない。あとは出版へ向かう。
「……行ったな」
手元からなくなってみると、不思議な感じがした。旅へ出たときには、まだ一枚もなかった。各地を歩くうちに論文が増えた。それを抱えてアウローラへ戻り、今度は一冊の本へまとめた。完成したときにも達成感はあった。だが、こうして本当に自分の手を離れると、ようやく別のところへ進み始めたのだと実感する。
「売れるといいわね」
隣からリリアナが言った。
「売れる」
「言い切るの?」
「売れてもらわないと困る」
「急に弱くなったわね」
「売れるだろ。大賢者の最後の弟子が、各地を旅して集めた魔法をまとめたんだぞ」
「それ、何回聞いたかしら」
「何回でも言う。名も売れる。金も入る」
「それも聞いた」
「あと、モテる」
「それも」
リリアナが呆れた顔をする。エリアスは気にしなかった。本気で期待している。これが売れれば金になる。次の旅も楽になる。名前が広がれば、研究者としても動きやすくなるかもしれない。そして有名な魔法使いで、しかも本まで出したとなれば、今より女にモテる可能性もある。かなり重要だった。
「まあ、まだ出てもいないけどな」
「分かってるじゃない」
「期待するくらいいいだろ」
「好きにすれば?」
売れるかどうかは分からない。どれほどの金になるのかも分からない。誰が読んで、どう評価するのかも。本当に女にモテるようになるのかなど、なおさら分からなかった。だからといって、その結果が出るまでアウローラで待っている理由もない。エリアスには、もう次があった。
「それで、本当に行くのね」
「ああ」
「せっかく帰ってきたのに」
「十分いただろ」
エリアスは足元の荷物を見る。旅に必要なものは、すでにまとめてあった。第一巻を完成させるまでは、次の旅へ出るつもりはなかった。だが、それは終わった。そして今度は、遠い土地に変わった魔法を使う村があるという話まで聞いている。噂を聞いてから、村までの道筋とおおよその距離は調べておいた。どんな魔法なのかは分からない。本当に研究する価値があるものかも分からない。
行ってみれば、聞いていたほど珍しいものではない可能性だってある。それでも。
「気になるんだよ」
エリアスが言うと、リリアナは小さく笑った。
「でしょうね」
「見たことない魔法があるかもしれないんだぞ」
「だから行く?」
「他に何がある」
「本の売れ行き」
「帰ってきたら分かるだろ」
「評判」
「そのうち聞こえてくる」
「お金」
「入ってくれば嬉しい」
「女」
「それは旅先にもいる」
「最低」
「なんでだよ」
エリアスが笑う。リリアナも、少し遅れて笑った。旅へ出るからといって、何か特別な約束をする必要はなかった。リリアナにはリリアナの研究がある。エリアスにはエリアスの旅がある。一夜を共にしたことも、その後に机を挟んで何度も議論したことも消えない。だからといって、どちらかの人生がもう一方へ続いていくわけでもない。
「じゃあ」
エリアスは荷物を背負った。
「行ってくる」
「ええ」
リリアナはいつもの調子で答える。
「次は、ちゃんと整理してから持ってきて」
「無茶言うな。旅しながら書くんだぞ」
「酒の感想と女の話を同じ手控えに書かなければ、少しはましになるでしょう?」
「見たのか?」
「見てない」
「本当か?」
「さあ?」
「お前な……」
追及しようとして、やめた。たぶん聞いても答えない。エリアスはため息をつき、それから歩き出した。アウローラを離れる。一冊目を残して。次の一冊を作るために。
◯
旅に戻れば、やることは以前と大して変わらなかった。歩き、腹が減れば食い、町へ着けば宿を探す。酒場があれば入る。
「うまい」
その日の料理は当たりだった。肉を焼いただけのように見えたが、香辛料の使い方がいい。酒も悪くない。エリアスは二杯目を頼み、料理の残りを口へ運んだ。こういうものに出会えるのも旅の楽しみだ。アウローラにいれば、研究する環境には困らない。それでも、同じ場所にいるだけでは食えないものがある。飲めない酒がある。見つからない魔法がある。そして。
「……お」
店へ入ってきた女を、思わず目で追う。美人だった。旅装をした成人の女で、一人らしい。少し考える。声をかけるか。料理をもう少し食べるか。
「……あとでいいか」
今は酒と肉だった。女は逃げるかもしれないが、料理は冷める。どちらを選んでも後悔する可能性はある。旅とは難しい。エリアスは真剣にそんなことを考えながら、残っていた肉を食べた。
翌朝、町を出てしばらく歩いたところで、荷車が道端に止まっていた。車輪が溝へ落ちている。困った顔をしていた男に声をかけ、少し手を貸した。大したことではない。エリアスが本気で魔法を使うほどでもなかった。礼を言われ、そのまま別れる。名前を聞かれることもなかった。エリアスも名乗らなかった。
また歩く。昼を過ぎた頃、小さな集落が見えてきた。目的地ではない。噂に聞いた村までは、まだ先だ。今日はここで休むか。そう考えながら集落へ入ったときだった。道の脇で、一人の男が作業をしている。
エリアスは何気なく横を通り過ぎ――。
「ん?」
足が止まった。振り返る。男は気にした様子もなく、同じ作業を続けている。ほんの小さな魔力の動きだった。大がかりな術ではない。攻撃にも使えそうにない。アウローラで研究対象として見せれば、地味だと言われるかもしれない。だが。
「今の……」
エリアスは男の手元を見る。もう一度。同じ魔力の流れ。見覚えがない。少なくとも、エリアスが知っている体系魔法をそのまま使ったものではなかった。似た考え方はある。比較できそうな術式も頭に浮かぶ。だが、完全には重ならない。エリアスの口元が、自然に上がった。
「ちょっといいか?」
男が顔を上げる。
「なんだ?」
「今の魔法、もう一回使ってくれないか」
「これか?」
「ああ」
男は不思議そうな顔をしながら、同じことを繰り返した。エリアスは今度こそ見逃さない。魔力の流れを追う。術式を頭の中で組み立てる。どこから発動し、何へ作用しているのか。既存の体系なら、どう説明できる。違うなら、どこが違う。疑問が次々に浮かぶ。けれど、それだけではなかった。
「これ、いつも使ってるのか?」
「ああ」
「何のために?」
男が答える。エリアスは聞く。なぜここで必要なのか。他のやり方では駄目なのか。誰が使うのか。いつから使われているのか。男にとっては、珍しいものではないらしい。暮らしの中にある。必要だから使う。ただそれだけの、小さな魔法だった。エリアスは笑った。旅に出る前なら気づかなかった、という話ではない。
最初から、魔法がどこで、誰に使われているのかには興味があった。ただ、今は聞きたいことが増えている。術式だけではない。暮らし。仕事。土地。使う者の判断。残っている理由。消えていく理由。第一巻を作ったところで、それらを知り尽くしたわけではない。むしろ、一冊にまとめたからこそ分かる。世界は広い。まだ知らない魔法がある。
拾っていないものがある。エリアスは荷物から紙を取り出した。一冊目は、もう完成した。今ごろ自分の手を離れ、出版へ向かっている。売れるかどうかは、まだ知らない。大金持ちになれるかも。有名になれるかも。女にモテるようになるかも。何一つ決まっていない。だが、それはそれでいい。結果を待っている間にも、世界には魔法がある。目の前にも、一つあった。
エリアスは紙の上へペンを走らせる。まず、見たことを書く。次に、聞いたことを書く。あとで術式もきちんと解析する。必要なら、もっと話を聞けばいい。この土地を歩いてみてもいい。一冊目ができた。なら、二冊目を作ればいい。
「これは、使えるな」
誰に聞かせるでもなく呟いて、エリアスはまた紙へ目を落とした。世界には、まだ拾われていない魔法がいくらでもある。そして、それを見つければ足を止める旅人がいる。エリアスの旅は、まだ続いていく。
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