第58話 次の一冊のために
第一巻が完成しても、机の上が片づくわけではなかった。むしろ、完成したからこそ分けなければならないものがある。エリアスは机の中央に完成稿を置き、その周囲に積み上がった紙へ目を向けた。
「……これを全部一緒にしておく必要はないな」
旅先で書いた手控え。魔法を調べたときの記録。現地で聞いた話を書き留めた紙。解析の途中で使った計算。完成稿の元になった論文。第一巻には入れなかった研究。補足のために引っ張り出した資料。旅から戻ったときには、それらすべてが成果だった。だが、今は違う。完成した本と、その本を作るために使ったものを、同じように扱う必要はない。
エリアスは一枚ずつ確認しながら分けていった。完成稿。そこに書いた内容の根拠となる研究。今後も残しておく調査記録。第一巻には使わなかったもの。
「捨てないのね」
リリアナが紙の束を覗き込んだ。
「何を?」
「そっち。第一巻に入れなかったもの」
「捨てるわけないだろ」
エリアスは当然のように答えた。
「本に入れなかっただけだ。研究として価値がないとは言ってない」
「まだ確かめ足りないものもあったでしょう?」
「だから残すんだよ。次に使えるかもしれない」
「二冊目?」
「かもしれないし、別の論文かもしれない」
今の時点で決める必要はない。第一巻へ入れないと決めたものまで、第一巻の完成と一緒に終わらせる理由はなかった。旅をすれば、また別の材料が増える。そのとき、今は使えなかった記録が思わぬ形でつながることもあるかもしれない。エリアスは紙の端を揃え、別の束へ重ねた。
「それにしても」
リリアナが完成稿を見る。
「本当に終わったのね」
「昨日も言っただろ」
「三回も最初から読み直していた人の言葉だから」
「もう読まない」
「本当に?」
「読んだら直したくなる」
「分かってるじゃない」
エリアスは完成稿から意識して手を離した。誤りを見つけたなら別だ。だが、もっと書けるというだけで手を入れ始めれば、終わりはない。それはもう十分に分かっている。第一巻は完成した。今やるべきなのは、それを未完成へ戻すことではなかった。出版へ進められるよう、完成したものを完成したものとして整理することだ。エリアスは論文の束を一つ取り上げた。
完成稿と見比べ、必要なものを確認する。別の記録も確かめる。第一巻の本文そのものと、その根拠になった研究や調査の記録が混ざらないように分けていく。
「面倒ね」
「今さらだろ」
「旅をしていた頃より紙と戦ってない?」
「魔物より紙の方が多いからな」
「勝てそう?」
「もう勝った」
完成稿を指す。
「これはできた」
「じゃあ今は?」
「戦利品の整理」
「それでいいの?」
「いいだろ」
リリアナが笑った。エリアスも手を動かしながら笑う。こうしていると、旅から帰ってきた直後を思い出す。あのときも大量の紙を机へ広げた。だが、あの頃はまだ一つ一つが別々の研究だった。今は、その中から一冊ができている。違いは大きかった。エリアスは最後の束を確認し、紛れ込んでいた一枚を抜き出した。
「これはこっちだな」
「何?」
「元の手控え。完成稿じゃない」
別の束へ移す。もう一度、机の上を見る。完成した第一巻。その根拠となった論文や記録。今後の研究に残しておくもの。区別はついた。これなら、完成稿を完成稿として扱える。出版へ進めるために、第一巻そのものをまた紙の山から探し出す必要もない。
「よし」
エリアスは満足して椅子へ背を預けた。
「これでいい」
「終わり?」
「ああ」
「今度こそ?」
「しつこいな」
「誰のせいよ」
返す言葉がない。エリアスは完成稿を見た。まだ売れてはいない。そもそも、まだ刊行すらされていない。どれほど読まれるかも分からない。金になる保証もない。名前がどこまで広がるのかも分からない。
「売れるといいわね」
「売れる」
「言い切った」
「売れてもらわないと困る」
エリアスは指を折る。
「次の旅の金。うまい飯。酒」
「そこまでは分かる」
「あと女」
「それは本の売上と関係ある?」
「金と名声が増えれば可能性は上がる」
「そういうものかしら」
「上がると信じてる」
「研究より根拠が弱いわね」
「夢にまで厳密な根拠を求めるなよ」
リリアナが肩をすくめる。エリアスは笑った。別に、それだけのために作った本ではない。だが、それを理由に金や名声を欲しがるのをやめる気もなかった。旅をして魔法を集める。論文を書く。本にする。売れれば金になる。名前も広がる。その金で、また旅ができる。旅先ではうまいものを食い、酒を飲み、気に入った女がいれば口説く。そして、また魔法を見つける。
「悪くないな」
「何が?」
「この先」
「まだ何も決まってないでしょう」
「だからいいんだよ」
エリアスはそう言って、机の上の紙を片づけ始めた。完成稿だけは、最後まで中央に残した。第一巻。ようやく作った、自分の魔導書だ。あとはこれを出版へ進めればいい。その先でどうなるかは、今のエリアスが決めることではなかった。
売れるかもしれない。思ったほど売れないかもしれない。評判になるかもしれない。研究者たちから細かいところを突かれるかもしれない。それでも、完成したという事実は変わらない。エリアスが各地を歩き、見つけ、調べ、書いたものは、もう一冊になっている。それで第一巻は終わりだった。だから、次に何かを見つけても。
「そういえば」
リリアナが言った。
「ん?」
「あなた、こういう話は好き?」
「どういう話だよ」
「変わった魔法の話」
エリアスの手が止まった。
「内容による」
「遠いところに、妙な魔法を使って暮らしている村があるらしいって」
数秒、沈黙した。
「……どんな魔法?」
「そこまでは知らない」
「何に使う?」
「知らない」
「誰が使ってる?」
「だから、詳しいことは知らないって」
エリアスは眉を寄せた。
「情報が少なすぎる」
「噂だもの」
「場所は?」
「遠いところ」
「雑だな」
「噂だもの」
二度言われた。エリアスは黙る。詳しいことは何も分からない。どんな術式なのか。何のために使うのか。誰が使っているのか。体系化された魔法と比べて何が違うのか。そもそも、本当にそんな魔法があるのか。分からない。だからこそ。
「……面白そうだな」
「そう言うと思った」
リリアナが笑う。エリアスは机の上の完成稿を見た。もし本当に変わった魔法があるなら、調べてみたい。術式を見たい。使っている人間に話を聞きたい。なぜそこで、その魔法が必要になったのか知りたい。実際に使われるところも見たい。調べる価値があれば論文にする。そこまで考えて、エリアスは完成稿へ手を伸ばしかけた。途中で止める。
「……いや」
「何?」
「これは関係ないな」
手を引いた。第一巻は完成している。今聞いた噂を調べたとしても、そこへ追加する必要はない。新しい魔法が見つかるたびに第一巻を開き直していたら、いつまで経っても出版へ進められない。
「もう一冊ある」
リリアナが首を傾げる。
「あるの?」
「これから作ればある」
「気が早いわね」
「最初から一冊で終わるつもりはない」
エリアスは椅子から立ち上がった。妙に身体が軽かった。旅から戻ってから、ずっと紙と向き合っていた。論文を選び。並べ直し。足りないところを確かめ。一冊になるまで読み直した。それが終わった途端、遠い土地の魔法の噂が飛び込んできた。出来すぎている気もする。だが、悪くない。
「行くの?」
リリアナが聞いた。
「まだ行かない」
エリアスは答えた。
「こいつを出版へ進める準備を終えたところだからな」
机の上の第一巻を見る。完成した。準備も整った。なら、今すぐ何かを付け足す必要はない。そして、まだ出発する必要もない。だが、次に何をするかは見えてきた。
「世界は広いな」
「今さら?」
「知ってたけど、また思った」
知らない魔法がある。自分が歩いていない土地がある。そこで暮らす人間がいて、自分の知らないやり方で魔法を使っている。第一巻を作ったからといって、それがなくなるわけではない。むしろ、一冊を作り終えたからこそ、次を拾いに行ける。エリアスは完成稿を手に取った。ずしりとした重さがある。旅をして、研究して、書いて。ようやく形になった一冊。
これを未完成へ戻す理由はない。新しく見つけるものには、新しい場所を用意すればいい。エリアスは笑った。一冊目は完成した。なら、二冊目を作ればいい。




