第57話 一冊目
最後の一頁を読み終えても、エリアスはすぐには顔を上げなかった。机の上には、第一巻の完成稿が置かれている。掲載するものは決めた。順番も決めた。一冊として読み直したことで見つかった不足も、旅の手控えや元の論文を引っ張り出して埋めた。
確認できなかったことは、確認できなかったこととして扱った。推測を書く必要がある箇所では、それがエリアス自身の考察だと分かるようにした。それでも成立しないものは外した。もう、大きく手を入れるところは残っていない。
「……もう一回読むか」
「何回目?」
向かいに座っていたリリアナが聞いた。
「最初からなら三回目」
「部分的に読み直したのは?」
「数えてない」
「でしょうね」
呆れた声だった。エリアスは最初の頁へ戻る。
「でも、これで最後だ」
「さっきも聞いた気がする」
「今度こそ最後」
「それも聞いた」
「うるさいな」
言い返しながら、一頁目を開いた。最初に目へ入るのは、旅の途中で見つけた魔法だった。術式。発動条件。体系化された魔法との比較。そこまでは、アウローラで積み重ねてきた知識がものを言う。見慣れない術式でも、何が起きているのかを分解し、既存の理論と照らし合わせれば見えてくるものがある。だが、その横には、それだけでは終わらない記述がある。
どんな土地で使われていたのか。誰が使っていたのか。何のために必要とされていたのか。実際には、どんな場面で使われていたのか。エリアスは頁をめくった。農村で見た魔法がある。毎日の仕事の中で、ごく普通に使われていた。使っている者たちは、それを特別なものだとは思っていなかった。次の頁には、冒険者たちの魔法がある。
危険な場所を歩き、生きて帰るための工夫。派手さはない。威力だけを比べれば、エリアスが使う魔法の方が遥かに強い。それでも、彼らの仕事には彼らの魔法が必要だった。さらに進める。海で見た魔法。船の上で暮らす者たちが使っていた術。風や潮と付き合いながら働くための、小さな工夫。
雪国で見たものもある。寒さの中で生活する者にとっては、強力な攻撃魔法より役に立つこともある。異なる種族の土地で見つけた魔法。竜たちの土地で記録したもの。旅をした順番には並んでいない。だが、一冊として読むと、それぞれが前後の研究とつながっていた。似た目的から、まったく違う術が生まれていることがある。逆に、形の似た魔法でも、必要とされた理由は違うことがある。
体系的な知識があるから比較できる。現地へ行ったから、その違いがどこから生まれたのかを考えられる。
「……ここ」
エリアスの指が止まった。リリアナが顔を上げる。
「まだ何かあった?」
「いや」
一文を読む。もう一度読む。
「言い方が気に入らない」
「それは不足じゃないでしょう」
「最後だからいいんだよ」
ペンを取り、短く書き直す。読み返す。
「よし」
「本当に終わるのかしら」
「終わらせる」
エリアスは次の頁へ進んだ。やがて、消えかけた魔法へ辿り着く。そこで少しだけ手が止まった。今も当たり前に使われている魔法とは違う。かつては必要だった。だが、今は別の方法がある。より便利なものが広まり、わざわざ古い魔法を使う者が減っている。だからといって、残すべきだとは書かなかった。残すかどうかを決めるのはエリアスではない。
その土地で暮らす者たちが、必要なら使う。必要がなくなれば、使わなくなることもある。エリアスが書いたのは、自分が確かめられたことだった。どんな魔法だったのか。誰が使っていたのか。なぜ必要とされたのか。そして、なぜ今は使う者が減っているのか。そこに自分の分析を加える。事実と考察を混ぜない。それで十分だった。頁をめくる。また一つ。また一つ。
旅先で書いた頃には、それぞれ独立した論文だった。今は違う。一つ前の研究が、次の研究を見るための材料になる。離れた土地の魔法が、別の土地で見た魔法との比較によって違う顔を見せる。一冊にしたからこそ分かることがある。エリアスは途中で何度かペンを取った。言葉を一つ変える。説明を少し整える。参照する箇所を確認する。
それ以外には、ほとんど触れなかった。直そうと思えば、いくらでも直せる。もっと詳しく書こうと思えば書ける。別の土地へ行けば、新しい比較材料も見つかるかもしれない。知らない魔法など、世界中にいくらでもある。次に旅へ出れば、また何か拾うだろう。そうなれば、今ある研究に付け加えたいことも出てくる。だが。
「それをやってたら終わらないな」
エリアスが呟いた。
「やっと気づいた?」
「とっくに気づいてる」
「なら、どうして三回も最初から読んでるの?」
「最後の確認は別だ」
「そういうことにしておくわ」
リリアナの返事を聞き流し、エリアスは先へ進む。もう、世界中の魔法を全部集めるつもりはない。最初から、一冊で終わらせる必要もないと思っていた。問題だったのは、どこで一冊目を終わらせるかだった。その区切りは、もう決めている。これは、この旅で拾った魔法の本だ。
自分の目で見た。人から聞いた。実際に使われるところを見た。調べた。解析した。論文にした。その中から、今の自分が責任を持って書けるものを選んだ。なら、ここから先に見つけるものまで、この一冊へ押し込む必要はない。
「……よし」
最後の頁をめくった。そこまでだった。次の頁はない。エリアスはしばらく、その最後を見つめた。
「終わった?」
リリアナが聞く。
「ああ」
「直すところは?」
「ない」
「本当に?」
「今見つけてないものまで探し始めたら、永遠に完成しない」
「それはそうね」
エリアスは完成稿を最初から揃え直した。ばらばらにならないよう、一つにまとめる。持ち上げると、ずしりと重かった。以前、第一巻へ入れる論文を選んだときにも感じた重さだ。だが、今は違う。あの時はまだ、論文の束だった。今、手にしているものには最初があり、最後がある。読む順番がある。一つ一つの魔法に、その魔法があった場所がある。
使っていた人間がいる。暮らしがある。エリアス自身の解析があり、体系化された知識との比較がある。旅の途中で別々に拾ったものが、一冊の中へ収まっていた。
「一冊だな」
思わず口から出た。リリアナが完成稿を見る。
「ええ」
「俺の魔導書だ」
「そうね」
「売れると思う?」
「今それを聞くの?」
「大事だろ」
エリアスは完成稿を机へ置いた。
「これだけ働いたんだ。売れてもらわないと困る」
「急に台無しね」
「何がだよ。金は大事だ」
旅には金がかかる。宿代。食事。酒。移動。研究にも何かと金は要る。第一巻が売れれば、次の旅もずっと楽になる。それだけではない。
「名前も売れるな」
「それは売れるんじゃない?」
「だよな」
大賢者アドルフ・ヴァイスの最後の弟子。それだけでも人の興味は引くだろう。そこへ、自分で各地を旅して集めた魔法を一冊にして出す。肩書きだけではなく、実績が一つ増える。
「本まで出したとなれば、今まで以上にモテるかもしれない」
「そこへ行くのね」
「当然だろ」
「本を出した男だからって理由で寄ってくる女が、そんなにいるとは思えないけど」
「一人でも増えれば成功だ」
「志が高いんだか低いんだか分からないわね」
「高いだろ。世界中の魔法を拾いながら、金も名声も女も手に入れる」
「欲張り」
「知ってる」
エリアスは笑った。笑ってから、もう一度完成稿を見る。金になる。名前も広がる。次の旅にもつながる。モテるかもしれない。どれも楽しみだった。だからといって、この一冊の価値がそれだけになるわけでもない。頁を開けば、旅をした土地がある。そこで暮らしていた人間がいる。何気なく使われていた魔法がある。消えかけていた魔法もある。
エリアスが来なくても、彼らはそこで暮らしていた。これからも暮らしていく。その中のほんの一部を、自分は見て、聞いて、調べた。そして今、それが本の中に残っている。
「悪くない旅だったな」
エリアスが言うと、リリアナが少しだけ目を細めた。
「まだ終わってないでしょう?」
「この一冊分は終わった」
エリアスは完成稿の表面を、手のひらで軽く叩いた。これ以上は足さない。次に見つける魔法は、次に考えればいい。今ここにあるものを、この旅で作った一冊として完成させる。そう決めて、手を離した。
「完成だ」
短い言葉だった。だが、それで十分だった。旅へ出る前には、何もなかった。魔導書を作ると言ってアウローラを出て、各地を歩いた。魔法を見つけた。人と話した。調べた。論文を書いた。酒を飲んだ。うまいものも食った。女を口説いて、うまくいった夜もあれば、失敗したこともある。危ない目にも遭った。それでも旅を続けて、持ち帰ったものを一つずつまとめた。
その結果が、今、机の上にある。エリアスは椅子へ深く座り直した。完成稿を眺めていると、自然と口元が緩む。第一巻。世界中の魔法を集めた本ではない。そんなものは、まだ作れない。これは、エリアスがこの旅で拾った魔法をまとめた一冊だった。それでいい。いや。それがいい。あとは、この完成稿を出版へ進められるよう整えるだけだ。
エリアスは机の上の一冊を見つめた。長かった旅が、ようやく一つの形になっている。魔導書第一巻。完成だった。




