第56話 書けること、書けないこと
目次の横には、昨夜書き出した紙が置かれていた。足りない説明。つながりの弱い箇所。一冊として読み直したからこそ見えた穴が、いくつも並んでいる。エリアスはその一つに目を通し、机の端に積んであった旅の手控えへ手を伸ばした。
「さて」
術式の解析を最初からやり直す必要はない。そこは論文として終わっている。必要なのは、その周りにあるものだった。現地で誰から聞いたのか。どんなときに使われていたのか。使わないときは、なぜ使わないのか。論文を書いた時点では脇に置いた話でも、一冊の中では必要になるものがある。エリアスは手控えを開いた。
旅の途中で書き込んだ文字が、頁いっぱいに残っている。きれいに整理された研究記録ばかりではない。魔法について聞いた話の横に、その日の食事の感想がある。酒の感想や宿代の高さ、酒場で声をかけた女性に断られたことまで混ざっていた。
「……これはいらないな」
「何が?」
向かいにいたリリアナが顔を上げる。
「研究には関係ない記録」
「見せて」
「嫌だ」
「どうして?」
「嫌だからだ」
「余計に気になるんだけど」
「お前は第一巻を読む係だろ。俺の日記を読む係じゃない」
「日記だったの?」
「手控えだ」
エリアスは頁をめくった。今度はまともな記録が出てくる。現地で聞いた話。実際に魔法が使われた状況。使い手の言葉を聞いたときに、その場で気になったこと。後から調べようと残した疑問。旅をしていたときには、いずれ論文へ使うかもしれない程度のつもりで書いたものも多い。だが、今になって役に立った。
「ここだ」
エリアスは一つの記述を見つけ、元の論文と見比べた。魔法式の説明は十分にある。発動条件も整理している。しかし、実際に使っていた者が状況によって別の方法と使い分けていたことは、論文では短くしか触れていなかった。手控えには、そのとき交わした会話まで残っている。
「書けるな」
エリアスは新しい紙を引き寄せた。自分で見たこと、聞いたこと、そこから確実に言えることだけを拾い、足りなかった説明を加えていく。リリアナが横から覗き込んだ。
「そこまで書くの?」
「一冊で読んだら、ここがないと分かりにくかったからな」
「論文だけなら必要なかった?」
「なくても成立してた。けど、こっちではあった方がいい」
同じ研究でも、本の中へ置けば役割が少し変わる。前後の項目と比較して読む者がいる。その土地を知らない者が読む。術式だけを見て、なぜそんな小さな魔法が必要なのか疑問に思う者もいるだろう。その疑問に答えられる記録が、エリアスの手元には残っていた。
「旅しながら、よくこんなに書いたわね」
「後で使えると思ったからな」
「酒の感想も?」
「それは別の意味で使える」
「何に?」
「次に行ったとき、同じ酒を頼める」
「研究熱心ね」
「大事だろ」
リリアナは呆れた顔をしたが、否定はしなかった。エリアスは次の箇所へ移った。今度は、消えかけていた魔法だった。かつては必要とされていた。今も使える者はいる。だが、以前より便利な方法が広まり、わざわざその魔法を使う者は減っている。元の論文にも、その事実は書いてある。
ただ、読み返してみると、エリアス自身の関心が少し前へ出すぎている箇所があった。
「……ここは直すか」
「どこ?」
「これ」
リリアナへ紙を渡す。彼女はしばらく読んでから、該当箇所へ指を置いた。
「残す価値がある、ってところ?」
「そう」
「間違いではないでしょう?」
「俺が記録する価値があると思ったのは本当だ」
エリアスは手控えを開いたまま答えた。
「でも、それと現地の連中が使い続けるべきかは別だろ」
昔からある。珍しい。消えようとしている。だから残すべきだ。そう決めるのは簡単だった。だが、その魔法を毎日の暮らしで使うのはエリアスではない。もっと便利な方法があるなら、そちらを選ぶ者もいる。覚える手間が大きいなら、子や孫へ教えない者もいる。それを外から来た研究者が惜しんだからといって、使い続けろと言う理由にはならない。
「消えるなら、消える理由も書けばいい」
エリアスは言った。
「残ってるなら、残ってる理由を書く。それで十分だ」
「保存しようとは思わない?」
「記録は残す」
「魔法そのものは?」
「俺が決めることじゃない」
リリアナが少しだけ目を細めた。
「あなた、旅に出る前からそうだった?」
「何が?」
「そういうところ」
「知らん」
エリアスは肩をすくめた。
「少なくとも、旅に出る前は消えかけた民俗魔法をこんなに見るとは思ってなかった」
「それはそうね」
「見たから書ける。それだけだ」
余計な一文を削り、現地で聞いた理由を補う。使われなくなりつつある事実は変えない。惜しいと思った自分の感想と、使い手自身の選択も混ぜない。それで、その項目は前よりすっきりした。次も同じように確認していく。元の論文、旅の手控え、聞き取った内容、自分で見た場面。材料が揃っているものなら補える。書き方が足りなかっただけなら、直せる。
だが、すべてがそうではなかった。
「……これは駄目だな」
エリアスの手が止まった。手控えを前後まで読み返す。別の記録も探す。元の論文へ戻り、解析結果と照らし合わせる。それでも、欲しい答えはなかった。
「何が?」
「使い分けの理由」
エリアスは該当する記録を指した。
「二通りあるところまでは見てる。けど、どういう条件でどっちを選ぶのか、俺は聞いてない」
「術式から推測は?」
「できなくはない」
発動条件の違いは分かる。魔力の流れにも差がある。体系魔法との比較から、こうではないかと考えることもできる。だが、それはエリアスの推測だ。現地の使い手が、実際に同じ理由で選んでいた証拠はない。
「それを、そのまま書く?」
「まさか」
「推測だと明記するなら?」
エリアスは少し考えた。そして首を横に振った。
「この項目ではいらないな」
「どうして?」
「第一巻に入れたいのは、俺が旅で拾って、確かめた魔法だ。ここだけ推測を膨らませても仕方ない」
理論として考えること自体はできる。それは別の研究になるかもしれない。だが今作っている本の穴を埋めるために、分からない部分へ都合のいい答えを置くのは違う。
「分からないなら、分からないでいい」
エリアスはその箇所へ印をつけた。
「必要なら、確認できてないって書く。それで本として成立しないなら――」
「外す?」
「ああ」
せっかく第一巻へ入れると決めたものでも、載せるために事実を作る気はない。旅の範囲を広げる必要もなかった。今から遠くの土地へ戻って一つずつ聞き直していたら、いつまで経っても第一巻は完成しない。そもそも、全部を集めるまで本にできないから区切ったわけではない。世界にはまだ知らない魔法がある。調べ足りないものもある。
だからこそ、今までに確かめたものを第一巻にする。その線を、ここで曖昧にする必要はなかった。
「これは残す。未確認の部分は断定しない」
一つを分けた。
「これは補足できる」
別の一枚も確かめる。
「これは……外す」
紙束から一つを抜き、別の束へ移す。捨てるわけではない。今の第一巻へ入れないだけだ。いつか続きを調べてもいい。別の研究へ使ってもいい。二冊目以降に入ることだってあるかもしれない。だが、今は書けない。それでよかった。
「容赦ないわね」
「何が?」
「昨日まで入れるつもりだったんでしょう?」
「入れられるなら入れたい」
「でも外す」
「分からないものを分かったことにするよりはいいだろ」
「それはそう」
リリアナは外された紙を手に取り、少し眺めてから元の場所へ置いた。
「じゃあ、こっちは?」
「どれ?」
「この記述。あなたの観察と、現地で聞いた話が混ざってる」
エリアスは受け取り、読み直した。
「ああ、本当だ」
「どこまでが確認できたこと?」
「ここまで。こっちからは俺の推測だな」
「なら分けた方がいい」
「そうする」
リリアナは問いかける。だが、答えを決めるのはエリアスだった。旅をし、魔法を見て現地の人間から話を聞き、解析して論文にしたのは自分だ。何を書けるのか。何を書けないのか。最後に線を引く責任まで、他人へ渡すつもりはなかった。確認を続けているうちに、横へ積んでいた手控えの山が低くなっていった。補足した箇所には印がつく。
曖昧だった記述は整理される。断定できないものには、そのことが分かる形で線が引かれる。どうしても成立しないものは外した。最後の一枚を確認し終えたところで、エリアスは大きく息を吐いた。
「終わった」
「本当に?」
「たぶん」
「今の一言で信用できなくなったわ」
「じゃあ確認しろ」
「するわよ」
リリアナが当然のように答える。エリアスは笑って、椅子の背にもたれた。机の上には、第一巻へ入れる原稿が並んでいる。昨日より少し減った。代わりに、書いてあることと、書いていないことの境目ははっきりした。見たものは書く。聞いた話はその人の言葉として扱い、自分の解析には根拠を示す。分からないことは勝手に埋めない。
それでも残ったものだけで、一冊は作れる。
「これなら」
エリアスは一番上の原稿を手に取った。
「最後まで読めるな」
「次は?」
「最初から全部読む」
「また?」
「今度で最後だ」
そう言ってから、エリアスは少し考えた。
「……最後にしたい」
「弱くなったわね」
「うるさい」
笑いながら、原稿を揃える。不足を探すための作業は終わった。残っているのは、この一冊を最初から最後まで確かめること。そして、自分で決めることだった。これを、第一巻にすると。




