第55話 魔法の向こうにいる人
机の上に残ったのは、第一巻へ入れると決めた論文だった。昨日までなら、それだけでずいぶん片づいたように見えたはずだ。実際、数は減っている。載せないものは別に分けた。確証の足りない記録も、まだ調べたいものも、捨てずにまとめてある。問題は、残った方だった。
「……これ、そのまま綴じたら読みにくいな」
エリアスは椅子にもたれ、目の前の紙束を眺めた。一つ一つは論文として完成している。だが、書いた場所も時期も違う。最初に見つけた宿場町の魔法と、農村で集めた魔法。冒険者たちが使っていたもの。海で見たもの。雪国で必要とされていたもの。異なる種族の土地で調べたものもあれば、竜たちの土地で記録したものもある。
その時々で、エリアスが何を重要だと考えたかも少しずつ違っていた。土地と使い手には、最初から目を向けていた。誰が使っているのか。どこで使われているのか。何のための魔法なのか。そこを無視して術式だけ抜き出したところで、民俗魔法を調べる意味が薄くなる。それくらいは旅へ出た頃から分かっていた。ただ、旅を続けるうちに見るものが増えた。
仕事。気候。周囲の環境。同じ魔法でも、いつ使い、いつ使わないのかという使い手自身の判断。今も残っている理由。反対に、使われなくなっていく理由。後になって重要だと分かったことほど、古い論文では扱いが薄い場合がある。
「一冊にするって、面倒だな」
「今さら?」
向かいから声が返ってきた。リリアナは一つの論文を読みながら、顔も上げない。
「論文を書くより面倒だとは思わなかった」
「別々に書いたものを一冊にしようとしてるんだから、当然でしょう」
「もっとこう、並べて終わるものかと」
「それでいいなら昨日終わってるわよ」
「だよな」
エリアスはため息をつき、紙束の一つを引き寄せた。リリアナがいることにも、もう妙な緊張はない。一夜を共にした翌朝には多少意識したものの、その後もこうして研究の話を続けていれば、結局はこれまでと同じように議論になる。違うところがあるとすれば、以前より遠慮が減ったことくらいだ。
「これ」
リリアナが一枚の紙を持ち上げた。
「術式の解析は分かりやすい」
「だろ?」
「でも、この土地でどうしてこの魔法が使われていたのか、前の説明を読まないと分からない」
「……ああ」
「こっちは逆。使っていた人たちの話は詳しいけど、体系魔法との比較が離れすぎてる」
別の紙が机へ置かれる。エリアスは二つを見比べた。単独の論文として読むなら問題はない。だが一冊の本として続けて読むと、確かにばらつきが目立つ。
「全部、同じ形に揃えるか」
「どう揃えるの?」
「魔法式、発動条件、体系魔法との比較。それから土地、使い手、用途……」
「それだけ?」
「まだある。必要とされた理由と、実際の使われ方」
口にしながら、エリアスは新しい紙へ項目を書き出していった。リリアナが横から覗き込む。
「ずいぶん増えたわね」
「旅したからな」
「それ、答えになってる?」
「なってるだろ」
エリアスはペン先を止めなかった。魔法式を解析するだけなら、アウローラでもできることは多い。体系化された知識があるからこそ、見知らぬ魔法を既存の理論と比較できる。発動条件を整理し、どこが共通し、どこが異なるのかを示すこともできる。それは旅へ出た今も変わらない。
むしろ、アウローラで学んできたものがなければ、これほど多くの民俗魔法を短期間で解析することはできなかっただろう。だが、それだけでは拾えないものもあった。雪の中で使われる魔法を、暖かな研究室で術式だけ見ても、そのありがたさまでは分からない。
海の上で使われる小さな工夫も、船に乗らなければ、それが日々の仕事のどこに組み込まれているのか見えない。強いか弱いか。新しいか古いか。そんな物差しだけでは、旅先で見た魔法の価値を測れなかった。
「よし」
書き終えた紙を、机の中央へ置く。
「一つの魔法につき、最低でもこの辺りは分かるようにする」
「全部同じ分量で?」
「いや。それは無理だ」
エリアスは即答した。
「魔法によって必要な説明が違う。使い方が単純なものを無理に長くする意味はないし、逆に土地の環境を説明しないと分からないものもある」
「じゃあ、項目は揃えるけど、書き方までは揃えない?」
「そんな感じだな」
「それなら読めそう」
「だろ?」
「まだ読んでないけど」
「お前な」
リリアナが笑う。エリアスはその顔を見てから、再び紙へ目を落とした。形は見えてきた。次は順番だった。旅をした順に並べるのが一番簡単だ。最初の町から始まり、次の土地へ進み、最後にアウローラへ帰ってくる。だが、それでは旅の記録としては分かりやすくても、魔導書として読む意味が弱い。
「旅程順はやめるか」
「そう思う」
「即答だな」
「だって、それだとあなたの旅行記でしょう?」
「それはそれで売れそうだけどな」
「女遊びまで書くなら売れるかもね」
「絶対書かない」
「残念」
リリアナは楽しそうに言った。エリアスは軽く睨んでから、論文を何束かに分け始める。生活の中で使われていたもの。仕事と強く結びついていたもの。環境への対処として生まれたもの。今も日常の中に残っているもの。使う者が減り、消えつつあるもの。ただ、それだけで完全に分類できるわけでもない。一つの魔法が複数の意味を持つこともある。
そこでエリアスは、分類そのものより、前後に置いた研究同士が何を見せるかを考えた。
「これと、こっち」
紙を二つ並べる。
「場所は全然違うけど、考え方は近い」
リリアナが目を通す。
「環境への対処?」
「そう。同じくらい小さな魔法でも、必要とされた理由が違う。こっちを先に読んでからこっちを見ると、その違いが分かりやすい」
「なるほど」
「で、その次にこれ」
「どうして?」
「似た用途なのに、今度は使い手の判断が違うから」
また一つ、紙が移動する。最初はただ積まれていた論文が、少しずつ列になっていく。エリアスは並べては読み、違うと思えば戻した。リリアナも横から口を出す。
「これは離した方がいいんじゃない?」
「なんで?」
「続けると同じ種類の魔法に見える。実際は成立した理由が違うでしょう」
「……確かに」
「こっちは近くてもいいと思う」
「それは俺も考えてた」
「なら早く置きなさいよ」
「今考えてるんだよ」
そんなやり取りを繰り返すうちに、窓から差し込む光の角度が変わっていた。エリアスは一度立ち上がり、凝った肩を回す。机を見る。朝には雑然としていた紙の束が、今は意味を持った順番で並んでいる。魔法式を調べたい者なら、必要な箇所へ辿り着ける。体系魔法との違いを知りたい者にも、比較できる材料がある。だが、その先には土地がある。
誰かが暮らしていた場所があり、そこで魔法を使った理由がある。人がいる。魔法だけが宙に浮いているわけではない。
「……これなら」
エリアスは並んだ紙を見渡した。
「魔法の本として読めるな」
「最初から魔法の本でしょう?」
「そういう意味じゃない」
「分かってる」
リリアナはそう言って、最後の束を机へ置いた。エリアスは新しい紙を一枚取り出した。そこへ、今決めた順番を書いていく。一項、二項、三項と記す。旅をした順番とは違う。けれど、並べ直したことで、離れた土地で使われていた魔法同士が思いがけないところでつながって見えた。同じ必要から、違う形が生まれている。
似たような小さな魔法でも、土地が変われば役割が変わる。体系的な理論で比較できる部分があり、現地を見なければ分からなかった部分がある。その両方が、一冊の中にある。
「できた」
エリアスはペンを置いた。第一巻の目次。まだ完成した本ではない。だが、ようやく論文の束ではなくなった。最初から最後まで、一冊として読むための道筋ができている。
「じゃあ、読んでみる?」
リリアナが言った。
「最初から?」
「当然」
「今日はもう十分働いた気がするんだけど」
「完成させたいんでしょう?」
「金になるからな」
「はいはい」
「名も売れる」
「そうね」
「モテる」
「それはどうかしら」
「そこだけ疑うなよ」
エリアスは文句を言いながら、最初の頁を手に取った。目次に従い、一つ目の研究から読み始める。今度は、一つの論文を確認するためではない。一冊の魔導書として読むために。読み進めるほど、並べ直した効果が見えてきた。前の項で示した比較が、次の項を理解する助けになる。土地の違いが、魔法の形の違いとして見える。
一方で、別々に書いた論文をつないだからこそ気づくものもあった。
「……ここ、薄いな」
エリアスの指が止まった。術式の解析は足りている。だが、その魔法が実際にどう使い分けられていたのかという説明が、他と比べて少ない。少し先へ進む。また一つ。今度は、土地の説明と体系魔法との比較がうまくつながっていない。リリアナも気づいたらしく、その箇所へ視線を落とした。
「並べる前は気にならなかったわね」
「ああ」
一つずつなら完成していた。けれど、一冊として並べたから見える穴がある。エリアスは目次の横へ、別の紙を置いた。そして、気づいた箇所を書き留めていく。第一巻の形は決まった。だからこそ次にやることも、はっきりした。この本に残っている穴を、一つずつ確かめることだった。




