第54話 一冊目に入れるもの
机の上には、旅が積み上がっていた。論文、旅先の手控え、書きかけの考察、現地で聞いた話を忘れないうちに残した紙片。その隣には、第一巻にまとめるための編集稿もある。エリアスは椅子へ深く座り、目の前の紙の山を眺めた。
「……多いな」
旅をしていた頃は、増えるたびに喜んでいた。一つ見つければ一つ調べる。調べれば論文にする。論文が増えれば、それだけ魔導書へ近づいていると思っていた。実際、その考えは間違っていない。ただ、論文を増やすことと本にすることは違った。
「これ、全部そのまま入れたら本じゃないな」
紙の山、それもかなり分厚いものになる。エリアスは一番上の論文を読んで机の端へ置き、次の一枚にも目を通した。しばらくして、机の上にはいくつかの山ができ始めた。第一巻に入れるもの、補足が必要なもの、今回は入れないもの。分け方は単純だが、一枚一枚をどこへ置くかは難しい。
「これは入れる」
農村で見つけた生活魔法の論文を、第一巻の山へ置く。派手ではない。大賢者の弟子であるエリアスなら、もっと高度な術をいくらでも使える。だが、その魔法は土地の暮らしの中から生まれ、そこで生きる人間が必要としたから残っていた。魔法式だけを見れば小さな術でも、その土地ではちゃんと役に立っていた。次は、冒険者たちの間で使われていた魔法。これも入れる。戦闘そのものではエリアスの方が強い。それでも、野外で生き、仕事をこなし、危険な場所を歩くための工夫については、彼らの方がずっと詳しかった。続いて、海で集めた船上の術、雪国の寒さと雪の中で生きるための魔法を選んだ。消えかけていた火の魔法を手にすると、エリアスの手が止まった。
「……これも入れる」
紙を第一巻の山へ置く。今も普通に使われているものだけを集めるつもりはない。消えつつあるなら、消えつつあるという事実まで含めて書けばいい。残すべきだと勝手に決める必要もない。使い続けるかどうかを決めるのは、その土地で暮らす人間だ。エリアスができるのは、自分が見たものを記録することだけだった。
「ずいぶん増えたわね」
声に顔を上げる。リリアナが、机の反対側から紙の山を見ていた。
「旅したからな」
「見れば分かるわ」
「これが全部金になると思うと、感慨深い」
「さっきまで真面目な顔してたのに」
「真面目に金のことを考えてる」
「そう」
もう慣れたらしい。リリアナは呆れたように言っただけで、それ以上は突っ込まなかった。エリアスは次の紙を取る。少し読んでから、第一巻とは別の山へ置いた。リリアナがそれを見る。
「それは入れないの?」
「まだ弱い」
「魔法が?」
「根拠が」
エリアスは紙を指先で叩いた。
「見たことは見た。話も聞いた。ただ、俺が確かめられたところが少ない。これを今のまま入れたら、どこまでが確認できたことで、どこからが推測なのか分かりにくくなる」
「じゃあ捨てる?」
「なんでだよ」
即答すると、リリアナが少し笑った。
「聞いてみただけ」
「調べ切れてないだけで、価値がないわけじゃない。次に近くを通ることがあったら調べてもいいし、別の魔法と比較できるかもしれない」
第一巻に入れない山へ置く。
「二冊目以降に使えるかもしれないしな」
「もう次の本の材料?」
「使えるものは取っておくだろ」
「まだ一冊目も完成してないのに」
「一冊目を作ってるからだよ」
エリアスは肩をすくめた。
「何でも突っ込んでたら、いつまで経っても終わらない」
それはもう分かっている。世界中の魔法を拾い終えてから本を作る必要はない。ここまでを第一巻にする。その区切りは、すでに決めた。今やっているのは、その決断をもう一度することではない。決めた範囲の中から、実際に一冊へ入れるものを選ぶ作業だ。エリアスはまた一枚取った。論文を読み、横に置いた旅の記録を開く。
魔法式と解析は揃っている。使われていた土地も分かる。誰が使っていたかも書いてある。なぜ必要だったのか。どんな場面で使われていたのか。そこまで確認して、第一巻の山へ移した。逆に、面白いというだけのものは止める。珍しく、初めて見たとしても、それだけでは足りない。エリアスが作ろうとしているのは、旅の思い出を並べた本ではなかった。
かといって、魔法式だけを抜き出して並べるつもりもない。それなら、わざわざ自分が各地を歩いた意味が半分なくなる。魔法は、何もないところから勝手に生えてきたわけではない。洗濯をする人がいた。畑で働く人がいた。危険な土地を歩く者がいた。海で暮らす者がいた。雪の中で冬を越す者がいた。必要だったから使われた。便利だったから残った。
もっと便利なものが現れて、使われなくなっていった魔法もある。その全部を、同じ価値だと言うつもりはない。だが、魔法式だけを切り取れば見えなくなるものがある。
「リリアナ」
「なに?」
「これ、読んでみてくれ」
エリアスは一つの論文を差し出した。リリアナが受け取り、目を通す。途中で眉がわずかに寄った。
「ここ、比較している相手が分かりにくい」
「やっぱり?」
「あなたには分かるんでしょうけど、初めて読む人には飛んで見えると思う」
「そこは補足だな」
エリアスは別の山へ移す。
「あと、こっちは?」
「これは分かる。どういう場所で使われていたかも先に書いてあるから」
「なら入れる」
「私が決めるの?」
「決めるのは俺だよ。読んで分かるか聞いてるだけ」
「はいはい」
リリアナが次の紙を取った。それからしばらく、二人は机を挟んで紙を読み続けた。時折、リリアナが疑問を口にする。エリアスが答える。答えられるものは残す。記録を見れば確かめられるものは、補足する側へ。答えが曖昧なものは、無理に第一巻へ入れない。選ぶほど、山は減るどころか形を変えていった。論文だったものが、本の材料になっていく。
旅の途中では、一つ一つ別々に書いていた。農村で書いたもの。冒険者たちと行動したあとにまとめたもの。海で集めたもの。雪国で記録したもの。消えかけた魔法について考えながら書いたもの。その時は、それぞれ一つの研究だった。今は違う。全部が、一冊目のための材料として同じ机の上にある。
「……悪くないな」
エリアスが呟く。
「なにが?」
「いや」
第一巻へ入れる山を見る。まだ本ではない。紙の束だ。編集も終わっていない。補足しなければならないところもある。それでも、旅に出る前には存在しなかったものが、確かにここにある。
「これが本になって売れたら、結構な金になるんじゃないかと思って」
「そっちなのね」
「名も売れる」
「はいはい」
「大賢者の最後の弟子が、旅して集めた魔法を本にするんだぞ。売れない理由があるか?」
「自信だけはあるわね」
「実力もある」
「そういうところよ」
エリアスは笑った。金になり、名も売れ、次の旅の資金にもなる。それに、本まで出したとなれば、今より女にモテる可能性だってある。かなりいい。最初から、そのために始めた旅でもある。だが、机の上に並んでいるものを見ていると、それだけでもなかった。
知らない土地へ行った。知らない魔法を見た。そこで暮らす人間から話を聞いた。自分で試し、考え、調べ、論文にした。その全部を、魔法式だけに削る必要はない。エリアスは最後の一枚を置いた。
「よし」
机の上を見る。第一巻へ入れるもの。補足を確認するもの。今回は入れず、今後のために残すもの。ようやく分かれた。リリアナも三つの山を見比べる。
「決まった?」
「ああ。少なくとも、何を入れるかはな」
「じゃあ、これで一冊?」
「いや」
エリアスは第一巻に入れる紙の束を持ち上げた。ずしりと重い。旅の成果としては気分のいい重さだった。だが、机へ戻すと、ばさりと紙が鳴った。
「これじゃ、まだ論文の束だ」
「でしょうね」
「読む順番もばらばら。書いた時期も場所も、説明の仕方も違う」
選ぶところまでは終わった。次に必要なのは、これを本にすることだ。ただ綴じるのではない。一つずつ別々だった研究を、一冊の魔導書として読める形にする。エリアスは紙の束を見下ろした。
「さて」
口元が上がる。
「どう並べるかな」




