第53話 一冊目を始めよう
第一巻を作る。そう決めてから机の上を見ると、同じ紙の山にも順番があるように見えた。エリアスは旅立って間もない頃の論文を引き寄せる。端がくたびれた紙には、何度も読み返した跡が残っていた。
「最初から読むの?」
向かいに座るリリアナが尋ねた。
「ああ。どれを入れるか決めるなら、一回見直した方がいい」
「全部?」
「その言い方やめろ。昨日から怖くなってきた」
リリアナが笑う。エリアスは最初の一枚を開いた。旅の初めに見つけた生活魔法の、発動条件、魔力量、既存の術式との違い。土地の泥との関係、使い手ごとの差、伝わってきた経緯も書いてある。
「……真面目だな、俺」
「そこは昔からでしょう」
「もっと驚いてくれていいぞ」
「自分で言う?」
次の論文にも土地や使い手についての記録があった。最初から、術式だけを書けば終わりだとは思っていなかったらしい。
「最初から、それなりに見てたんだな。魔法以外も」
「土地とか、使ってる人とか?」
「ああ。同じ現象でも、どこで誰が使うかで意味が違うからな」
何本か読み進めるうちに、記録の厚みが変わっていく。
「ここ、仕事についてかなり書いてる」
リリアナが農村の論文を指した。
「そのあたりからだな。どんな作業の中で必要で、なぜ小さな術式で足りるのか、聞かないと分からなくなった」
さらに進むと、風や雪、海の環境についても書いてある。船上の魔法には、式そのものより使う状況の説明の方が長いものさえあった。
「海じゃ、式だけ拾っても意味を取り違えるからな」
その後の論文には、使い手が魔法を残す理由や、もう使わなくなった理由まで記されていた。エリアスは初期の一枚と最近の一枚を並べる。土地や使い手を調べる姿勢は変わらない。その上に、仕事や暮らし、環境、本人の判断が少しずつ積み重なっている。
「旅してる間に、研究の仕方が広がってたんだな」
「自覚なかったの?」
「一つずつやってたときはな。その土地で必要なことを調べてただけだ」
「面白いわね」
「何が?」
「大賢者の弟子が、旅に出て研究の範囲を広げてること」
「最初からちゃんと研究者だったけどな」
「誰も否定してないでしょう。むしろ、最初のこれができたから、後の調査もできたんじゃない?」
リリアナは古い論文を持ち上げた。エリアスはそこに書かれた術式を見て、アウローラで学んだ知識を思い出す。見知らぬ魔法の発動条件を見極め、既存の術式と比べられたのは、学んだ体系があったからだ。アドルフから教わったことも多い。
「そうだな。旅先の魔法を見つけても、俺が解析できなきゃ論文にはならない」
「でも、アウローラにいたら見つけられなかったでしょう?」
「ああ」
体系があったから理解し、人に説明できた。土地へ行ったからこそ、暮らしの中で何が起きているかを知った。どちらも、机に並ぶ論文から切り離せない。
「じゃあ、本にも両方入れるしかないな」
「術式と背景?」
「そう。魔法式の一覧じゃ、旅で見てきたものの半分も残らない」
エリアスは新しい紙を取り、項目を書き始めた。どこで見つけたか。何に使われ、なぜ必要だったか。
「誰が使ってたかも」
リリアナの声に頷いて書き足す。
「今も使われてるか。使われてないなら、その理由も」
まだ章立ても並び順も決めていない。ただ、何を残す本にするのか、その輪郭が紙の上に現れた。
「これ、全部の魔法に同じだけ書くつもり?」
「いや。式だけで十分なものもあるし、背景がなきゃ意味を失うものもある。一つずつ違う」
「よかった。全部を同じ形式に押し込むのかと思った」
「そこまではしない」
消えかけた魔法なら、なぜ使われなくなったのかも残したい。その違いごと一冊に持っていけばいい。
「ところで、昨日の研究、もう一回やるなら条件を揃えたいんだけど」
リリアナが不意に言い、エリアスの筆が止まった。
「今その話する? 本の話してたよな?」
「してるわよ。思い出しただけ」
「研究対象を急に俺へ戻すな」
「一晩経ってるし、急じゃないでしょう」
「そういう意味じゃない」
「発動回数と種類を揃えて、それから――」
「今は本」
「分かったわよ。あとで」
「諦めてないじゃないか」
エリアスは笑った。一夜を過ごしても、リリアナはリリアナだ。面白い仮説があれば確かめたがる。その調子で本人まで研究対象に入れられるのは困るが、ここまで本気で魔法の話ができる相手は嫌いではなかった。
「で、こっちはどうする?」
リリアナが別の論文を差し出す。
「入れる」
「理由は?」
「式だけじゃ、あの土地で使う意味が伝わらない。背景も残す」
エリアスは新しい紙に印をつけた。次の論文を読み、横へ置く。その次は保留にして、もう一枚を手に取る。机には旅の中で完成させた論文と、それを一冊へ変えるための編集稿が並び始めた。
旅立った頃から、本が売れて金と名声になればいいと思っている。次の旅の費用になり、ついでに女性にもモテれば文句はない。その望みを捨てるつもりはなかった。
ただ、今は分かる。本には魔法式だけでなく、その土地の暮らしも、使っていた人たちも残せる。便利だから使うのか、他に道具ができて使わなくなったのか。誰かがそこで生き、その魔法を使った痕跡まで載せられる。
「……悪くないな」
「何が?」
「俺の本」
「まだできてないでしょう」
「これからできる」
エリアスは新しい紙を手元へ寄せた。完成にはまだ遠いし、出版できる状態でもない。それでも、旅で積んだ研究は、ただの論文の山ではなくなっていた。
「よし。一冊目を始めよう」




