第52話 全部は拾えない
リリアナの言葉を聞いて、エリアスは机の上の論文を見渡した。昨日まで頼もしく思えた紙の山も、自分が歩いた土地の分でしかない。地図を広げれば、宿場町も農村も、海や雪国も、世界の中の小さな点だった。
「……まあ、そうなんだよな」
「とりあえず、分けましょう」
リリアナが紙束へ手を伸ばす。
「どう分ける?」
「まず地域。それから用途」
「生活、仕事、移動、冒険者向け……海の上で使うものは?」
「生活環境も要るわね」
「面倒になってきたな」
「あなたが集めたのよ」
「知ってる」
二人で論文を広げ、地域、用途、生活環境、職業を手掛かりに分けていく。現役で使われている魔法もあれば、使い手が減り、土地や暮らしの説明がなければ用途さえ伝わらないものもある。一枚が複数の山に属することも珍しくなかった。
「これ、どっち?」
リリアナが雪国で書いた論文を持ち上げた。
「生活魔法だな」
「仕事にも使われてるでしょう」
「じゃあ両方」
「こういうのが多いわね」
「現地じゃ分類して使ってるわけじゃないからな」
必要だから覚え、暮らしの中で使う。研究者に分類されるために生まれた魔法ではない。エリアスは同じ論文を指し直し、使われる場面を書き添えた。
しばらくすると机にいくつもの山ができたが、鞄の中にはまだ帳面が残っていた。
「……多い」
「褒めてる?」
「褒めてる。でも、足りない」
エリアスの手が止まる。
「それもさっき聞いた」
「分けるほど分かるもの。ここには記録があるけど、その間の土地は?」
「通っただけだ」
「その先は?」
「行ってない」
リリアナが地図の上で指を動かす。海の向こうも北も、名前しか聞いていない地域がいくらでもあった。旅先で使い手に会えず、術式を確かめられなかった魔法もある。論文を並べたことで、初めからそこにあった空白がかえってはっきり見えた。
「……じゃあ、もっと集めればいい」
「また旅に出る?」
「そのつもりだったしな」
「どこまで集めるの?」
「そりゃ……」
答えが続かなかった。次の土地へ行けば新しい魔法があり、その先にもある。一つの村だけで使う術、家族の中で伝わる術、名前さえついていない術。エリアスが一つを調べている間にも、どこかで別の使い方が生まれ、別の魔法が消えていく。
旅立つ朝から、一冊で終わらせるつもりはなかった。面白い魔法が多ければ二冊でも三冊でも出せばいい。そう思っていたのに、いざ集め始めると、あと一つ、あの土地を見てから、と区切りを先送りにしていた。
「……終わらないな」
「今気づいたの?」
「うるさい」
リリアナが笑う。エリアスは笑い返さず、机の端に置いた古い論文へ目を向けた。使い手が減っていた、火を残す魔法の記録だ。
あの魔法を未来まで使わせ続けることはできないかもしれない。それでも、存在したことは記録できる。ならば、世界中の魔法を拾い終えることと、自分が拾ったものを本にすることも別のはずだった。
「全部は書けない。でも、ここにあるものの価値がなくなるわけじゃないよな」
「もちろん」
「俺が見て、聞いて、調べて、論文にした分を残す」
泥を離す魔法も、農村や海や雪国で出会った魔法も、消えかけていた火の魔法も。世界のすべてではないが、確かにそこにあったものだ。
「ここまでを第一巻にする」
リリアナが瞬きをした。
「ここで区切るの?」
「ああ。続きを拾いに行くのは、そのあとだ」
「ようやく最初の一冊が始まるわけね」
「しかも先に売れる」
「そっち?」
「大事だろ。本を売って金を作れば、次の旅にも出られる。大賢者の弟子が魔導書を出したとなれば、名前も売れる」
「それで?」
「今よりモテるかもしれない」
リリアナは黙ってエリアスを見た。
「昨日の今日でよく言えるわね」
「昨日は昨日。未来は未来」
「最低ね」
「褒め言葉として受け取っとく」
呆れたように笑うリリアナにつられ、エリアスも笑った。金も名声も、いい酒も、女性にモテたいという欲も変わらない。だが、論文の中にある土地や暮らし、使い手の姿まで一冊に残したいとも思うようになった。
「決めた。第一巻を作る」
「今から?」
「今日は方針を決めたところまでだ。これだけあるんだから、適当に束ねて本です、とはいかない」
選んで、並べて、必要なところを書き足す。完成までは遠いが、次にすることは決まった。旅を終えるためではなく、これからも続けるために、ここまでの旅を一度、一冊にする。




