第51話 研究対象は大賢者の弟子
「で、何をする気なんだ?」
エリアスは、向かいに立つリリアナを警戒するように見た。
「調べるの」
「それは聞いた」
「あなたを」
「それも聞いた」
リリアナは論文を脇へ寄せ、代わりにエリアス本人を見ている。あれほど紙を熱心に見た目で自分を見られると、美人に見つめられる嬉しさより先に警戒したくなった。
「まず、魔法を使って」
「何を?」
「何でもいいわ。あなたが普段使うもので」
「雑だな」
「じゃあ火」
「結局指定するのかよ」
エリアスは苦笑しながら片手を上げた。
指先の少し先に、小さな火が灯る。
燃やすものはなく、小さな炎を一定の大きさで維持するだけだ。エリアスには慣れた術だった。
「もう少し強く」
「はいはい」
火が膨らむ。
「維持して」
「これくらい?」
「そのまま」
リリアナが近づいてくる。
火ではなく、エリアスの腕を見ていた。
「何見てるんだ?」
「魔力の使い方」
「見える範囲で分かるか?」
「全部は無理。でも癖くらいなら」
リリアナはエリアスの手から肩へ視線を移し、それからまた火を見る。
「昔より滑らかになってる気がする」
「昔って、どれくらい前だよ」
「学校にいた頃」
「そりゃ多少は変わるだろ」
「多少?」
「旅先で何百回魔法を使ったと思ってる」
「そこなのよ」
リリアナがすぐに食いついた。
「同じ魔法を何百回じゃないでしょう?」
「ああ」
「土地ごとに違う術式を見て、解析して、実際に使えるものは試した」
「そうだな」
「既存の体系に当てはめて終わりじゃなくて、違う組み方も見た」
「そう」
「なら、あなた自身の使い方にも何か残っていてもおかしくない」
エリアスは火を消した。
「残るって何が?」
「知らない」
「知らないのかよ」
「だから調べるの」
悪びれる様子がない。エリアスは火を消した指先を見てから、リリアナへ向き直った。
「じゃあ次」
「まだやるの?」
「今ので終わるわけないでしょう」
次は水、さらに風。リリアナは出力を変えさせ、途中で止めさせ、維持したまま別の形へ移すよう頼んだ。一つひとつは容易でも、繰り返せば面倒になってくる。
「お前、楽しそうだな」
「楽しいわよ」
即答だった。
「珍しい術式を何十種類も扱ってきた術者が目の前にいるのよ?」
「俺としては、もう少し男として興味を持ってほしいんだけど」
「持ってるわよ」
「本当に?」
「顔は悪くないと思ってる」
「そこはもっと強く言っていいぞ」
「でも今は魔力の方が面白い」
「やっぱりそっちか」
リリアナが笑う。
しばらく魔法を使い続けているうちに、額にじわりと汗が浮いてきた。
激しい運動をしたわけではない。だが、細かな制御を何度も繰り返していると、少しずつ身体が熱を持つ。
「ちょっと待って」
リリアナがエリアスの手首を掴んだ。
「今度は何?」
「そのまま」
指先が手首から腕へ触れる。
脈を取るような位置。
それから皮膚の熱を確かめるように、ゆっくりと指を滑らせる。
息がかかりそうな距離だった。
「……近くない?」
「調べてるの」
「便利な言葉だな、それ」
「じっとして」
顔を寄せたリリアナの髪が、エリアスの頬をかすめた。真剣な横顔は、まだ魔力の観察に夢中らしい。
「なあ」
「何?」
「俺が勘違いしたらどうする?」
「何を?」
「いや、その距離でそれ聞く?」
リリアナはようやく顔を上げた。
視線が合う。
少しだけ間が空いた。
「勘違いじゃなかったら?」
「……お?」
今度はエリアスが黙る番だった。
リリアナは何事もなかったように手を離した。
「汗、拭かないで」
「急に研究へ戻るなよ」
「気になるの」
「何が?」
「術後に身体へ残るもの」
エリアスは眉を寄せた。
「汗?」
「そう」
「汗に何があるんだ」
「分からない」
「またそれか」
「術者ごとに魔力は違うでしょう」
「まあな」
「なら、魔法を使った直後の身体から出るものにも、何か差が残る可能性はある」
「可能性?」
「仮説よ」
リリアナはきっぱりと言った。
「そんな研究法が確立してるわけじゃない。汗を調べれば魔力回路が分かる、なんて話でもない」
「じゃあ何を見るんだ?」
「残っているものがあるかどうか」
「何もなかったら?」
「何もなかった、という結果が残る」
「研究者だなあ」
「今さら?」
リリアナがエリアスの腕へ視線を落とす。
そこには、うっすら汗が浮いていた。
「採っていい?」
「好きにしろよ」
「言ったわね」
「……その確認いる?」
次の瞬間。
リリアナはエリアスの腕を持ち上げた。
何かの道具を使うのだろうと思った。
布か小瓶を使うか、せいぜい指先で触れると思っていた。だが、
ぺろり。
「…………」
エリアスは完全に固まった。
リリアナが、自分の腕の汗を舌先で直接舐めた。
「……お前」
「何?」
「今、舐めた?」
「舐めたわね」
「普通、研究でそこまでやる?」
「道具を取りに行くのが面倒だったから」
「絶対それだけじゃないだろ」
リリアナは少し考えた。
「味も見たかった」
「やっぱりおかしいだろ」
「嫌だった?」
その問いは、観察結果を聞く声ではなかった。エリアスもリリアナを見返した。
「嫌なら、とっくに腕引いてる」
「そう」
「むしろ……」
「むしろ?」
「研究ってことにして好き放題されてる気がしてきた」
「気のせいじゃないかもね」
リリアナが笑った。
今度の笑顔には、紙を前にしたときとは違う楽しさがあった。エリアスも笑う。
「ようやく研究対象以外に見えてきた?」
「最初から男ではあったわよ」
「優先順位が紙より下だったけどな」
「今は同じくらい」
「まだ紙と並ぶのかよ」
「かなり高い評価よ?」
「喜んでいいのか、それ」
リリアナが近づき、エリアスも離れなかった。研究のためだけの距離ではないと、もう二人とも分かっている。
「リリアナ」
「何?」
「ここから先も研究?」
「半分くらい」
「残りは?」
彼女はすぐには答えなかった。
代わりにエリアスの胸元へ手を置く。
「個人的な興味」
「そっちの方が聞きたかった」
「あなたは?」
「俺?」
エリアスは笑った。
「最初から個人的な興味しかない」
「知ってる」
「ひどい言われようだな」
「だって、会ってすぐ口説いてたでしょう」
「美人だったから」
「昔から変わらないわね」
「そこは長所だと思ってる」
リリアナは呆れたように笑った。
そのまま離れない。
エリアスも距離を取らなかった。
先ほどまでなら研究のためだと言えた距離で、今は互いの顔を見ていた。
リリアナの指が、エリアスの胸元からゆっくり上へ移る。
喉元。
顎。
最後に、下唇へ触れた。
「……今度は何を調べる気?」
「汗以外」
「広いな」
「唾液」
エリアスは一瞬黙った。
「それ、本気で言ってる?」
「本気よ」
「唾液に魔力が残ってるかもしれないって?」
「残っているかもしれないし、何もないかもしれない」
「また仮説?」
「当然」
リリアナの指先が、下唇をなぞる。
「魔法を使った直後なら、普段と何か違う可能性もあるでしょう?」
「それを調べる方法は?」
「いくつか考えられるけど」
「けど?」
リリアナが少しだけ笑った。
「一番簡単なのを試したい」
「……嫌な予感がするな」
「嫌?」
さっきと同じ問いだった。
ただし、今度は意味がはっきりしている。
エリアスは答える代わりに、リリアナの腰へ腕を回した。
「嫌そうに見える?」
「見えない」
「なら聞くなよ」
「確認は大事よ」
「研究者だな」
「こういうときもね」
リリアナが顔を寄せる。
唇が触れた。
短く離れた唇がもう一度重なった。エリアスが唇を開くとリリアナも応じ、吐息が近づく。舌先が軽く触れた。
「……ん」
リリアナが小さく息を漏らす。
研究のためと言い張るには長い口づけだった。唇が離れても、二人の息が混じるほど近くにいる。
リリアナは自分の唇へ指を触れた。
そこに残った湿り気を、指先で確かめるようになぞる。
「どう?」
「何が?」
「何か分かった?」
「全然」
「おい」
「味で魔力が分かるなら、とっくに研究法になってるわよ」
「じゃあ今の何だったんだよ」
「採取」
「口で?」
「効率的でしょう?」
「絶対に別の目的混ざってるだろ」
リリアナは否定しなかった。
むしろ、指先についた唾液を眺めながら言う。
「あとで何か比較できるかもしれない」
「何と?」
「普通の状態のあなたと」
「普通の状態の唾液も採る気?」
「必要なら」
「どうやって?」
聞いた瞬間。
リリアナの目が少し細くなった。
エリアスは自分から聞いたことを少しだけ後悔した。
「同じ方法でいいんじゃない?」
「……やっぱり楽しんでるだろ」
「かなり」
今度はリリアナの方から、もう一度唇を重ねた。
さっきより深い。
舌が触れ、離れ、また絡む。
唇の端からわずかに湿り気がこぼれる。
エリアスがリリアナの腰を引き寄せる。
身体が密着した。
唇が離れたとき、二人の間に細い唾液の糸が一瞬だけ残り、すぐに切れた。
リリアナはそれを見て、ほんの少し目を見開く。
「……今のも採取する?」
「それはもう無理だろ」
「惜しいわね」
「本当に研究する気ある?」
「あるわよ」
リリアナは答えながら、エリアスの唇を親指で拭った。
「でも、それだけじゃない」
その指を見たあと、エリアスの目へ戻る。
「魔力が残るかどうかは知りたい」
「うん」
「術後の汗や唾液に、何か観測できる特徴があるかも知りたい」
「うん」
「でも」
リリアナの声が少し低くなる。
「今のは、研究じゃなくてもしたかった」
エリアスは笑った。
「それ、もっと早く言ってくれよ」
「言わなくても分かったでしょう?」
「研究って言葉が強すぎるんだよ、お前の場合」
「じゃあ今は言わない」
再び顔が近づく。
今度は、どちらからともなく唇が重なった。
魔法の話が通じ、会話が楽しく、互いに触れたいと思っている。エリアスは彼女を抱き寄せ、リリアナも離れなかった。やがて二人は紙をまとめて学校を出ると、エリアスの宿へ向かった。
◯
翌朝。
エリアスは寝台の上で目を覚ました。
天井を見たまま、しばらく動かない。
「……なんというか」
昨夜を思い出すと、口元が緩む。かなり良かった。
隣を見る。
リリアナはすでに起きていた。
「早いな」
「起きた?」
「ああ」
「ちょうどいいところ」
「何が?」
リリアナの手には、昨夜使っていた記録用の紙があった。
エリアスは嫌な予感がした。
「……お前、朝から何書いてるんだ?」
「昨日の結果」
「結果って言うな」
「観察記録」
「もっと駄目な感じになった」
リリアナは笑いもせず、真面目に紙を見る。
「条件が多すぎたから、どこまで意味があるか分からないのよね」
「朝一番にする話?」
「あと、もう一度同じ条件で確認できれば」
「待て」
エリアスは身体を起こした。
「もう一度って何を?」
「再現」
「何の?」
「昨日の」
「範囲が広すぎる」
「だから順番に切り分けるの」
「研究にする気満々じゃないか」
「だって面白いもの」
リリアナはようやく顔を上げた。
「嫌?」
エリアスは少し考える。
「内容による」
「じゃあ相談しましょう」
「断るとは言わないんだな、俺も」
「知ってる」
妙に満足そうな顔をされる。
エリアスは額を押さえた。
互いに望んで過ごした夜だった。後悔もない。ただ、起きてすぐ観察記録を手にしたリリアナを見ると、別の心配が湧く。
「……女に抱かれたっていうより、研究された気がする」
「両方でいいでしょう?」
「お前が言うと洒落にならないんだよ」
リリアナが笑った。
一夜を楽しんだあとも、二人には魔法の話がある。リリアナが旅へついてくるという話にはならず、エリアスもそう望まなかった。昨夜の近さのままで言葉を交わせるのが、心地よかった。
「で」
リリアナが紙を一枚置いた。
「昨日の続き」
「もう研究に戻るのか」
「論文の方よ」
「ああ」
昨日まで机いっぱいに広げていた研究成果。
エリアスが旅先で集めてきた、名もない魔法たち。
リリアナはその束へ視線を向けた。
「改めて思ったんだけど」
「何?」
「これ、ものすごい量よね」
「今さら?」
「でも」
リリアナは紙の山を見たまま続ける。
「これだけあっても、あなたが見た土地の分だけなのよね」
エリアスは返事をしなかった。
その言葉に、昨日とは違う意味がある気がした。
大量に集めたつもりでも、世界全体から見ればほんの一部だ。
机の上の紙束を見ながら、エリアスはしばらく黙っていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
エリアスとリリアナが灯りを落としたあと、彼女の尽きない探究心がどこへ向かったのか。
本編では描写を省いた成人向け部分を、ノクターンノベルズにて別作品として掲載しています。
『大賢者の弟子は、旅先の夜を拾っていく』
第6夜「今夜は、あなたを調べたい」
18歳以上で、魔法の研究だけでは満足できなくなったリリアナの好奇心と、彼女の思いがけない要求に振り回されるエリアスの夜の続きが気になる方は、そちらもお楽しみください。
なお、成人向け部分を読まなくても、本編の物語は問題なく読み進めていただけます。




