第49話 故郷の魔法
アウローラの街が見えてきたとき、エリアスは思わず歩みを緩めた。
「……帰ってきたな」
旅立った朝は、山や海の向こうにある魔法を早く見たくて仕方がなかった。論文にして本を出せば、金も名声も手に入る。女にもモテるかもしれない。そんなことを考えて背負った鞄が、今はずしりと肩に食い込んでいる。増えたのは着替えではなく、紙だった。
帳面と論文、走り書き。術式を書き写した紙もあれば、土地の名や使い手から聞いた話もある。旅立つときには白かった紙が、鞄の大半を占領していた。
「よく持って帰ってきたな、これ」
途中で何度、紙を買い足したことか。
それでも捨てる気にはならなかった。
街道を進み、見慣れた建物が増えていく。
店先には魔法石を使った生活用の魔道具が並び、通りの端では作業用の術式が当たり前のように使われている。壁に掲げられた案内には、聞き慣れた専門用語が並んでいた。
それを目にした瞬間、エリアスは少し笑った。
「そうそう。これだよ」
ここで魔法を説明するなら、名前と分類があり、発動条件や現象を表す言葉も通じる。旅先では、そうはいかなかった。
『こうやってやるんだよ』
『昔からそうしてる』
『名前? そんなものないね』
そんな答えを何度聞いたか分からない。
旅先では使い手を探して話を聞き、実演してもらったうえで、魔力の流れを既存の理論に照らした。一つの小さな魔法に何日もかかることがある。アウローラなら、研究済みのものは資料から調べられるし、同じ分野の研究者と共通の言葉で続きを議論できる。
「便利だなあ……」
思わず本音が漏れた。
旅に出る前は、資料を探せるのが当たり前だった。外へ出れば、使い手自身が研究対象とも思っていない魔法に出会う。隣の土地へ行けば誰も知らないこともある。そうした術を調べるときにも、エリアスを支えたのはここで学んだ知識だった。
エリアスは歩きながら、鞄の紐を掛け直した。
泥を離す魔法から農村の生活魔法、冒険者の技法、海や雪国の術まで、魔力の流れと発動条件を追ってきた。使い手の話を聞き、現象を既存の魔法と比べ、組み直して確かめたからこそ、土地ごとに違う魔法を論文へできた。
「……師匠の体系、やっぱり便利なんだよな」
ぽつりと呟く。
師匠の体系があったから、旅先で出会った術を解析できた。そして土地で使われる姿を見たから、整理された式だけでは分からないことも知った。両方を使って書いた紙が、鞄の中にある。
アドルフが整理した体系を頼りに、外の魔法を調べる。旅立つ前から持っていた考えを、今は鞄の重みとして確かめられた。
◯
王立魔法学校が近づくにつれて、エリアスの足取りは自然と昔の速さへ戻っていった。
通い慣れた道では学生たちが魔法の話をし、資料を抱えた研究者が考え事をしながら通り過ぎる。旅先では魔法の話の前に事情を説明することも多かったが、ここで説明しすぎれば「そこは分かっている」と言われるだろう。
「懐かしいな」
校内へ入り、エリアスはしばらく歩いた。
校内に掲示された研究題目も、分類された資料も、言葉と書き方が見慣れたものだった。何を研究し、どう整理して人に伝えるか。そのための形が、ここには最初からある。
エリアスはそこで、ふと立ち止まった。
自分の鞄の中にあるものを思い出したからだ。
鞄には泥だらけの道で聞いた話も、船上の走り書きも、雪の中で確かめた式もある。老人の炉の話や酒場で聞いた使い方を、まだ余白に書き足したままの紙も混じっていた。
あれらは、この場所へ持ち込めば、どこに並ぶのだろう。
生活魔法、実用魔法、職業の技法。ここで付けられる分類はある。だが、その枠だけに収めれば抜け落ちるものもあった。
火を残す魔法なら、術式だけを見れば小さな技術でしかない。
けれど、冬の朝に火を起こす暮らしを一緒に書けば、なぜその魔法が必要だったのかが分かる。
それを知ってしまった今では、術式だけを抜き出して終わる気にはなれなかった。
「まあ、だから紙が増えるんだけど」
誰にともなく言って、エリアスは苦笑した。
旅先で一つずつ増やした紙も、まとめて見ると相当な量だ。エリアスは整理する場所を探した。
空いている机を見つけ、鞄を開く。
論文を一束置き、次の束と帳面を並べる。
「……本当に増えたな」
旅立ちの朝にも、似たことを考えた気がする。
あのときは紙を余分に持っていくかどうかで悩んでいた。
今なら言える。
まるで足りなかった。
「何が?」
すぐ後ろから声がした。
エリアスは紙束を持ったまま振り返る。
そこにいたのは、見覚えのある女だった。
研究者らしい落ち着いた服装。こちらを見た目が、一瞬だけ驚きに開かれ、それからすぐに面白そうに細められる。
「……リリアナ?」
「やっぱりエリアス」
彼女はエリアスの顔を見たあと、その手元へ視線を落とした。
紙束。
帳面。
さらに、まだ鞄の中へぎっしり詰まっている記録。
「帰ってきたのね」
「ああ。ついさっき」
「そう」
短く答えたリリアナは、もう一度紙の山を見る。
エリアスの顔より、今は机の紙が気になるらしい。彼女の目の輝きには見覚えがある。面白い魔法を見つけた研究者の目だった。
「……何、その量」
「旅の成果」
「全部?」
「だいたい」
リリアナは数秒、黙った。
それから一歩近づいてくる。
「見せて」
「久しぶりに会った相手への最初の言葉がそれ?」
「帰ってきたのね、とは言ったでしょう」
「言ったけどさ」
リリアナは気にした様子もなく、一番上の紙へ目を落とした。
そして、そこに書かれた術式を見た瞬間。
彼女の表情が変わった。
「……エリアス」
「ん?」
「これ、どこで拾ったの?」
その声には、もう完全に研究者の熱が混じっていた。




