第48話 本に残るもの
旅立ちの朝、エリアスは机の上に積み上がった紙を見て、少しだけ途方に暮れていた。
「……増えたな」
調べたのは、炉や竈の熱を翌朝まで残しやすくする、一つの小さな魔法だ。術式を記すだけなら数枚で済む。ところが机の紙は、重ねると指先で厚みが分かるほどになっていた。
エリアスは椅子へ座り、散らばっていた記録を順番に並べていく。
術式と発動条件、対象の炉の状態を記した紙。その隣に、古い家の構造や燃料、冬の朝について聞いた話を置く。最後に、今の炉を使う若者と、孫に無理に教えない老人の言葉を並べた。使い手がいなくなる日も遠くないだろう。
「……これ、魔法の記録っていうより、この町の昔話みたいになってきたな」
呟いて、エリアスは紙を一枚持ち上げた。
そこには老人から聞いた、冬の朝についての話が書かれている。
灰の下に残った熱から火を戻せれば、寒い朝にも湯を沸かし、飯を作り、部屋を暖められる。老人が話した朝の手間を思い出す。魔法の仕組みは数行でも説明できるが、毎晩使った理由はその数行には入らない。今は使わなくなった理由も同じだ。
エリアスは紙を戻し、別の記録を手に取った。
今回だけではない。
旅に出てから拾ってきた魔法を思い返せば、どれも同じだった。
泥を離す魔法には、その土地の仕事があった。農村でも、冒険者の街でも、海や雪国でも、使い手と暮らしを聞いてきた。異なる種族の土地や竜たちの土地でも同じだ。盗人の小魔法さえ、使い手の目的と手順なしには説明しきれない。
術式の行間に、使い手と、その魔法を必要とした場所がある。これまで書き留めた紙も、一枚ずつ見返したくなった。
「そりゃ、紙が増えるわけだ」
エリアスは苦笑した。
旅に出た頃から、エリアスは魔法だけでなく、使い手と土地も見ようとしていた。論文を書き、魔導書にまとめて出版するつもりも変わらない。売れて、儲かって、有名になれば、きっとモテる。
「……最後は今も重要だな」
真顔で確認した。
何しろ、旅に出たことで新しく知ったものまである。
年上の女というのは、いい。
とてもいい。
昨夜のことを思い出しかけて、エリアスは首筋に手をやった。
「…………」
触れたところに、まだ少し痕が残っている。
最高の夜だった。
それについては一切訂正する気がない。
ただ、自分が女を口説くことには慣れていても、あれほど強く求められる側になる経験はほとんどなかった。
旅先には知らない魔法も料理も酒もあり、女との出会いもある。
「いい旅してるな、俺」
満足して、再び机へ向き直る。
俗っぽい欲望を反省する理由はなかった。
金も名声も欲しい。魔導書は売れてほしいし、うまいものや酒、美人との時間も楽しみたい。その気持ちのまま、エリアスは目の前の記録を読み返した。
エリアスは目の前の記録を眺めた。
「だったら、なおさらだよな」
術式だけが並んだ本。
もちろん、それにも価値はある。
魔法使いが読めば、その術式を再現できる。技術として残すだけなら、それで十分かもしれない。
けれど。
術式だけ読めば、今ではもっと手軽に火を起こせるのに、なぜこんな小さな術を使ったのかと思うだろう。だがエリアスは、老人の炉で聞いた朝の話を知っている。
「違うんだよな」
かつては火を残す必要があり、今の若者にはない。覚えないことを責めずに、その変化を紙に残せる。魔法の使い手がいなくなったあとも、なぜ人々がこの術を必要としたかを読めるように。
エリアスは新しい紙を取り出した。
研究記録の構成を少し変える。
術式と発動条件、用途を書き、その後へ古い炉と燃料、使った人の話を並べる。今の家の火起こしと、若者たちが習わない理由も加えた。使い手が減る見通しについては、確かめられた範囲で記した。
書きながら、エリアスは妙な気分になった。
火を残す魔法について書いているはずなのに、その向こう側に、この土地で暮らしてきた人々の姿まで見える。
老人がまだ若かった頃、夜に残した炉の熱から朝の火を戻し、湯を沸かして一日を始めた。その話と、今はもう使わないという言葉を、エリアスは同じ紙の上に置いた。
◯
昼前には、荷造りもほとんど終わっていた。
研究記録を鞄へ収め、エリアスは部屋を見回した。
この土地でも、ずいぶんいろいろあった。
消えかけた魔法を見つけた。
昔の暮らしを調べた。
リディアと再会した。
そして、ヴァネッサと出会った。
どれも旅に出なければ得られなかったものだ。
リディアはまた別の道へ行き、ヴァネッサとも今朝、笑って別れた。それぞれに戻る場所があっても、ここで一緒に過ごした時間は覚えている。手元の紙には、使われなくなる魔法の記録がある。
「本に残る、か」
エリアスは鞄を閉じる手を止めた。
自分が作ろうとしている魔導書。
最初は単純だった。
旅で見つけた面白い魔法を調べて論文にし、魔導書として出版する。金と名声を手に入れる。
今だって、その目的は変わっていない。
「売れないと困るしな」
むしろ重要である。
苦労してあちこち歩いた末に、誰も買わない本が出来上がりました、では笑えない。
どうせなら売れてほしい。
できれば大いに売れてほしい。
大賢者の弟子が旅先で集めた魔法の本。
悪くない。
いや、かなり売れそうな響きだ。
だが、術式だけが大量に並んだ本よりも。
その魔法がどんな土地で使われ、誰が何のために必要としたのかまで読める本の方が――。
「そっちの方が、面白いよな」
エリアスは笑った。
それでいい。
誰かを救うために本を書くわけではない。
消えゆく魔法をすべて守るためでもない。
昔の暮らしを取り戻したいわけでもない。
ただ、せっかく各地を歩いて集めるのだ。
術式だけを並べるより、その魔法が存在した世界まで読める本にした方が面白い。
そして面白い本なら、きっと売れる。
「よし」
記録の仕方が深まっても、もともとの欲望は何も薄れなかった。
金儲けのための本でいい。
名声を得るための本でいい。
それと同時に、各地の魔法と、その土地で生きてきた人々の痕跡が残る本にもできる。
エリアスは鞄を背負った。
旅を始めた頃より、荷物は増えている。
各地で書いた論文。
研究記録。
拾い集めた魔法。
そこで見てきた暮らし。
思い出せば、酒や食事や女との記憶まで山ほどある。
それらを一度、持ち帰る時期だった。
向かう先は、アウローラ。
自分が魔法を学んだ故郷。
体系として整えられた魔法を学び、大賢者の弟子として育った場所へ、今度は旅先で拾った名もない魔法を持って帰る。
そこで並べてみれば、また何か見えるかもしれない。
「さて、帰るか」
宿を出る。
旅はまだ終わらない。
ただ一度、旅で拾ったものを抱えて、始まりの場所へ戻る。
エリアスはアウローラへ向かって歩き出した。




