第47話 年上は怖い
宿の机には、術式や発動条件に加え、炉の形、燃料、冬の朝について聞いた話が広がっている。エリアスは最後の一枚に目を通し、ペンを置いた。
「……これでいいか」
今の人に使い続けろとは言えない。炉を見せてくれた老人も、孫に無理に教えるつもりはなかった。それでも、なぜ火を残す必要があり、なぜ今は使わないのかを、聞いた人の話とともに書くことはできる。
「残すのと、記録するのは別、か」
呟いてみると、思ったよりしっくりきた。
あとは細部を整えれば、今回の研究は終わる。
そして今夜は、研究とは別に楽しみがあった。
エリアスは紙をまとめながら、自然と口元を緩めた。
◯
「ずいぶん機嫌がいいのね」
「そう見える?」
「見えるわよ」
向かいに座ったヴァネッサが、酒杯を傾けながら笑った。
夜はすっかり深くなっている。
酒と軽い料理を挟んで二人きり。調査の合間に何度も一緒に飲んできたが、今夜は最初から空気が違った。
エリアスも、それを分かったうえでここにいる。
「研究がうまくいったからね」
「それだけ?」
「もちろん、今夜の相手が美人だからっていうのもある」
「あら」
ヴァネッサは楽しそうに目を細めた。
「懲りないのね、あなた」
「反省はしてるよ」
「この前、女に騙されたんでしょう?」
「……誰から聞いたの、それ」
「あなたから」
そうだった。
酒の席で自分から話した覚えがある。
エリアスは杯を口へ運びながら、少しだけヴァネッサを見る。
金の話はない。
妙な男が出入りしている気配もない。
何度も会って、話して、彼女が自分へ向ける好意も確かめた。
前の失敗から何も学んでいないわけではない。
今回は大丈夫だ。
たぶん。
「今、私のこと疑った?」
「確認しただけ」
「成長したのね」
「俺だって同じ失敗はしないよ」
「そう」
ヴァネッサが身を乗り出した。
「じゃあ、別の失敗をしてみる?」
「それ、失敗になる?」
「さあ?」
近い。
酒の香りに混じって、彼女の匂いがする。
エリアスは笑った。
ここまで来れば分かる。
自分はこの女が欲しい。
そして、彼女も自分を欲しがっている。
だったら遠慮する理由はない。
「ヴァネッサ」
「なに?」
「今夜――」
最後まで言えなかった。
ヴァネッサの手が頬へ触れ、そのまま唇を塞がれた。
軽い口づけではなかった。
「……っ」
エリアスが思わず息を呑む。
唇を離したヴァネッサは、すぐそばで彼を見つめていた。
「遅いのよ」
「え?」
「ずっと待ってたのに」
もう一度、唇が重なった。
今度はさらに深い。
エリアスも応じる。肩を抱き寄せようとして――逆に身体を押された。
「ちょっと待って」
「待たない」
「いや、嫌って意味じゃなくて」
「知ってる」
ヴァネッサが笑う。
その笑い方は、これまで酒場で見せていた余裕のあるものと同じだった。
ただ、目だけが違った。思っていたより、ずっと熱い。
「あなた、自分が私を口説いたと思ってるでしょう?」
「違うの?」
「半分は合ってるわ」
「半分?」
「私も、あなたを狙ってたもの」
食事を終えて店を出ても、ヴァネッサはエリアスの手を離さなかった。二人で宿の部屋へ入り、扉を閉めたところで、また口づけられる。
頬に手を添えられ、逃げる隙間もないほど身体を寄せられた。唇が離れたと思えば、すぐに次が来る。
エリアスは途中から笑ってしまった。
「ヴァネッサ、もしかして俺が思ってたより――」
「なに?」
「積極的?」
「今さら気づいたの?」
首筋に唇が触れた。
柔らかな感触のあと、少し強く吸われる。
「待って。それ、跡つかない?」
「つけてるのよ」
「わざと?」
「嫌?」
問われて、エリアスは少し考えた。
嫌ならやめてくれる。
それは分かる。
だから素直に答えた。
「いや。別に」
「よかった」
「でも、なんで?」
ヴァネッサは少しだけ顔を上げた。
「あなたに触ったって、残しておきたいから」
「……へえ」
予想以上だった。
けれど悪くない。
むしろ、かなりいい。
エリアスが彼女の腰へ腕を回す。
「じゃあ俺も――」
今度こそ主導権を取り返そうとした。
つもりだった。
「わっ」
気づけば寝台へ押し倒されていた。
視界の上にヴァネッサがいる。
豊かな髪が垂れ、その向こうから楽しそうな顔がこちらを覗き込んでいた。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「いや」
自分が口説いて誘ったはずなのに、いつの間にか相手のペースだ。エリアスは見上げたまま笑った。
「もしかして」
ヴァネッサが顔を寄せる。
「こういうの、慣れてない?」
「女性に押し倒されるのは、そんなに経験ないかな」
「じゃあ覚えて帰って」
「何を?」
「年上の女を甘く見ないこと」
「それ、ヴァネッサが特殊なだけじゃない?」
「かもしれないわね」
楽しそうに答えて、また唇を奪われた。
何度も重なるうちに、どちらのものか分からない唾液が唇に残る。離れてもほんのわずかで、息が触れ合う距離からヴァネッサは退こうとしない。
首筋にも、また熱が触れた。
明日、鏡を見るのが少し怖い。
それでも止めてほしいとは思わなかった。
むしろ――。
(これ、最高じゃないか?)
エリアスは素直にそう思った。
好意を向けられるのは初めてではない。それでも、ヴァネッサにこうして触れられると、今の自分を求められているのが伝わってくる。その熱に、エリアスも応えたくなった。
「エリアス」
「うん?」
「まだ余裕ありそうね」
「まあ、それなりには」
「そう」
ヴァネッサが微笑んだ。
その顔を見て、エリアスは自分が余計なことを言った気がした。
「じゃあ、もう少し付き合って」
「……もう少し?」
答えの代わりに、また唇を塞がれた。
その夜、エリアスは、自分より欲の強い女がいることを身をもって知った。
◯
朝。
エリアスは目を覚まして、しばらく天井を眺めていた。
身体が重い。
嫌な重さではない。
むしろ昨夜のことを思い出せば、口元が勝手に緩む。
「……最高だったな」
「そう?」
「うわっ」
すぐ横から声がした。
見ると、ヴァネッサがこちらを見ている。
「起きてたの?」
「少し前から」
「だったら声かけてよ」
「幸せそうな顔してたから」
エリアスは起き上がろうとした。
その腕をヴァネッサに掴まれる。
「どこ行くの?」
「水飲もうかと」
「あとでいいでしょう」
「いや、喉渇いたんだけど」
「じゃあ飲んだら戻ってきて」
「戻るの?」
「嫌?」
またそれだ。
嫌ではない。
全然嫌ではない。
昨夜あれだけ一緒にいたのだから、朝は少し落ち着くだろうと思っていた。どうやら甘かった。
水を飲んで戻ると、本当にまた腕を引かれた。
「ヴァネッサ」
「なに?」
「俺のこと、かなり好き?」
「今さら?」
当然のように返される。
「かなり好きよ」
「そっか」
「だから、もう少しいて」
穏やかな声だった。旅をやめろとも、次に会う約束をしろとも言わない。ただ、今朝の時間をもう少し一緒に過ごしたいという。その距離の近さに、エリアスは昨夜とは別の嬉しさを覚えた。
「……俺、口説いた側だったよね?」
「ええ」
「なんで俺の方が食われたみたいになってるんだろう」
「美味しかったから?」
「そういうこと言う?」
「嫌だった?」
「いや」
エリアスは即答した。
「最高だった」
「ならいいでしょう」
反論できない。
実際、その通りだからだ。
しばらくして、ようやく身支度を始める。
鏡を覗いたエリアスは、首元を見て黙った。
「ヴァネッサ」
「なに?」
「残しすぎじゃない?」
「そう?」
「そうだよ」
指で触れる。
昨夜つけられた痕跡が、いくつも残っている。
痕を見ると昨夜を思い出し、もう一度くらい、という気にもなる。だが口にすれば、いつまでも帰れそうにない。
「年上の女って怖いな……」
「あら。私以外も一緒にしないでちょうだい」
「それもそうか」
エリアスは笑った。
年上の女がみんなああなのではない。ヴァネッサが、あれほど余裕も欲もある女なのだ。
どうやら旅先で女性を見るときの楽しみが、また一つ増えてしまったらしい。
「じゃあ、行くよ」
「ええ」
ヴァネッサは引き止めなかった。
最後にもう一度だけ抱き寄せられ、唇が触れる。
「楽しかったわ、エリアス」
「俺も。すごく」
「またどこかで会えたら、そのときは覚悟しておいて」
「……覚悟が必要なんだ」
「必要よ」
笑って別れた。
互いに望んで過ごした夜は楽しかった。次に会う約束はなく、エリアスはまた一人で旅を続ける。ヴァネッサの笑った顔を思い出すと、それでも十分だった。
◯
宿へ戻ったエリアスは、机に向かった。
昨日までにまとめた紙へ、最後の整理を加えていく。
若い世代が覚えない理由と、以前は毎晩使っていた理由。その両方を、術式の説明の隣へ書いた。使い続けさせるためではなく、使った人がいたことを、読める形で残しておきたかった。
エリアスは書き終えた紙を眺め、満足して頷いた。
「よし」
研究を終え、酒もうまいものも楽しんだ。年上の美人には、思いがけないほど求められた。
「……悪くない土地だったな」
かなり楽しかった。
ただ一つ学んだことがあるとすれば。
こちらから口説くのも、向こうから欲しがられるのもいい。ただ、相手の勢いが自分以上だった場合は――。
「ちょっと怖いな」
そう呟きながらも、エリアスは笑っていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
エリアスとヴァネッサが灯りを落としたあと、どんな夜を過ごしていたのか。
本編では描写を省いた成人向け部分を、ノクターンノベルズにて別作品として掲載しています。
『大賢者の弟子は、旅先の夜を拾っていく』
第5夜「年上の女は、止まらない」
18歳以上で、余裕ある笑みの奥に隠れていたヴァネッサの情熱と、彼女に主導権を握られたエリアスの夜の続きが気になる方は、そちらもお楽しみください。
なお、成人向け部分を読まなくても、本編の物語は問題なく読み進めていただけます。




