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大賢者の弟子は、忘れられた魔法を拾いに行く  作者: Atelier Lotus文庫
第十章 消えかけた魔法

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第47話 年上は怖い

 宿の机には、術式や発動条件に加え、炉の形、燃料、冬の朝について聞いた話が広がっている。エリアスは最後の一枚に目を通し、ペンを置いた。


「……これでいいか」


 今の人に使い続けろとは言えない。炉を見せてくれた老人も、孫に無理に教えるつもりはなかった。それでも、なぜ火を残す必要があり、なぜ今は使わないのかを、聞いた人の話とともに書くことはできる。


「残すのと、記録するのは別、か」


 呟いてみると、思ったよりしっくりきた。


 あとは細部を整えれば、今回の研究は終わる。


 そして今夜は、研究とは別に楽しみがあった。


 エリアスは紙をまとめながら、自然と口元を緩めた。


     ◯


「ずいぶん機嫌がいいのね」


「そう見える?」


「見えるわよ」


 向かいに座ったヴァネッサが、酒杯を傾けながら笑った。


 夜はすっかり深くなっている。


 酒と軽い料理を挟んで二人きり。調査の合間に何度も一緒に飲んできたが、今夜は最初から空気が違った。


 エリアスも、それを分かったうえでここにいる。


「研究がうまくいったからね」


「それだけ?」


「もちろん、今夜の相手が美人だからっていうのもある」


「あら」


 ヴァネッサは楽しそうに目を細めた。


「懲りないのね、あなた」


「反省はしてるよ」


「この前、女に騙されたんでしょう?」


「……誰から聞いたの、それ」


「あなたから」


 そうだった。


 酒の席で自分から話した覚えがある。


 エリアスは杯を口へ運びながら、少しだけヴァネッサを見る。


 金の話はない。


 妙な男が出入りしている気配もない。


 何度も会って、話して、彼女が自分へ向ける好意も確かめた。


 前の失敗から何も学んでいないわけではない。


 今回は大丈夫だ。


 たぶん。


「今、私のこと疑った?」


「確認しただけ」


「成長したのね」


「俺だって同じ失敗はしないよ」


「そう」


 ヴァネッサが身を乗り出した。


「じゃあ、別の失敗をしてみる?」


「それ、失敗になる?」


「さあ?」


 近い。


 酒の香りに混じって、彼女の匂いがする。


 エリアスは笑った。


 ここまで来れば分かる。


 自分はこの女が欲しい。


 そして、彼女も自分を欲しがっている。


 だったら遠慮する理由はない。


「ヴァネッサ」


「なに?」


「今夜――」


 最後まで言えなかった。


 ヴァネッサの手が頬へ触れ、そのまま唇を塞がれた。


 軽い口づけではなかった。


「……っ」


 エリアスが思わず息を呑む。


 唇を離したヴァネッサは、すぐそばで彼を見つめていた。


「遅いのよ」


「え?」


「ずっと待ってたのに」


 もう一度、唇が重なった。


 今度はさらに深い。


 エリアスも応じる。肩を抱き寄せようとして――逆に身体を押された。


「ちょっと待って」


「待たない」


「いや、嫌って意味じゃなくて」


「知ってる」


 ヴァネッサが笑う。


 その笑い方は、これまで酒場で見せていた余裕のあるものと同じだった。


 ただ、目だけが違った。思っていたより、ずっと熱い。


「あなた、自分が私を口説いたと思ってるでしょう?」


「違うの?」


「半分は合ってるわ」


「半分?」


「私も、あなたを狙ってたもの」


 食事を終えて店を出ても、ヴァネッサはエリアスの手を離さなかった。二人で宿の部屋へ入り、扉を閉めたところで、また口づけられる。


 頬に手を添えられ、逃げる隙間もないほど身体を寄せられた。唇が離れたと思えば、すぐに次が来る。


 エリアスは途中から笑ってしまった。


「ヴァネッサ、もしかして俺が思ってたより――」


「なに?」


「積極的?」


「今さら気づいたの?」


 首筋に唇が触れた。


 柔らかな感触のあと、少し強く吸われる。


「待って。それ、跡つかない?」


「つけてるのよ」


「わざと?」


「嫌?」


 問われて、エリアスは少し考えた。


 嫌ならやめてくれる。


 それは分かる。


 だから素直に答えた。


「いや。別に」


「よかった」


「でも、なんで?」


 ヴァネッサは少しだけ顔を上げた。


「あなたに触ったって、残しておきたいから」


「……へえ」


 予想以上だった。


 けれど悪くない。


 むしろ、かなりいい。


 エリアスが彼女の腰へ腕を回す。


「じゃあ俺も――」


 今度こそ主導権を取り返そうとした。


 つもりだった。


「わっ」


 気づけば寝台へ押し倒されていた。


 視界の上にヴァネッサがいる。


 豊かな髪が垂れ、その向こうから楽しそうな顔がこちらを覗き込んでいた。


「……あれ?」


「どうしたの?」


「いや」


 自分が口説いて誘ったはずなのに、いつの間にか相手のペースだ。エリアスは見上げたまま笑った。


「もしかして」


 ヴァネッサが顔を寄せる。


「こういうの、慣れてない?」


「女性に押し倒されるのは、そんなに経験ないかな」


「じゃあ覚えて帰って」


「何を?」


「年上の女を甘く見ないこと」


「それ、ヴァネッサが特殊なだけじゃない?」


「かもしれないわね」


 楽しそうに答えて、また唇を奪われた。


 何度も重なるうちに、どちらのものか分からない唾液が唇に残る。離れてもほんのわずかで、息が触れ合う距離からヴァネッサは退こうとしない。


 首筋にも、また熱が触れた。


 明日、鏡を見るのが少し怖い。


 それでも止めてほしいとは思わなかった。


 むしろ――。


(これ、最高じゃないか?)


 エリアスは素直にそう思った。


 好意を向けられるのは初めてではない。それでも、ヴァネッサにこうして触れられると、今の自分を求められているのが伝わってくる。その熱に、エリアスも応えたくなった。


「エリアス」


「うん?」


「まだ余裕ありそうね」


「まあ、それなりには」


「そう」


 ヴァネッサが微笑んだ。


 その顔を見て、エリアスは自分が余計なことを言った気がした。


「じゃあ、もう少し付き合って」


「……もう少し?」


 答えの代わりに、また唇を塞がれた。


 その夜、エリアスは、自分より欲の強い女がいることを身をもって知った。


     ◯


 朝。


 エリアスは目を覚まして、しばらく天井を眺めていた。


 身体が重い。


 嫌な重さではない。


 むしろ昨夜のことを思い出せば、口元が勝手に緩む。


「……最高だったな」


「そう?」


「うわっ」


 すぐ横から声がした。


 見ると、ヴァネッサがこちらを見ている。


「起きてたの?」


「少し前から」


「だったら声かけてよ」


「幸せそうな顔してたから」


 エリアスは起き上がろうとした。


 その腕をヴァネッサに掴まれる。


「どこ行くの?」


「水飲もうかと」


「あとでいいでしょう」


「いや、喉渇いたんだけど」


「じゃあ飲んだら戻ってきて」


「戻るの?」


「嫌?」


 またそれだ。


 嫌ではない。


 全然嫌ではない。


 昨夜あれだけ一緒にいたのだから、朝は少し落ち着くだろうと思っていた。どうやら甘かった。


 水を飲んで戻ると、本当にまた腕を引かれた。


「ヴァネッサ」


「なに?」


「俺のこと、かなり好き?」


「今さら?」


 当然のように返される。


「かなり好きよ」


「そっか」


「だから、もう少しいて」


 穏やかな声だった。旅をやめろとも、次に会う約束をしろとも言わない。ただ、今朝の時間をもう少し一緒に過ごしたいという。その距離の近さに、エリアスは昨夜とは別の嬉しさを覚えた。


「……俺、口説いた側だったよね?」


「ええ」


「なんで俺の方が食われたみたいになってるんだろう」


「美味しかったから?」


「そういうこと言う?」


「嫌だった?」


「いや」


 エリアスは即答した。


「最高だった」


「ならいいでしょう」


 反論できない。


 実際、その通りだからだ。


 しばらくして、ようやく身支度を始める。


 鏡を覗いたエリアスは、首元を見て黙った。


「ヴァネッサ」


「なに?」


「残しすぎじゃない?」


「そう?」


「そうだよ」


 指で触れる。


 昨夜つけられた痕跡が、いくつも残っている。


 痕を見ると昨夜を思い出し、もう一度くらい、という気にもなる。だが口にすれば、いつまでも帰れそうにない。


「年上の女って怖いな……」


「あら。私以外も一緒にしないでちょうだい」


「それもそうか」


 エリアスは笑った。


 年上の女がみんなああなのではない。ヴァネッサが、あれほど余裕も欲もある女なのだ。


 どうやら旅先で女性を見るときの楽しみが、また一つ増えてしまったらしい。


「じゃあ、行くよ」


「ええ」


 ヴァネッサは引き止めなかった。


 最後にもう一度だけ抱き寄せられ、唇が触れる。


「楽しかったわ、エリアス」


「俺も。すごく」


「またどこかで会えたら、そのときは覚悟しておいて」


「……覚悟が必要なんだ」


「必要よ」


 笑って別れた。


 互いに望んで過ごした夜は楽しかった。次に会う約束はなく、エリアスはまた一人で旅を続ける。ヴァネッサの笑った顔を思い出すと、それでも十分だった。


     ◯


 宿へ戻ったエリアスは、机に向かった。


 昨日までにまとめた紙へ、最後の整理を加えていく。


 若い世代が覚えない理由と、以前は毎晩使っていた理由。その両方を、術式の説明の隣へ書いた。使い続けさせるためではなく、使った人がいたことを、読める形で残しておきたかった。


 エリアスは書き終えた紙を眺め、満足して頷いた。


「よし」


 研究を終え、酒もうまいものも楽しんだ。年上の美人には、思いがけないほど求められた。


「……悪くない土地だったな」


 かなり楽しかった。


 ただ一つ学んだことがあるとすれば。


 こちらから口説くのも、向こうから欲しがられるのもいい。ただ、相手の勢いが自分以上だった場合は――。


「ちょっと怖いな」


 そう呟きながらも、エリアスは笑っていた。


 

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


エリアスとヴァネッサが灯りを落としたあと、どんな夜を過ごしていたのか。


本編では描写を省いた成人向け部分を、ノクターンノベルズにて別作品として掲載しています。


『大賢者の弟子は、旅先の夜を拾っていく』


第5夜「年上の女は、止まらない」


18歳以上で、余裕ある笑みの奥に隠れていたヴァネッサの情熱と、彼女に主導権を握られたエリアスの夜の続きが気になる方は、そちらもお楽しみください。


なお、成人向け部分を読まなくても、本編の物語は問題なく読み進めていただけます。

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