第46話 覚えなくていい魔法
若者たちは、思っていたよりもあっさりしていた。
「覚えないですね」
エリアスが尋ねると、向かいに座った青年はそう答えた。嫌そうな顔をしたわけでもない。馬鹿にした様子もない。
目の前の炉を見る限り、本当に使う機会がなさそうだった。
「使える人が減ってるのは知ってる?」
「知ってますよ。祖父が使えますから」
「じゃあ、教わろうとは?」
「子供の頃に少しだけ。でも、今はこっちがありますし」
青年が指したのは、家の隅に置かれた新しい炉だった。
火を落としても、翌朝になれば簡単な火の魔法で点け直せる。昔の家より隙間が少なく、燃料も手に入りやすい。火を残しておく必要そのものが薄れていた。
「嫌いなわけじゃないんだ?」
「祖父の魔法をですか? まさか」
青年は笑った。
「冬の朝なんか、昔はあれがないと大変だったって聞いてます。便利だったんでしょうね」
「だった?」
「今は、なくても困りませんから」
それだけだった。
エリアスは手帳へ書き込む。
術式も使い手もまだ残っている。ここへ来た日に聞けば、若者が覚えないのは惜しいと思ったかもしれない。今は古い炉も新しい炉も見た。青年が必要としていない理由が、目の前にある。
別の家でも答えは似ていた。
「母には習いましたよ。でも、使いませんね」
「昔の家なら役に立ったんじゃないですか」
「うちの子にも? いやあ、わざわざ覚えさせなくてもいいでしょう」
若者だけではない。
古い魔法を知る側も、妙に淡泊だった。
「覚えさせないんですか?」
エリアスが尋ねると、以前話を聞いた老人は不思議そうに眉を上げた。
「なんでだ?」
「いや、使える人が減ってるから」
「そりゃ減るだろ。使わんのだから」
あまりにも当然のように返されて、エリアスは言葉に詰まった。
「寂しくない?」
「少しはな」
老人は炉の前に腰を下ろし、煤のついた石を撫でた。
「俺が若い頃は、これを覚えてないと朝が面倒だった。親父に何度も叩き込まれたもんだ」
「じゃあ、孫にも」
「今の家じゃ、朝になったら火を点けりゃいい」
「……まあ、そうだよね」
「必要もないもん覚えろって言ったら、そっちのほうが嫌われるわ」
老人が笑う。
エリアスもつられて笑った。
そういうものなのかもしれない。
優れた術式を整理し、改良して後世へ渡すことも魔法使いの仕事だ。だが今聞いているのは、暮らしが変わって、使う理由の方がなくなった魔法の話だった。
だったら。
エリアスは手帳へ一行を書き加えた。――継承されないことと、価値がなかったことは同じではない。
昔必要だったものが、今は使われなくなる。そのことを失敗と呼ぶ気にはなれなかった。老人も、孫に無理に覚えさせるつもりはないのだ。
「……覚えなくていい魔法、か」
呟くと、老人が横から手帳を覗き込んだ。
「なんだそりゃ」
「今思いついた」
「変なこと考える魔法使いだな」
「よく言われる」
本当に言われたことがあるかはともかく、エリアスはそう答えて手帳を閉じた。
調べることは、だいぶ減ってきた。
術式と発動条件、使い方に加え、家屋や燃料、冬の朝に火を残した理由と、今は使われない理由まで聞けた。
残りはもう多くない。
それでも、エリアスはこの土地を出る前に、もう少しだけ書いておきたいと思った。
◯
「……エリアス?」
聞き覚えのある声に振り返った。
最初は、似た声の誰かだと思った。
別れた相手の声が、別の町で聞こえるとは思わなかった。
「リディア?」
そこにいたのは、間違いなく以前知り合った女だった。
リディアは驚いた顔のまま数歩近づき、それから笑った。
「やっぱり。何してるの、こんなところで」
「それ、こっちの台詞じゃない?」
「私はいいのよ」
「ずるいな」
「旅人なんてそんなものでしょ」
「それを言われると弱い」
二人で笑った。
久しぶりでも、話し始めると気まずさはなかった。リディアが目の前で笑っている。それだけでエリアスも嬉しくなった。
「時間ある?」
「少しくらいなら」
「じゃあ飲もう」
「昼から?」
「再会したんだから、それくらいいいだろ」
「理由になってないわよ」
そう言いながら、リディアは断らなかった。
◯
結局、酒が一杯で終わるはずもなかった。
「相変わらずなのね」
「何が?」
「女の人を見てるところ」
「それは仕方ない」
「何が仕方ないのよ」
「綺麗なものに目が行くのは、人間として自然な――」
「はいはい」
「雑になったなあ」
「前から知ってるもの」
リディアは笑いながら杯を傾けた。
エリアスも飲む。
妙な感じだった。
以前一緒に飲んだことも、口説いて断られたことも、エリアスは覚えている。道が分かれれば会わなくなるのが旅だと思っていたが、今はリディアが目の前で笑っていた。
「どうしたの?」
「いや」
「変な顔してたわよ」
「失礼だな。考え事してただけ」
「魔法?」
「だいたい魔法」
「本当に好きね」
「好きだから旅してるんだよ」
エリアスは杯を置いた。
「今、使う人が減ってる魔法を調べてる」
「へえ」
「昔は必要だった。でも今は、なくても困らない。だから若い人は覚えない」
「なくなっちゃうの?」
「たぶんね」
そう答えてから、少し考える。
「でも、それでいいのかもしれない」
「記録しに来たのに?」
「記録することと、使い続けてもらうことは別だろ」
口にしてみると、思った以上にしっくりきた。
リディアは少しだけ目を細めた。
「じゃあ、なくなるのを止めたいわけじゃないのね」
「うん。昔の暮らしには必要だった。でも、今の人に必要ないなら、無理に覚えさせる理由もない」
「それでも書くの?」
「書くよ」
答えはすぐに出た。
「使われなくなったからって、なかったことにはならないから」
リディアはしばらくエリアスを見ていたが、やがて小さく笑った。
「それなら、あなたが書く意味はあるんじゃない?」
「だろ?」
「そこで得意そうな顔するから台無しなのよ」
「褒められたと思ったのに」
「半分くらいは褒めたわ」
「残り半分もくれよ」
「欲張り」
杯が軽く触れ合った。
それからは、魔法とは関係のない話をした。
旅先で食べたもの。
ひどかった宿。
妙に高かった酒。
どうでもいい話ほど、久しぶりに会った相手とは楽しい。
やがて窓の外が赤く染まり始めた頃、リディアが席を立った。
「そろそろ行くわ」
「もう?」
「あなたも旅の途中でしょう?」
「まあね」
「なら、またどこかで会うかもしれないわよ」
「ずいぶん簡単に言うなあ」
「今日だって会えたじゃない」
それはそうだ。
エリアスも立ち上がる。
「じゃあ、また」
「ええ。またね、エリアス」
それだけだった。
約束はしない。
次に会う場所も決めない。
それぞれに行くところがある。
けれど、店を出て別の道へ歩いていくリディアの背中を見送りながら、エリアスは妙に納得していた。
別れても、あの土地でリディアと会ったことは消えなかった。火を残す魔法も、使われなくなればそれで終わりとは言えない。使った人がいて、必要だった朝があった。そのことを書いておける。
宿へ戻ったエリアスは、机の上に手帳を広げた。
調査は、ほとんど終わっている。
あとは散らばった記録を整理し、ひとつの形へまとめればいい。
ペンを走らせていると、不意に別の顔が浮かんだ。
ヴァネッサ。
ここ数日、食事や酒を一緒にすることが増えた女。
自分が口説いているつもりなのに、ときどきどちらが口説いているのか分からなくなる。
少なくとも、前の町で引っかかったような類ではない。
それはもう、ほぼ確信していた。
ただ。
彼女が自分をどれくらい気に入っているのか。
そこだけは、まだ少し見誤っていた。




