第45話 火を残した人々
翌朝、エリアスはヴァネッサと町の古い一角へ向かった。
昨日見せてもらった、炉の熱をわずかに残す魔法。それがなぜ必要だったのかを知るには、今の家を眺めていても仕方がない。
「この辺りは古い家がまだ残ってるの」
隣を歩くヴァネッサが言った。
「昔の暮らしを知っている人にも話をしてあるわ」
「仕事が早いな」
「昨日、案内するって言ったでしょう?」
やがてヴァネッサが足を止めた先に、長く使われていない石造りの家があった。その前では、一人の老人が杖を手に待っている。
「この人なら、昔ここでどう暮らしていたか知ってるわ」
「話は聞いてるよ。中を見たいんだろう?」
「ああ。助かる」
老人が扉を開ける。
ヴァネッサも一緒に中へ入り、エリアスはその後に続いた。
乾いた埃と古い木の匂いが鼻につく。壁際には大きな炉が据えられ、その周囲だけ床の石が黒ずんでいた。
「でかいな」
「昔の家はこんなものさ」
老人が、炉の縁を杖で軽く叩いた。
「今みたいに、火を起こす魔法具がどこの家にもあるわけじゃなかった。薪だって好きなだけ使えたわけじゃない」
エリアスはしゃがみ込み、炉の内部を覗いた。
奥には煤がこびりつき、石の隙間には灰が残っている。
「朝は?」
「前の晩の火が残ってりゃ楽だった。消えてりゃ、また最初からだ」
「なるほど」
エリアスは手帳を開いた。
術式の記録は昨夜までにほぼ済ませていた。炉や竈に残る熱を逃がしにくくするだけで、冷え切ってしまえば役には立たない。エリアス自身なら火を起こせる。だが、その手段を持たない家ではどうだったのか。
「昔は、火をつける魔法を使える人間はいなかったのか?」
「いたんじゃないか? でも、うちみたいな家にはいなかったよ」
老人は笑った。
「みんなが魔法使いだったわけじゃないからな」
「ああ……そりゃそうか」
エリアスは筆を止めた。
自分に簡単な術でも、昔のどの家にも使い手がいたわけではない。薪を割って乾いたものを選び、火種を作って燃えるまで世話をするなら、一度ついた火をできるだけ長く使いたいはずだ。
それなら、熱を残すだけの小さな魔法にも十分な価値がある。
「冬は?」
「朝が一番つらかったな。炉が冷え切ってると、家の中まで冷えてる。指が動かんのに、そこから火を起こすんだ」
エリアスは手帳へ書き加えた。
冬の朝、薪の残り、火を入れ直す手間、冷える家。炉の前で聞くたびに、術式の欄だけでは足りないことが増えていく。
別の家では、同じ魔法を竈に使っていたという話を聞いた。
さらに別の老人からは、薪が湿った季節ほど前夜の火を残せるかどうかが大事だったと教えられた。使い方にもわずかな差があった。
炉そのものへ魔力を流す者もいれば、灰の下へ残った熾火を意識する者もいる。術式の骨格は同じでも、何を見て、どこで使うかは暮らしによって違っていた。
エリアスは炉を見比べ、使い手の話を聞き、手の動きも確かめた。旅の途中でも同じように調べてきたが、今回は使われなくなりかけた術を、かつての暮らしの中から探している。今は選ばれなくても、朝の火を残したい人々には必要な魔法だった。
◯
「今日はずいぶん歩いたみたいね」
夕方、宿へ戻る途中で声をかけられた。
振り返ると、ヴァネッサがいた。
「分かる?」
「靴」
言われて足元を見る。
革靴の縁に、古い家の床でついたらしい灰が薄く残っていた。
「そこを見るのか」
「顔を見て分かったって言った方が嬉しかった?」
「それなら、俺に興味があるってことだからね」
「あら。靴を見るのは興味に入らないの?」
「……なるほど」
エリアスは笑った。
こちらが一歩近づけば、ヴァネッサも笑って返してくる。かといって、思うとおりには転がってくれない。そのやり取りがエリアスには楽しかった。
「これから食事?」
「そのつもり」
「じゃあ、一緒にどう?」
「調査のお礼?」
「俺があなたと食べたいから」
ヴァネッサは少しだけ目を細めた。
「素直ね」
「回りくどく言った方が好みだった?」
「いいえ。今の方が好き」
あっさり言って、彼女は歩き出した。
エリアスは一瞬遅れて、その隣へ並ぶ。
どうやら脈はある。
少なくとも、そう思っていいだろう。
前の町で痛い目を見たばかりなので、そこだけは少し慎重になっていた。
何人かの住民の口からも彼女の名を聞いた。不自然にこちらを窺う者は見えず、金の話もない。もちろん、それだけで相手のすべてが分かるわけではないが。
(まあ、それで女を口説くのをやめるのは違うよな)
エリアスは、昨夜までより少し確かめてから彼女の隣を歩いた。
◯
店では、煮込んだ肉と黒パン、それに土地の酒を頼んだ。
昼間に歩き回ったせいで腹が減っていたエリアスは、最初の皿をかなりの勢いで平らげた。
「よく食べるのね」
「旅してると、食べられる時に食べる癖がつくんだよ」
「お酒も?」
「それは旅に出る前から」
「女性も?」
「それも旅に出る前から」
ヴァネッサが吹き出した。
「そこまで迷わず答える人、初めて見たわ」
「隠して後でばれるよりいいでしょ」
「それで、いつも上手くいくの?」
「……そこは聞かないでほしいな」
「あら。失敗したばかり?」
エリアスの手が止まった。
ヴァネッサは杯を口元へ運びながら、楽しそうにこちらを見ている。
「なんで分かった?」
「今、少しだけ考えてから私を食事に誘ったでしょう」
「そこまで見てたの?」
「見てたわよ」
さらりと言われた。
エリアスは酒を一口飲む。
自分では、かなり自然に振る舞っていたつもりだった。
「怖いな」
「今さら?」
「いや、面白い」
それは本心だった。
言葉の裏まで読まれても、こうして会話が続くのは楽しかった。
「じゃあ、今は何を考えてると思う?」
「私を口説いてる」
「正解」
「もう少し難しい問題にしたら?」
「じゃあ、その先は?」
ヴァネッサは答えず、杯を傾けた。
その仕草が妙に様になっている。
エリアスが見ていることにも気づいているはずなのに、わざわざ隠そうとはしない。
「それは、あなたがもう少し頑張ってから考えるわ」
「手厳しい」
「そう?」
「でも、断られてはいない」
「そうね」
また笑う。
こちらの狙いを知ったうえで付き合い、ときには先に踏み込んでくる。遊ばれている気もしたが、エリアスはそのやり取りをもっと続けたくなった。
「ところで、調査はどうだったの?」
ヴァネッサが話を戻した。
「ああ。かなり面白かったよ」
エリアスは昼間に聞いた話を説明した。
燃料が今より貴重だったこと。冬の朝、冷えた炉へ一から火を入れるのが大仕事だったこと。火を起こす魔法を誰もが使えたわけではなかったこと。
「最初に見た時は、ずいぶん小さな魔法だと思ったんだけどね」
「今は?」
「小さいのは変わらない」
エリアスは肉を一切れ口へ放り込み、飲み込んでから続けた。
「でも、必要だった理由は分かった。火を残せるだけで助かる暮らしが、本当にあったんだ」
手帳の術式の周りには、家と炉、薪と冬の朝について聞いたことが並んでいた。そこで暮らした人が必要としていたから、使い方も伝わってきた。その理由まで含めて、ようやく今回の魔法を説明できそうだった。
「明日は若い人にも聞いてみるつもりだよ」
「どうして?」
「昔使ってた人の話だけじゃ、今使われなくなった理由までは分からないから」
「真面目なのね」
「俺はいつでも真面目だよ」
「私を口説いている時も?」
「ものすごく真面目」
ヴァネッサは声を立てて笑った。
しばらくして、彼女の杯が空く。
エリアスが酒瓶へ手を伸ばすより先に、ヴァネッサが瓶を取った。
自分の杯ではなく、エリアスの杯へ注ぐ。
「じゃあ、真面目な研究者さんにもう一杯」
「これは期待していいやつ?」
「どうかしら」
酒を注ぎ終えても、ヴァネッサはすぐには手を戻さなかった。
瓶を置いた指先が、エリアスの手のすぐそばに残る。
触れてはいない。
だが、偶然にしては近い。
エリアスがその手へ視線を落とすと、ヴァネッサは何も言わずに微笑んだ。
からかわれているだけなら、もう少し距離を取るだろう。
少なくとも、嫌がられてはいない。
それどころか。
(これ、思ってたより気に入られてるか?)
そう考えると、悪い気はしなかった。
むしろ、かなりいい。
ただし、彼女がどの程度こちらを気に入っているのかまでは、まだ分からない。
エリアスは杯を持ち上げた。
「明日も付き合ってくれる?」
「調査に?」
「それも」
「欲張りね」
「知ってるでしょ」
「ええ。少しずつ分かってきたわ」
ヴァネッサはそう言って、自分の杯をエリアスの杯へ軽く触れさせた。
乾いた音が一つ鳴る。
昼間は炉の前で、昔の暮らしと魔法のつながりを聞いた。今は、酒杯の向こうにいるヴァネッサがこちらをどう見ているのか、もう少し知りたかった。
ならば。
今度こそ、もう少し上手くやりたいところだった。




