第44話 消えかけた魔法
前の町を出てからも、エリアスは時折、緩んだ金袋の紐を思い出した。もう結び直してある。それでも、セラに誘われて浮かれた自分までは、なかったことにできない。
「……美人だからって、ほいほいついていくのはよくない」
街道を歩きながら、ひとり呟く。
口に出せる程度には、反省している。
「でも、美人に声をかけないのは違うよな」
気をつけるのと、女に声をかけるのをやめるのとは違う。そう考えながら次の町へ入ると、通り沿いの食堂から肉の焼ける匂いがした。エリアスの足は迷わずそちらへ向かった。
「いい町だ」
まだ何も見ていないのに、エリアスはそう評価した。
石造りの家が多い町だった。
大きな街道から少し外れているためか、人の往来はさほど多くない。建物も新しいものばかりではなく、煤で黒ずんだ煙突や、何度も補修された壁が目につく。
昼を少し過ぎたところだった。
エリアスは宿を取るより先に食堂へ入り、焼いた肉と豆の煮込み、それから麦酒を頼んだ。
まず食べる。
研究はそのあとだ。
「兄ちゃん、旅の魔法使いかい?」
料理を運んできた店主らしい男が、エリアスの荷物を見て言った。
「まあ、そんなところです。変わった魔法を探して旅してまして」
「変わった魔法?」
「この辺だけで使われてるようなやつです。生活の中で使う、小さな魔法でもいい」
店主は首を傾げた。
「そんなもん、あったかな」
「何でもいいんですよ。火をつけるとか、水を運ぶとか。ほかじゃ見ない使い方をしてるなら、それだけで面白い」
「だったら――」
店主が厨房の奥を振り返った。
「昔は、火を残す魔法があったな」
肉へ伸ばしかけていたエリアスの手が止まった。
「詳しく」
「食いながらでいいだろ」
「もちろん」
手は再び動いた。
研究は大事だが、肉が冷める。
店主の話では、それは炉や竈に残った熱を逃がしにくくするための魔法だったらしい。
夜、火を落としたあとに使う。
朝になっても灰の下に熱が残りやすくなり、火を起こすのが楽になる。
「それ、まだ使ってます?」
「うちは使ってないな。親父の頃には使ってた気がするが」
「術式は?」
「知らん」
「使える人は?」
「さあなあ」
店主は考え込み、それから厨房へ声をかけた。
「おい、火残しって誰かまだ使えたか?」
奥から返ってきたのは、知らない、という答えだった。
エリアスは麦酒を一口飲んだ。
敵を倒したり城壁を壊したりはできない。それでも、毎朝の火に関わっていた魔法だ。エリアスは食べかけの肉を飲み込み、店主へ身を乗り出した。
「面白いな」
「そんなもんが?」
「そんなもんだから面白いんですよ」
食事を終えると、エリアスはさっそく町を歩き始めた。
聞き込みは難航した。
若い住民には存在すら知らない者が多い。名前だけ、あるいは祖父母が使っていた姿だけ覚えている者もいたが、自分で使えるという者にはなかなか出会えなかった。
ようやく教えられたのは、町外れに住む老人だった。
「火を残す魔法?」
老人は家の炉端に座りながら、懐かしそうに目を細めた。
「ああ。まだできるぞ」
「見せてもらっても?」
「こんなもん見て、何が面白いんだ」
「僕には面白いんです」
老人は不思議そうな顔をしたが、断りはしなかった。
炉には昼に使った火の名残がある。
赤みを失いかけた炭へ老人が手を向け、小さく魔力を流した。
エリアスは目を細める。
火が大きくなるわけではない。ただ、炉の内側を覆うように、ごく薄い魔力の層ができた。
「なるほど」
エリアスはすぐに手帳を開いた。
熱を生み出すのではなく、炉に残る熱が逃げる速度を少しだけ緩めている。狭い炉を覆う、弱い魔法だ。エリアスはその薄さに見入った。
「もう一回お願いできます?」
「いいぞ」
「今度は少しゆっくり」
老人が同じ魔法を使う。
エリアスは魔力の動きを追いながら、手帳へ書き込んでいった。
術式と発動条件、対象、効果、必要な魔力量を書き留める。術そのものの記録は、それでひとまず形になった。
「これ、今も使うんですか?」
「いや」
老人はあっさり答えた。
「使わない?」
「今はもっと楽なやり方があるからな。火を起こすのだって昔ほど面倒じゃない。わざわざ夜にこんなことせんよ」
「じゃあ、どうして覚えてるんです?」
「若い頃に使ってたからだ」
それだけだった。
老人にとっては、特別な魔法ではない。
必要だった頃に覚えた術を、今も身体が覚えている。ただ、使う理由はもうないのだ。
エリアスは手帳へ視線を落とした。
術式も条件も効果も分かった。それでも、老人が使わなくなったと聞くと、頁に空白があるように思えた。
「……昔は、なんでこれが必要だったんです?」
気づけば、そんなことを聞いていた。
老人が眉を上げる。
「なんでって、朝が楽だからだろ」
「火を起こすのが?」
「今とは違うからな」
老人は炉を指した。
「冬なんか、朝一番に火を起こすだけでも面倒だった。炭が少しでも生きてりゃ、ずいぶん違う」
エリアスは炉を見る。
目の前の炉と魔法は同じでも、今の暮らしから眺めるだけでは、その便利さは測れなかった。
術式だけを見れば、熱をわずかに保つだけの小さな魔法でしかない。
では、これを毎晩使うほど必要としていた暮らしとは、どんなものだったのか。
エリアスは手帳の新しい頁を開いた。
「もう少し、昔の話を聞かせてもらえます?」
◯
老人の家を出た頃には、日が傾き始めていた。
話はたっぷり聞けたが、一人の記憶だけでは、かつての町の暮らしを掴みきれない。
「古い家も見たいな。あとは、昔の燃料事情か」
歩きながら手帳をめくる。
炉の形に薪や炭の使い方、冬の寒さ、朝の火起こし。手帳には、術式の周りを埋めるための問いが増えていた。
「あなた、ずいぶん楽しそうね」
不意に声をかけられ、エリアスは顔を上げた。
通りの端に、一人の女が立っていた。
エリアスより年上らしい、落ち着いた物腰の女だった。こちらを見ても慌てる様子がなく、しかも美人だ。
エリアスは一瞬だけ黙った。
声をかけられて嬉しくなったが、先日のこともある。エリアスは通りを見渡した。妙な男は見えず、女の視線も財布ではなく手帳に向いている。少しは学習したらしい。
「そんなに楽しそうでした?」
「ええ。歩きながら何度も手帳を見て、笑っていたもの」
「それはちょっと恥ずかしいな」
「魔法使いでしょう?」
「分かります?」
「その格好で違うと言われた方が困るわね」
女はくすりと笑った。
その笑い方にも、妙に余裕がある。
「エリアスです。旅をしながら、土地ごとの魔法を調べてます」
「ヴァネッサよ」
差し出された名前を、エリアスは頭の中で一度転がした。
ヴァネッサ。
覚えやすい。
「それで、今は何を調べているの?」
「火を残す魔法です」
「あら」
ヴァネッサの表情が変わった。
「知ってます?」
「知っているわ。昔は珍しくなかったもの」
エリアスの意識が、一気に研究へ戻った。
「使える?」
「私は使わないわね。でも、使っていた人なら何人か知っているわ」
「本当に?」
「ええ」
これはありがたい。
エリアスは手帳を閉じた。
「昔の家とか、炉の使い方とかも分かります?」
「少しなら。あなた、魔法そのものじゃなくて、そんなところまで調べるの?」
「この魔法については、まだ調べ足りないところがあって」
エリアスは笑った。
「術式は書けたんです。でも、それだけじゃ足りない気がして」
「何が?」
「この魔法が、なんで必要だったのか」
ヴァネッサは少しだけ目を細めた。
エリアスは続ける。
「今じゃ、ほとんど誰も使わない。術式だけ見れば、別にすごい魔法でもない。でも昔は、わざわざ覚えて毎晩使う人がいた。それなら、そっちも知らないと、この魔法を拾ったことにならない気がする」
言いながら、エリアスは手帳に挟んだ頁を思い浮かべた。旅の初めから土地と使い手にも目は向けてきたが、この町では、魔法が必要なくなった理由まで追わなければ書ききれない。そう思うほど、調べる範囲は深くなっていた。
「変わった魔法使いね」
「よく言われます」
「褒めてはいないわよ?」
「美人に言われたなら、だいたい褒め言葉として受け取ります」
ヴァネッサが一瞬きょとんとして、それから声を立てて笑った。
「そういう人なのね」
「こういう人です」
美人局に引っかかったからといって、この辺まで直す気はない。
「じゃあ、変わった魔法使いさん」
ヴァネッサが通りの先を指した。
「明日、時間があるなら古い家を見せてあげる。昔の暮らしを知っている人にも心当たりがあるわ」
「ぜひ」
「朝からでいい?」
「もちろん」
答えてから、エリアスは少しだけ考えた。
「ちなみに、変な男たちが出てきたりは?」
「何の話?」
「いや、こっちの話です」
ヴァネッサは怪訝そうな顔をした。
エリアスは咳払いして誤魔化す。
反省はしている。
警戒も、少しは覚えた。
それでも明日の予定が年上の美人との待ち合わせになったことについては、素直に嬉しい。
「じゃあ、明日」
「ええ。また明日」
ヴァネッサと別れ、エリアスは宿へ向かう。
途中でもう一度、手帳を開いた。
火を残す魔法は、術式が簡単で効果も小さく、もうほとんど使われていない。その分、これを毎晩使っていた頃の話が気になった。
「消える前に、ちゃんと見ておくか」
エリアスは頁の端へ、明日調べることを書き足した。
古い家と炉、燃料、冬の朝。そして、火を残していた人々のこと。
珍しい術式を一つ拾って終わるつもりだった。
だが今回は、もう少し拾うものがありそうだった。




