第43話 懲りない旅人
宿へ戻った頃には、夜もかなり深くなっていた。エリアスは部屋へ入るなり鞄を開き、帳面を取り出した。
酒はもう抜け始めている。眠気より先に、書いておきたいことが山ほどあった。
美人局の連中のところで借りた紙を卓へ広げる。
急いで書いたせいで文字は少し乱れていたが、必要なことは残っている。
紐ほどきと戸鳴り止め。どちらも、魔法そのものは難しくない。
エリアスは灯りを少し近づけ、帳面の新しい頁を開いた。
「まず、紐ほどきからだな」
小さく呟いて筆を取る。
対象は単純な結び目。固く締めたものや二重に結んだものには向かず、近づかなければ使えない。そこまで記したところで筆を止め、酒場でのセラを思い返す。結び目の状態や袋の重さを見て、相手が座り、別のことへ注意を向けた時にだけ使う。直後には腰へ意識を戻させない。聞き取った手順を、一つずつ帳面へ移した。
セラは笑いながら肩や腕に触れ、少しずつ距離を縮めた。エリアスが彼女の顔ばかり見ていたところで、腰へ手を伸ばしたのだ。
「……上手かったな」
認めたくはないが、術の使い方が上手かった。
紐ほどきだけを見れば、エリアスにとって大した術ではない。
エリアスなら強い力で結び目を解き、遠くの物を動かすこともできる。だが、それでは目立つ。この弱さが、人の動きへ術を紛れ込ませていた。
エリアスはその一文を帳面へ足した。
次は戸鳴り止め。
扉の軋みを完全に消すわけではなく、蝶番や木と金具の擦れる部分へ、小さな力を加える。隣室で待ち、合図を受け、相手の注意がセラへ向いている時に使う。音を抑えるのは扉を開ける一瞬だけでいい。
「魔法じゃなくて、手順まで一緒に書かないと意味ないな」
自分で言って、少し笑った。
術式と土地や使い手を併せて見てきた旅と、やることは変わらない。今回は、その使い手が盗人だった。
エリアスは筆を止めた。
「盗人、か……」
これまで見てきた魔法の多くは、料理や農作業、海や雪の中での仕事と暮らしを支えていた。今回の術は、人を騙して金を取るために使われた。その違いに、少し変な気分になる。
だからといって、魔法そのものが悪いわけでもない。
戸鳴り止めなど、使い方を変えれば夜中に扉を静かに開けるだけの術になる。
紐ほどきも、固くなった荷物の結び目を緩めるなら便利かもしれない。
使い道を決めているのは人間だ。
「まあ、だからってあいつらが悪くないことにはならないけど」
金を取られかけた当人として、美人局まで肯定する気はなかった。
帳面へ最後の注記を加え、筆を置いた。
ひとまず完成。
後日、自分で術式を再現し、条件ごとの差も確認した方がいいだろう。
紐の太さや結び方、扉の材質や蝶番の傷み具合でも差が出るだろう。調べたいことはいくらでもあった。
そこまで考えたところで、エリアスは椅子の背へ身体を預けた。
「……成果はあったな」
知らない小魔法を二つ拾い、術式だけでは分からない使い方まで聞けた。魔導書へ載せる材料としても面白い。ただ、犯罪の手順をそのまま並べればいいわけではない。術と使い手について、どう書くかは考えたい。
「うん。いいな」
大賢者の弟子が各地の名もない魔法を集めた本だ。売れれば金が入り、名前も売れる。
そうなれば。
「女にもモテる」
そこまで口にして。
エリアスは黙った。
今日のことを思い出した。
栗色の髪の美人が酒場で笑いかけ、腕を絡めてきた。静かなところへ行こうと言われ、ついていった先で男に金を要求された。その前に金袋の紐まで緩められていた。
「……」
帳面の上に額をつけたくなった。
研究成果を眺めている間は忘れられる。
だが、どうしてこの成果を得たのかまで考えると、途端に情けなくなる。
「普通に騙されてるからな、俺……」
しかも、まったく怪しいと思わなかったわけではない。
大通りから離れたあたりで、一度は考えた。
少し出来すぎていないか。
知らない街で、夜に人気の少ない場所へ入って大丈夫か。
そこまで考えて。
セラの顔を見て。
まあいいか。
となった。
「言い訳できないな」
エリアスは天井を見る。
相手は手慣れていて、小さな魔法まで使っていた。それでも、警戒する材料は途中で見つけていた。引き返さなかったのは、セラが美人で、今夜はいけると思ったからだ。
「……師匠から、こういう女には気をつけろって言われてたんだけどな……」
ぽつりと呟く。
旅先で親しげに近づく相手を何でも信用するな、と言われていた。とくに女に弱いおまえは気をつけろ、とも。当時はそこまで言わなくていいと思ったが、言われるだけの理由はあった。
「完全に俺のせいだな」
認めるしかない。
知らなかったわけでも、教わらなかったわけでもない。浮かれて、使える頭を使わなかった。それが一番格好悪かった。
エリアスは椅子から立ち上がり、寝台へ倒れ込んだ。
「次はもう少し気をつけよう」
少なくとも、知らない街で向こうから近づいてきた女についていくなら。
相手が何者で、どこへ行くのか。都合がよすぎないか。そのくらいは考えた方がいい。
今度こそ。
そう思う。
だからといって。
「女遊びやめるのは違うよな」
そこまで反省する必要はない。
美人を見れば目で追うし、話が合えば飲みたい。互いにその気なら、その先まで行きたい。今回まずかったのは、そこへ気を取られて警戒を忘れたことだ。
「うん」
自分なりに納得する。
次は気をつける。それでも、美人には目が行くだろう。
エリアスは灯りを消した。
暗くなった部屋で、しばらく天井を見つめる。
研究成果は悪くない。
旅も悪くない。
失敗は、まあ。
「二度は嫌だな」
そう呟いて目を閉じた。
◯
翌朝。
エリアスは早めに宿を出た。
荷物を背負い、帳面と昨日の記録を鞄へ収める。
金袋の紐は、いつもより少しだけ固く結んだ。
念のためである。
街はもう動き始めていた。
店が開き、荷車が行き交い、通りのあちこちから声が飛ぶ。
この街で拾ったのは、思いも寄らず盗人の小魔法だった。歩いてみるまで分からないものだ。
エリアスは街門へ向かう。
次の土地でも知らない魔法を探し、うまい飯があれば食う。酒も飲む。魔導書へ載せる材料を増やして、売れる本にしたい。金も名声も欲しい。そして――
前から歩いてきた女へ、視線が止まった。
明るい色の髪を結い上げた、旅装の若い女だった。
成人しているように見える。
すれ違う。
エリアスの目が自然にその姿を追った。
二歩。
三歩。
そこで昨日のことを思い出す。
「……いや」
顔を前へ戻す。
少しだけ早かった。
だが、見なかったことにはならない。
「美人だったな」
それはそれである。
エリアスは苦笑した。
反省はした。次は、少なくとも昨日より警戒するつもりだ。それでも金も酒もうまい飯も女も好きで、何より魔法が好きだった。そのどれかを捨てるつもりはない。
エリアスは街門を抜けた。
道はまた先へ続いている。
肩の荷物を背負い直し、一人で歩き出す。
次の土地に何があるのかは、まだ知らない。
だからこそ、見に行くのだった。




