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大賢者の弟子は、忘れられた魔法を拾いに行く  作者: Atelier Lotus文庫
第九章 旅人の失敗

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第41話 旅人の失敗

 宿は大通りから二本奥にあった。古い看板の下に明かりが一つあるだけで、扉を開けても酒場の声は届かない。


 受付にいた男が一度だけこちらを見た。


 セラが何か短く告げると、男は慣れた様子で鍵を渡す。


 エリアスは少しだけ眉を上げた。


「本当に詳しいな」


「言ったでしょ。この街の人だって」


「こういう宿まで?」


「静かなところが好きなの」


 セラはそう言って笑った。


 そのまま階段を上がっていく。


 エリアスも後を追った。


 廊下には灯りが少なく、足音だけが響く。


 案内されたのは奥の部屋だった。


 セラが鍵を開ける。


「どうぞ」


「お邪魔します」


「宿なのに?」


「気分の問題」


 部屋へ入る。


 部屋には寝台と小さな卓、椅子が二脚あり、壁際に水差しが置かれていた。静かな場所という意味では、セラの言葉どおりだ。


 酒場の騒ぎは、もうほとんど聞こえなかった。


 セラが扉を閉める。


 エリアスは何となく寝台を見る。


 それからセラを見る。


 目が合った。


「何?」


「いや」


「寝台見たでしょ」


「見た」


「正直ね」


「今さら取り繕っても仕方ないだろ」


 セラが笑う。


 まだ悪くない。


 むしろ、かなりいい。


 セラは卓の上に置かれていた小さな酒瓶を手に取った。


「もう少し飲む?」


「飲む」


「強いのよ?」


「その方がいい」


 二つの杯へ酒が注がれる。


 さっきの店より香りが強い。


 エリアスは一口だけ口に含み、少し目を細めた。


「確かに強いな」


「苦手?」


「全然」


「よかった」


 セラが向かいではなく、隣の椅子へ座る。


 距離が近い。


 肩が触れそうなくらい。


 エリアスもわざわざ離れなかった。


「旅って楽しい?」


「楽しいぞ」


「一人なのに?」


「一人だから楽なこともある」


「例えば?」


「行きたいところに行ける。気になった魔法があれば好きなだけ見てられる」


「やっぱり魔法なんだ」


「それが目的だからな」


「女より?」


 エリアスは少し考えた。


「比べるものじゃないだろ」


 セラが吹き出した。


「そこ、迷わないんだ」


「どっちも好きでいい」


「欲張りね」


「そうかもな」


 今度はエリアスも笑った。


 セラの膝が触れる。


 離れない。


 エリアスも気にしない。


 むしろ、このあとの流れを期待していた。


 セラが杯を置いた。


 身体ごとこちらへ向く。


「エリアス」


「ん?」


「本当に一人旅?」


「そうだけど」


「誰か待ってる人はいないの?」


「いない」


 ふとネリスの顔が浮かぶ。彼女は自分の町で仕事をしている。別れ際にも、待つという約束はしなかった。


「じゃあ」


 セラがさらに近づく。


 エリアスも自然に顔を寄せ――


 そのとき。


 背後で空気が動いた。


 音はしなかった。


 ただ、気配だけが増えた。


 エリアスが振り返る。


 扉の前に男が二人、部屋の奥の小さな扉の横にも一人。誰も笑っていなかった。


 エリアスは数秒、黙った。


 セラが離れる。


 さっきまでの柔らかい表情も消えていた。


「……ああ」


 ようやく理解した。


「そういうやつか」


 男の一人が鼻で笑う。


「随分楽しそうだったな、旅人」


「まあ、途中までは」


「こいつが誰か知ってるか?」


 男がセラを顎で示す。


「セラ」


「名前の話じゃねえ」


「じゃあ知らない」


「俺の女だ」


 エリアスは男を見る。


 次にセラを見る。


 セラは何も言わない。


「なるほど」


 男が一歩近づいた。


「人の女に手ぇ出しておいて、なるほどで済むと思ってんのか?」


「いや、向こうから来たんだけど」


「は?」


「酒場で声かけてきたの、そっち」


 男の眉が動く。


「言い訳か?」


「事実だけど」


「酔わせて連れ込んだんだろ」


「逆だな」


 男の主張が本当かどうかは関係ない。セラと二人で入った部屋へ男たちが現れ、責め立てて金を取る。美人局だ。エリアスは自分が誘われてここまで来た道を思い返した。


 エリアスは天井を見た。


 何とも言えない気分だった。


「騒ぎにされたくなきゃ、分かるよな?」


 男が言う。


「金だよ。持ってるだけ置いてけ」


「全部?」


「全部」


「それは嫌だな」


「選べる立場だと思ってんのか?」


「いや」


 エリアスはため息をついた。


「そこは選べる」


 一番近くにいた男が、苛立ったように手を伸ばしてきた。


「面倒くせえな。じゃあこっちで――」


 その手が、エリアスの腰へ向かう。


 エリアスは反射的に押さえた。


 そこで気づいた。


「……ん?」


 金袋を腰へ留めている紐が緩んでいる。


 結び目が半分ほどほどけていた。


 袋の口ではなく、腰帯へ結んだ紐の方だ。いつも確かめているところで、自分が緩めた覚えはない。


 エリアスの頭に、酒場での一場面が浮かぶ。


 セラの手が腰に触れた。


 ほんの一瞬。


 店員を避けただけだと思った。


 エリアスは結び目へ指を触れた。


 ごく薄い魔力の痕跡。


「……魔法?」


 セラの目がわずかに動いた。


 それだけで十分だった。


「お前、あのときか」


「何のこと?」


「腰に触ったとき」


「知らない」


「いや、これは――」


「何ごちゃごちゃ言ってんだ!」


 男が腕を掴もうとする。


 エリアスは半歩だけ下がった。そこで、今度は別の違和感に気づく。


 男たちが入ったとき、扉は鳴らなかった。階段も廊下も軋む宿で、この部屋の戸も自分たちが入るときには音を立てたのに。


 エリアスの視線が蝶番へ向く。


 そこにも、薄い魔力が残っていた。


(こっちにも何か使ってるな)


 面白い。


 一瞬だけ、そう思った。


 直後、自分が今どんな状況にいるのか思い出す。


(いや、今はそこじゃない)


「最後に言うぞ」


 男が低い声を出した。


「金を置いて消えろ」


「断る」


「そうかよ」


 男が拳を振り上げた。


 エリアスは避ける必要すら感じなかった。


 魔力を流す。


 ほんの少し。


 男の身体が横へ弾かれ、椅子にぶつかって床へ転がった。


「なっ――」


 残りの二人が動く。


 一人が腰から短剣を抜いた。


 もう一人は背後へ回ろうとする。


 エリアスは指先を軽く動かした。


 短剣が男の手から弾け、壁へ突き刺さる。


 同時に、背後へ回ろうとした男の足元を魔力で払った。


「うおっ!」


 男が派手に転ぶ。


 最初に倒れた男が起き上がりかけたので、エリアスは今度こそ少し面倒になった。


「動くな」


 短く告げ、魔力を床へ落とす。


 男たちの身体が一斉に沈んだ。


 何か重いものを背負わされたように、三人とも床へ膝をつく。


「な、なんだこれ……!」


「重……っ」


 男の一人が歯を食いしばる。


 エリアスは頭を掻いた。


「だから金だけで済ませようとするなよ」


 普通の旅人を狙ったつもりかもしれない。セラには魔法使いだと話したが、この程度で押さえ込まれるとは思わなかったらしい。


 セラは壁際へ下がっていた。


 逃げようとはしていない。


 というより、動けば自分もどうなるか分からないと思っているのだろう。


 エリアスは彼女を見る。


「お前も仲間なんだよな」


 セラは少し黙ったあと、肩をすくめた。


「見れば分かるでしょ」


「今まで結構楽しそうに飲んでたのに」


「仕事だから」


「そうか」


 それは少し残念だった。


 いや、かなり。


 酒も会話も楽しかっただけに、余計に。


 エリアスは腰の金袋を外し、緩んだ紐を見る。


「これ、何した?」


「知らないって言ったでしょ」


「まだ言う?」


 返事はない。


 エリアスは結び目に残る魔力を確かめる。


 強いものではない。


 複雑でもない。


 むしろ驚くほど小さい。


 結び目の締まった部分をわずかずつ動かす。強固な拘束には足りなくても、金袋の紐なら緩められる。


「……紐をほどく魔法か?」


 セラの視線がまた動いた。


 図星らしい。


 エリアスは扉へ目を向ける。


 蝶番に残った魔力も同じ程度に小さい。


 音を消したというほど大げさではない。


 軋みを抑えただけ。


「そっちは、戸を鳴らさないためか」


「おい」


 床に押さえられた男が苦しそうに声を出す。


「何なんだ、お前……」


「旅人」


「ただの旅人がこんな魔法使うか!」


「魔法使いとは言っただろ」


 酒場で普通に話した。


 セラも聞いていた。


「かなり優秀だとも言った」


 セラが呆れたような顔をした。


「そこ、本当だったのね」


「本当だって言っただろ」


「普通、自分で言う人は信用しないわよ」


「それはそっちの問題だ」


 言い返してから、エリアスは少し黙った。


 セラが信用しなかったのは、エリアスの魔法の腕だった。エリアスが確かめずに信じたのは、彼女が向けてきた笑顔だ。酒場でこちらへ来たことも、腕を絡めたことも都合よく受け取っていた。


 エリアスは深く息を吐いた。


「……最悪だ」


「何が?」


 セラが聞く。


「お前らに負けたとかじゃない」


 三人とも床に押さえつけ、金も取られず怪我もしていない。それでも、宿まで連れ込まれて金を要求され、金袋の紐を緩められていた。途中で一度、出来すぎた誘いだと思ったのに、引き返さなかった。


 エリアスは片手で顔を覆った。


「普通に引っかかった……」


 研究では使い手の判断を聞いてきた。今夜はセラが何を考えて自分へ近づいたのか、確かめる気にもならなかった。美人に誘われて浮かれた。それを認めるのが一番情けない。


「……俺、何やってんだ」


 誰に向けたわけでもなく呟く。


 床では男たちがまだ動けずにいる。


 セラも困ったようにこちらを見ていた。


 危険はもうない。


 恥ずかしさだけが残った。


 エリアスはもう一度、手の中の金袋を見る。


 結び目にはかすかな魔力が残り、音もなく開いた扉の蝶番にも別の痕跡がある。エリアスは金袋を見ているうちに、気になって仕方がなくなった。


「……それより」


 セラが嫌そうな顔をする。


「何?」


 エリアスは金袋の紐を指で持ち上げた。


「さっきの魔法、どうやった?」



 

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