第41話 旅人の失敗
宿は大通りから二本奥にあった。古い看板の下に明かりが一つあるだけで、扉を開けても酒場の声は届かない。
受付にいた男が一度だけこちらを見た。
セラが何か短く告げると、男は慣れた様子で鍵を渡す。
エリアスは少しだけ眉を上げた。
「本当に詳しいな」
「言ったでしょ。この街の人だって」
「こういう宿まで?」
「静かなところが好きなの」
セラはそう言って笑った。
そのまま階段を上がっていく。
エリアスも後を追った。
廊下には灯りが少なく、足音だけが響く。
案内されたのは奥の部屋だった。
セラが鍵を開ける。
「どうぞ」
「お邪魔します」
「宿なのに?」
「気分の問題」
部屋へ入る。
部屋には寝台と小さな卓、椅子が二脚あり、壁際に水差しが置かれていた。静かな場所という意味では、セラの言葉どおりだ。
酒場の騒ぎは、もうほとんど聞こえなかった。
セラが扉を閉める。
エリアスは何となく寝台を見る。
それからセラを見る。
目が合った。
「何?」
「いや」
「寝台見たでしょ」
「見た」
「正直ね」
「今さら取り繕っても仕方ないだろ」
セラが笑う。
まだ悪くない。
むしろ、かなりいい。
セラは卓の上に置かれていた小さな酒瓶を手に取った。
「もう少し飲む?」
「飲む」
「強いのよ?」
「その方がいい」
二つの杯へ酒が注がれる。
さっきの店より香りが強い。
エリアスは一口だけ口に含み、少し目を細めた。
「確かに強いな」
「苦手?」
「全然」
「よかった」
セラが向かいではなく、隣の椅子へ座る。
距離が近い。
肩が触れそうなくらい。
エリアスもわざわざ離れなかった。
「旅って楽しい?」
「楽しいぞ」
「一人なのに?」
「一人だから楽なこともある」
「例えば?」
「行きたいところに行ける。気になった魔法があれば好きなだけ見てられる」
「やっぱり魔法なんだ」
「それが目的だからな」
「女より?」
エリアスは少し考えた。
「比べるものじゃないだろ」
セラが吹き出した。
「そこ、迷わないんだ」
「どっちも好きでいい」
「欲張りね」
「そうかもな」
今度はエリアスも笑った。
セラの膝が触れる。
離れない。
エリアスも気にしない。
むしろ、このあとの流れを期待していた。
セラが杯を置いた。
身体ごとこちらへ向く。
「エリアス」
「ん?」
「本当に一人旅?」
「そうだけど」
「誰か待ってる人はいないの?」
「いない」
ふとネリスの顔が浮かぶ。彼女は自分の町で仕事をしている。別れ際にも、待つという約束はしなかった。
「じゃあ」
セラがさらに近づく。
エリアスも自然に顔を寄せ――
そのとき。
背後で空気が動いた。
音はしなかった。
ただ、気配だけが増えた。
エリアスが振り返る。
扉の前に男が二人、部屋の奥の小さな扉の横にも一人。誰も笑っていなかった。
エリアスは数秒、黙った。
セラが離れる。
さっきまでの柔らかい表情も消えていた。
「……ああ」
ようやく理解した。
「そういうやつか」
男の一人が鼻で笑う。
「随分楽しそうだったな、旅人」
「まあ、途中までは」
「こいつが誰か知ってるか?」
男がセラを顎で示す。
「セラ」
「名前の話じゃねえ」
「じゃあ知らない」
「俺の女だ」
エリアスは男を見る。
次にセラを見る。
セラは何も言わない。
「なるほど」
男が一歩近づいた。
「人の女に手ぇ出しておいて、なるほどで済むと思ってんのか?」
「いや、向こうから来たんだけど」
「は?」
「酒場で声かけてきたの、そっち」
男の眉が動く。
「言い訳か?」
「事実だけど」
「酔わせて連れ込んだんだろ」
「逆だな」
男の主張が本当かどうかは関係ない。セラと二人で入った部屋へ男たちが現れ、責め立てて金を取る。美人局だ。エリアスは自分が誘われてここまで来た道を思い返した。
エリアスは天井を見た。
何とも言えない気分だった。
「騒ぎにされたくなきゃ、分かるよな?」
男が言う。
「金だよ。持ってるだけ置いてけ」
「全部?」
「全部」
「それは嫌だな」
「選べる立場だと思ってんのか?」
「いや」
エリアスはため息をついた。
「そこは選べる」
一番近くにいた男が、苛立ったように手を伸ばしてきた。
「面倒くせえな。じゃあこっちで――」
その手が、エリアスの腰へ向かう。
エリアスは反射的に押さえた。
そこで気づいた。
「……ん?」
金袋を腰へ留めている紐が緩んでいる。
結び目が半分ほどほどけていた。
袋の口ではなく、腰帯へ結んだ紐の方だ。いつも確かめているところで、自分が緩めた覚えはない。
エリアスの頭に、酒場での一場面が浮かぶ。
セラの手が腰に触れた。
ほんの一瞬。
店員を避けただけだと思った。
エリアスは結び目へ指を触れた。
ごく薄い魔力の痕跡。
「……魔法?」
セラの目がわずかに動いた。
それだけで十分だった。
「お前、あのときか」
「何のこと?」
「腰に触ったとき」
「知らない」
「いや、これは――」
「何ごちゃごちゃ言ってんだ!」
男が腕を掴もうとする。
エリアスは半歩だけ下がった。そこで、今度は別の違和感に気づく。
男たちが入ったとき、扉は鳴らなかった。階段も廊下も軋む宿で、この部屋の戸も自分たちが入るときには音を立てたのに。
エリアスの視線が蝶番へ向く。
そこにも、薄い魔力が残っていた。
(こっちにも何か使ってるな)
面白い。
一瞬だけ、そう思った。
直後、自分が今どんな状況にいるのか思い出す。
(いや、今はそこじゃない)
「最後に言うぞ」
男が低い声を出した。
「金を置いて消えろ」
「断る」
「そうかよ」
男が拳を振り上げた。
エリアスは避ける必要すら感じなかった。
魔力を流す。
ほんの少し。
男の身体が横へ弾かれ、椅子にぶつかって床へ転がった。
「なっ――」
残りの二人が動く。
一人が腰から短剣を抜いた。
もう一人は背後へ回ろうとする。
エリアスは指先を軽く動かした。
短剣が男の手から弾け、壁へ突き刺さる。
同時に、背後へ回ろうとした男の足元を魔力で払った。
「うおっ!」
男が派手に転ぶ。
最初に倒れた男が起き上がりかけたので、エリアスは今度こそ少し面倒になった。
「動くな」
短く告げ、魔力を床へ落とす。
男たちの身体が一斉に沈んだ。
何か重いものを背負わされたように、三人とも床へ膝をつく。
「な、なんだこれ……!」
「重……っ」
男の一人が歯を食いしばる。
エリアスは頭を掻いた。
「だから金だけで済ませようとするなよ」
普通の旅人を狙ったつもりかもしれない。セラには魔法使いだと話したが、この程度で押さえ込まれるとは思わなかったらしい。
セラは壁際へ下がっていた。
逃げようとはしていない。
というより、動けば自分もどうなるか分からないと思っているのだろう。
エリアスは彼女を見る。
「お前も仲間なんだよな」
セラは少し黙ったあと、肩をすくめた。
「見れば分かるでしょ」
「今まで結構楽しそうに飲んでたのに」
「仕事だから」
「そうか」
それは少し残念だった。
いや、かなり。
酒も会話も楽しかっただけに、余計に。
エリアスは腰の金袋を外し、緩んだ紐を見る。
「これ、何した?」
「知らないって言ったでしょ」
「まだ言う?」
返事はない。
エリアスは結び目に残る魔力を確かめる。
強いものではない。
複雑でもない。
むしろ驚くほど小さい。
結び目の締まった部分をわずかずつ動かす。強固な拘束には足りなくても、金袋の紐なら緩められる。
「……紐をほどく魔法か?」
セラの視線がまた動いた。
図星らしい。
エリアスは扉へ目を向ける。
蝶番に残った魔力も同じ程度に小さい。
音を消したというほど大げさではない。
軋みを抑えただけ。
「そっちは、戸を鳴らさないためか」
「おい」
床に押さえられた男が苦しそうに声を出す。
「何なんだ、お前……」
「旅人」
「ただの旅人がこんな魔法使うか!」
「魔法使いとは言っただろ」
酒場で普通に話した。
セラも聞いていた。
「かなり優秀だとも言った」
セラが呆れたような顔をした。
「そこ、本当だったのね」
「本当だって言っただろ」
「普通、自分で言う人は信用しないわよ」
「それはそっちの問題だ」
言い返してから、エリアスは少し黙った。
セラが信用しなかったのは、エリアスの魔法の腕だった。エリアスが確かめずに信じたのは、彼女が向けてきた笑顔だ。酒場でこちらへ来たことも、腕を絡めたことも都合よく受け取っていた。
エリアスは深く息を吐いた。
「……最悪だ」
「何が?」
セラが聞く。
「お前らに負けたとかじゃない」
三人とも床に押さえつけ、金も取られず怪我もしていない。それでも、宿まで連れ込まれて金を要求され、金袋の紐を緩められていた。途中で一度、出来すぎた誘いだと思ったのに、引き返さなかった。
エリアスは片手で顔を覆った。
「普通に引っかかった……」
研究では使い手の判断を聞いてきた。今夜はセラが何を考えて自分へ近づいたのか、確かめる気にもならなかった。美人に誘われて浮かれた。それを認めるのが一番情けない。
「……俺、何やってんだ」
誰に向けたわけでもなく呟く。
床では男たちがまだ動けずにいる。
セラも困ったようにこちらを見ていた。
危険はもうない。
恥ずかしさだけが残った。
エリアスはもう一度、手の中の金袋を見る。
結び目にはかすかな魔力が残り、音もなく開いた扉の蝶番にも別の痕跡がある。エリアスは金袋を見ているうちに、気になって仕方がなくなった。
「……それより」
セラが嫌そうな顔をする。
「何?」
エリアスは金袋の紐を指で持ち上げた。
「さっきの魔法、どうやった?」




