第40話 向こうから来た美人
竜族の土地を離れてから、三日。
エリアスは夕暮れ前に、新しい街へ入った。
石造りの門を抜けると、街道沿いに店と宿が並び、仕事を終えたらしい人々が行き交っている。荷車の車輪が石畳を鳴らし、どこかから肉を焼く匂いが流れてきた。
肉の匂いを嗅いで、腹が鳴った。
「まず宿だな」
知らない魔法がないか探すのも大事だが、寝床を確保する方が先だった。
通りでは男が店先を掃き、若者が荷を運び、女が桶を抱えて歩いていた。気になる魔力は今のところ見えないが、この街の仕事の仕方もまだ知らない。宿と飯を済ませてから、明日ゆっくり見よう。
エリアスは街道から一本入った通りで宿を見つけ、数日分の部屋を取った。
荷物を置き、旅装を少し整える。
帳面は鞄へ、金袋は腰へ収めてある。旅装も目立たないから、今は普通の旅人に見えるだろう。
鏡代わりの小さな磨き板に自分の顔を映し、髪を手で直す。
「まあ、悪くない」
誰に見せるでもなく言ってから、部屋を出た。
目的は飯と酒である。
それ以外は、あれば嬉しい。
街の中心へ戻ると、昼間よりも人が増えていた。仕事帰りの職人や商人が酒場へ入り、通りでは屋台が湯気を上げている。
エリアスはその中から、客の多そうな酒場を選んだ。
旅先で店を選ぶとき、地元の客が多いところは大体外れにくい。
中へ入ると、酒と焼いた肉の匂いが一気に押し寄せてきた。
いい匂いだった。
すぐに席へ座り、肉を煮込んだ料理と黒パン、それから酒を頼む。
運ばれてきた皿には、柔らかく煮込んだ肉と豆がたっぷり入っていた。香草の匂いが少し強い。
一口食べる。
「うまい」
旅をしていて思うが、同じような肉料理でも土地が変われば味が変わる。
使う香草も違えば、煮込み方も違う。
魔法ほど帳面へ書き残す気はないが、こういう違いも嫌いではなかった。
酒も悪くない。
少し癖があるが、肉には合う。
エリアスは機嫌よく杯を傾けながら、何となく店内を見回した。
客を何気なく眺める。年配の夫婦、男たちの卓、女性二人。その向こうにいた女のところで、エリアスの視線が止まった。
栗色の髪を肩より少し下まで伸ばした女だった。年はエリアスよりいくらか上だろうか。派手な服ではないが、身体の線がきれいに出る服を着ている。
横顔だけでも綺麗だと分かる。
エリアスは酒を一口飲んだ。
竜族の土地ではネリスとキスをし、街を出るときには別の旅人へも目が行った。今夜も同じである。エリアスは女の方を見た。
女がこちらを向いた。
一瞬、目が合う。
エリアスはそらさなかった。
向こうもそらさない。
それどころか、少し笑った。
(お)
悪くない。
声をかけるか。
そう考えて、杯を置く。
だが、立ち上がるより先に女の方が席を離れた。
こちらへ歩いてくる。
(……ん?)
そのまま、エリアスの向かいで足を止めた。
「ここ、座っていい?」
「もちろん」
断る理由がなかった。
むしろ大歓迎である。
女は椅子を引いて座った。
近くで見ると、やはり美人だった。目元が少し涼しげで、笑うと印象が柔らかくなる。
「一人?」
「今のところは」
「今のところ?」
「誰か一緒に飲んでくれるなら、一人じゃなくなる」
女が笑った。
「そういうこと言う人なんだ」
「嫌だった?」
「嫌なら座ってないわ」
エリアスはすぐ店員を呼び、女の分の酒も頼んだ。
「旅の人?」
「分かる?」
「服見ればね。この街の人じゃないでしょう」
「今日着いたばっかり」
「やっぱり」
酒が届く。
女は杯を持ち上げた。
「じゃあ、旅人さんがこの街に来た記念に」
「何の記念だよ」
「理由があった方がお酒はおいしいでしょ?」
「なくても飲むけどな」
「私も」
杯を合わせる。
気が合う。
少なくとも酒については。
「名前は?」
エリアスが聞くと、女は少しだけ首を傾げた。
「セラ」
「俺はエリアス」
「エリアス。何しに来たの?」
「魔法を探しに」
「魔法?」
「この土地で使われてる、変わった魔法。大げさなやつじゃなくていい。むしろ小さい方が面白い」
セラは意外そうに瞬いた。
「魔法使いなの?」
「かなり優秀な」
「自分で言うんだ」
また言われた。
少し前にも似たようなことを言われた気がする。
「本当だからな」
「へえ」
セラは面白そうにエリアスを見る。
「じゃあ、すごい魔法も使える?」
「大体は」
「自信あるのね」
「ある」
実際、魔法について遠慮する理由はない。
エリアスは自分が強いことも、知識があることも知っている。
それをわざわざ隠して謙遜する方が面倒だった。
「一人でずっと旅してるの?」
「そうだな」
「寂しくない?」
「町に着けば酒場がある」
「それだけ?」
セラが身を乗り出す。
エリアスは少し笑った。
「美人もいる」
「今も?」
「目の前に」
今度はセラが声を上げて笑った。
笑ってくれるし、向こうから話しかけてきた。旅先で女に好意を示されたこともあるエリアスには、それだけで怪しむ理由はなかった。むしろ今夜は運がいいと思った。
(俺もなかなか捨てたもんじゃないな)
そう思う程度だった。
酒が進む。
セラはよく笑った。
旅の話を聞きたがり、雪国の話には寒そうに肩をすくめ、海の話では船酔いしなかったのかと聞いてくる。
竜族の土地のことも少し話したが、ネリスのことまで詳しく話す必要はない。
代わりにエリアスも、この街について聞いた。
「酒はここが一番?」
「好みによるわね。強いのが好きなら別の店もある」
「飯は?」
「肉ならここ。魚なら川の方」
「魔法は?」
「それを酒場で聞く?」
「俺は聞く」
「変な人」
「よく言われる」
話すうちに皿が空き、杯も何度か替わった。セラは笑った拍子に肩を触れさせ、話しながらエリアスの腕へ手を置いた。そのたび距離が少し近くなるのを、エリアスも楽しんでいた。
店員が酒を運んできたとき、セラの手が一度エリアスの腰に触れた。避けた拍子に当たったのだろう。彼女はそのまま杯を取ったので、エリアスも気に留めなかった。
「ねえ」
「ん?」
「ここ、ちょっとうるさくない?」
言われてみれば、店はさっきより騒がしくなっていた。
奥では酔った男たちが大声で笑い、別の卓では歌まで始まっている。
「まあ、酒場だからな」
「もう少し静かなところで飲まない?」
セラが言った。
エリアスは彼女を見る。
セラはすぐ近くから、声を落として誘っている。エリアスが想像した行き先は一つだった。
「いいな」
即答した。
セラが笑う。
「決めるの早いのね」
「こういうところで迷う必要ある?」
「ないかも」
二人で席を立つ。
エリアスは代金を払い、酒場を出た。
夜風が少し冷たい。
酒で温まった身体にはちょうどよかった。
大通りにはまだ人が多い。
セラは自然にエリアスの腕へ自分の腕を絡めた。
柔らかな感触が触れる。
エリアスは口元が緩みそうになるのを、特に隠そうともしなかった。
「どこ行く?」
「こっち。静かな宿を知ってるの」
「詳しいな」
「この街の人だもの」
当然の答えだった。
大通りから脇道へ入る。
人の声が少し遠くなる。
さらに曲がると、明かりの数も減った。
知らない街だ。
昼ならともかく、夜の細い道に土地勘はない。
声をかけられて酒を飲み、今度は二人で静かな宿へ向かう。さすがに出来すぎていないかと、エリアスは一度だけ足元の暗い道を見た。
エリアスは隣を歩くセラを見る。
目が合う。
彼女は笑った。
「どうしたの?」
「いや」
まあ。
自分が女に誘われることくらい、別におかしくもない。
「何でもない」
エリアスはそのまま歩いた。
知らない魔法を見つけたときなら、使い手が何を見て動くのか聞きたくなる。けれど今夜は、セラが自分へ笑いかけ、腕を引いていることばかり考えていた。
セラに腕を引かれ、エリアスはさらに人気の少ない通りへ入っていく。
その先に、小さな宿の明かりが見えていた。




