第37話 竜の身体で
翌朝、作業場へ向かうと、昨日までとは空気が少し違っていた。荷の仕分けはすでに終わっている。
木箱や革袋は行き先ごとにまとめられ、縄と金具で固定されていた。人型の竜族たちがその周囲を歩き、最後の確認をしている。
ネリスも、その中にいた。
「今日は早いね」
「昨日遅いって言われたからな」
「学習した」
「俺は学習する男だぞ」
「昨日、帳面の半分に横線引いてたけど」
「それも学習の一部だ」
ネリスは笑いながら縄を引いた。
緩みがないことを確かめると、今度は荷の横へ手をかざす。
弱い魔力が動いた。
昨日何度も見た術式だった。
風と魔素と荷の状態を確かめる術式は、もう読めている。エリアスは、ネリスの目がどこへ向き、魔法のあとに何を確かめるかを追った。同じ荷へ二度目の調整を入れたときも、その前後の手つきを見逃さなかった。
「これは?」
エリアスが一つの木箱を指した。
「何が?」
「今、二回使っただろ」
「一回目で足りなかったから」
「何が足りなかった?」
ネリスは少し考え、それから空を見た。
「上へ出たら、たぶん左から押される」
「今はほとんど風ないぞ」
「地面ではね」
なるほど。
エリアスも空を見る。
上空の空気の流れまで意識を広げれば、確かに違う。
ただし、それだけではない。
ネリスは荷の位置を少し変え、別の箱との間隔を狭めた。
「こっちの方がいい」
「風だけじゃないな?」
「昨日より早くなった」
「一応、俺も成長してるからな」
「一日で?」
「優秀だから」
「便利な言葉」
軽口を交わしながらも、ネリスの手は止まらない。
ネリスは荷をまとめて確かめ、必要なときだけ魔法を使う。エリアスは使った荷と使わなかった荷を見比べながら、今日の運搬の先まで含めて彼女に理由を聞くつもりでいた。
やがて準備が終わると、荷は町の外へ運ばれた。
建物が少なくなり、広い場所へ出る。
ここから先が、本番らしい。
「じゃあ、行くよ」
ネリスが言った。
「おう」
「驚かないでね」
「竜族が竜になるんだろ。今さら驚くか?」
「初めて見る人、だいたい驚くから」
「俺を誰だと思ってる」
「変な旅人」
「大賢者の弟子が先だ」
ネリスは肩をすくめた。
そして、人型の身体から魔力が大きく動く。
昨日まで見ていた小さな生活魔法とは比べものにならない変化だった。
人の形がほどけ、目の前に竜の身体が現れる。翼を広げたネリスを見上げて、エリアスは息を吐いた。
「……でかいな」
思わず出た。
『驚かないんじゃなかった?』
「驚いたとは言ってない。感想だ」
『便利な言葉』
声はネリスだった。
エリアスは笑いながら、竜体になった彼女を見上げる。
町では人の姿で荷札を持ち、運ぶときにはこの身体で飛ぶ。昨日までの仕事場での手つきと、目の前の大きな翼がつながった。
『エリアスはどうするの?』
「俺も飛ぶ」
『飛べるの?』
「俺を誰だと思ってる」
『変な旅人』
「そこ気に入ったな?」
エリアスは魔法を組む。
身体を持ち上げる術だけでなく、姿勢を安定させ、風を受け流す術式も重ねた。竜の翼とは違うが、飛びながら観察するにはこれで足りる。
荷がネリスの竜体へ固定される。
他の竜族たちも準備を終えた。
やがて、一人、また一人と地面を離れる。
ネリスも大きく翼を動かした。
風が押し寄せる。
エリアスはそれを受け流し、そのまま空へ上がった。
「おお」
町の屋根も道も畑も、眼下でみるみる小さくなった。
ネリスはその先を飛んでいた。
ネリスは速く飛びながら身体の向きをわずかに変え、高度を上げ下げする。そのたびに、昨日仕事場で見た小さな魔法が流れた。
(これか)
地上では意味が分かりにくかった。
ここなら見える。
斜面に沿って吹き上がる風と、谷へ落ちる風がある。魔素の偏りが重なるところでは、ネリスは荷の揺れを抑え、風に乗り直して進む方向を修正した。その小さな調整が、飛んでいるあいだ何度も続く。
「一発で決めないのか」
エリアスは呟いた。
強い魔法を一回使えば、もっと強引に進める。
少なくとも自分ならできる。
向かい風を押し返すこともできるし、進路上の乱れた空気ごと整えることもできる。
だが、それを長距離ずっと続ける必要があるだろうか。
しかも荷を運びながら。
ネリスたちは違う。
大きく変えるのではなく、その場その場で必要な分だけ触っている。
ネリスたちは風を消さず、使える流れには乗り、荷が振られそうになれば抑えた。進路を外れた分だけ戻しながら飛び続ける。
(そういうことか)
仕事場で荷を確かめていた魔法は、空へ上がってからも使われていた。準備のときに確かめたことが、そのまま飛行中の調整へつながっている。
そのとき、前を飛んでいた竜が急に高度を上げた。
ネリスも続く。
エリアスが理由を探した直後、横から強い風がぶつかった。
「っと」
身体が流される。
すぐに姿勢を戻す。
だが、風は一度では終わらなかった。
谷から吹き上がった流れが上空の風とぶつかり、乱れている。
ネリスの荷が大きく揺れた。
『まずい』
短い声。
別の竜の荷も傾く。
固定が外れるほどではない。
だが、このまま乱れの中へ入れば、荷同士が大きく振られる。
「下がれ!」
エリアスは即座に魔法を組んだ。
エリアスは前方へ魔力を通し、ぶつかる風を捉えた。押し寄せる流れを止めずに衝突する方向だけをずらすと、荒れた空気が一瞬で割れた。
竜たちの周囲に空白ができる。
『……何それ』
ネリスの声が聞こえた。
「風の流れをずらしただけ」
『だけ?』
「そんな難しくない」
『今のを?』
「俺ならな」
言ってから少し得意になる。
大賢者の弟子として学んできた魔法は、こういうときのためにある。
大きな力が必要なら、大きな力を使えばいい。
だが、これで終わりではなかった。
『右へ!』
ネリスが声を上げる。
「え?」
『そのまま行かない! 右へ回る!』
風はもう抑えた。
真っすぐ進めるはずだ。
そう思ったが、ネリスたちはすでに進路を変えている。
エリアスも追う。
ネリスは飛びながら、何度も小さな調整を入れていた。
荷を落ち着かせる。
風を読む。
わずかに高度を変える。
周囲の竜も同じように動く。
「なんで回る?」
『さっきの流れ、また戻るから!』
「俺が抑えれば――」
『ずっとやるの?』
言われて黙った。
抑え続ける魔力はエリアスにある。だがネリスたちは、戻ってくる風を避け、荷の落ち着く道から次の流れへ乗った。エリアスも右へ回ると、風を押さえる術をほどいた。
しばらくすると、さっきまでの揺れが嘘のように消えた。
ネリスの飛び方も安定する。
荷もほとんど動いていない。
(速いな)
速いのは術の発動より、ネリスの判断だった。どの風を使い、どこを避け、荷がどれほど揺れたら直すのか。飛びながら見続け、次を選んでいる。エリアスにはその理由をまだ全部は言えない。
やがて一行は山を越え、小さな集落へ降りた。
荷を下ろし、人型へ戻ったネリスが、大きく息を吐く。
「助かった」
「こっちも面白かった」
「普通、最初に『大丈夫だった?』とか聞かない?」
「大丈夫そうだから」
「そういうところだよ」
ネリスは呆れながら笑った。
「でも、さっきの魔法。本当にすごかった」
「だろ?」
「そこは謙遜しないんだ」
「する必要ある?」
「ないけど」
エリアスは笑い、それから運ばれてきた荷を見る。
縄は緩んでいない。
箱も崩れていない。
あれだけ風が乱れたのに、全部無事だった。
「俺が風を抑えたあと、すぐ右へ回っただろ」
「うん」
「なんであそこまで早く決められた?」
「見えてたから」
「またそれか」
「でも、今度は前より分かるでしょ?」
エリアスは少し考えてから頷いた。
「前よりはな」
ネリスたちは術を使うたびに荷と風を確かめ、周囲が変われば次の使い方も変えていた。エリアスが作業場で読んだ術式は、その判断を繰り返すためのものだった。
「でも、まだ分からない」
「何が?」
「お前が何を見て決めてるか」
ネリスが少し笑う。
「まだ聞く?」
「ここまで来たら聞くだろ」
「じゃあ、帰ったらね」
「酒でも飲みながら?」
「奢ってくれるなら」
「俺が?」
「大賢者の弟子で、そのうち金持ちになるんでしょ?」
「まだ金持ちじゃないんだけどな」
「予定なんだっけ?」
「覚えてたか」
ネリスは楽しそうに笑った。
エリアスも笑いながら帳面へ手を伸ばす。
書きたいことは増えていた。
だが、今はまだ術式をまとめない。
荷を下ろすまで見て、準備から飛行まで小さな魔法が続いていることは分かった。ネリスがあの風の中で何を見て右へ回ったのか、その判断は今夜聞こう。
夜になったら、本人に聞けばいい。




