第36話 見えない道
翌朝、エリアスが作業場へ着いたときには、すでにいくつもの荷が外へ運び出されていた。
「遅い」
木箱の横で縄を確認していたネリスが、顔だけをこちらへ向ける。
「朝からって言っただろ」
「だから朝に来た」
「荷はもう外へ出てるよ」
「時間を言え」
「見れば分かるでしょ?」
「それ昨日から便利に使いすぎじゃないか?」
ネリスは笑って、そのまま作業へ戻った。エリアスも文句を言いながら、邪魔にならない場所へ移動する。
仕分けの始まりには間に合わなかったが、外に並ぶ荷にはまだ札と縄を確かめる人たちがいる。エリアスは帳面を開く前に、ネリスがどの荷から手をつけるか見た。
ネリスが細長い木箱の前にしゃがんだ。
留め具を確かめ、箱を軽く押す。それから片手を近づけると、ごく弱い魔力が動いた。
風の術式。
エリアスは目で追う。
周囲の空気の動きを拾い、その一部をわずかに強調して返す。術式は単純で、魔力量も少ない。
(昨日と同じだな)
続いてネリスは箱の側面へ触れた。
今度は別の術式。
箱そのものを動かすほどではないが、ほんの少しだけ振動を与えている。
中身の偏りでも見ているのだろうか。
エリアスはそう考えた。
ところが、その隣に置かれた似た大きさの木箱には、風の魔法だけを使って終わった。
(……なんで?)
重さも大きさも近く、行き先を示す札も同じ方向を指している。
エリアスは黙って次を見る。
革袋。
ネリスが口を締め直し、軽く持ち上げる。
魔法は使わない。
次の革袋。
今度は風を読む。
さらに別の袋では、風の術式を使ったあと、ほんの少しだけ出力を変えた。
強くした。
(条件が合わない)
昨日より分からなくなった。
エリアスは腕を組む。
術式そのものは全部読める。
分解もできる。
風の強さを見る。
荷の状態を見る。
揺れを確かめる。
方向を取る。
一つ一つは、わざわざ論文にするほど難しい魔法ではない。
なのに、それらをいつ使うかが分からない。
「ネリス」
「なに?」
「その袋、なんで今のだけ強くした?」
「こっちの方が必要だから」
「何が?」
「調整」
「何を見て?」
ネリスが手を止める。
少し考えてから、荷を指した。
「こっちの方が流される」
「風はほとんど同じだぞ」
「風だけならね」
それだけ言うと、ネリスは次の荷へ移った。
エリアスはその場に残り、今の革袋を見る。
エリアスは周囲の空気と魔素、荷の位置、重さ、形を隣の袋と比べてみた。
(魔素の流れか?)
わずかな違いはある。
だが、その差だけで出力を変える理由になるとは思えない。
地形、外から吹き込む風、建物の位置、積み方、中身。考え始めれば候補はいくらでも増えた。
エリアスはようやく帳面を開いた。
魔法式を記すためではない。
条件を整理するためだった。
荷の大きさと形、行き先、置かれた位置、風向きと魔素の流れ、ネリスの使った術式とその出力を順に書いていく。
十個ほど並べたところで、一度見直した。
「……違うな」
法則にならない。
似た条件で違う判断をしている。
逆に、違う条件なのに同じ処理をしているものもあった。
エリアスは眉間を揉んだ。
こういうとき、魔法式なら楽だった。
術式には構造がある。
魔力がどこから入り、どこを通り、何へ作用するか。
分解すれば見える。
変化があれば、その理由を探せる。
だが今知りたいのは、ネリスがその術式を使うかどうか決めるまでの判断だった。
「難しい顔してる」
いつの間にか戻ってきたネリスが、エリアスの帳面を覗き込んだ。
「お前のせいだ」
「私、何かした?」
「してる。さっきから同じ条件に見えるのに使い分けてる」
「同じじゃないもの」
「だから、どこが違うんだ」
「見れば――」
「分かるは禁止」
先に言うと、ネリスが口を閉じた。
少し不満そうな顔をしてから、荷の方を見る。
「じゃあ……あれ」
ネリスが積み上げられた三つの木箱を指した。
「一番上、どう見える?」
「どうって?」
「飛んだらどうなると思う?」
エリアスは見る。
三つとも縄で固定されている。
重量の偏りも大きくない。
「多少揺れるだろうけど、問題ない」
「私は嫌」
「なんで?」
「右へ引かれるから」
「風で?」
「それもある」
「他は?」
「そこが薄い」
ネリスの指が、箱ではなく、その少し横を示した。
エリアスもそちらを見る。
魔素の流れがある。
確かに均一ではない。
わずかに筋が乱れている。
「これ?」
「近い」
「近い?」
「でも、それだけじゃない」
また分からなくなった。
エリアスは思わず笑った。
「面白いな」
「分からないのに?」
「分からないから」
即答すると、ネリスが変なものを見る目をした。
「普通、困らない?」
「困ってるぞ」
「楽しそうだけど」
「困るのと面白いのは両立する」
「変な人」
「昨日も聞いた」
ネリスが肩をすくめる。
そのあとも仕事は続いた。
エリアスは観察し、条件を書き、予想する。
次は使う。
そう思った荷では使わない。
これは弱くする。
そう考えたところで強くする。
ときどき当たる。
だが、当たった理由まで分からない。
昼前には、帳面の半分が数字と条件で埋まっていた。
そして、そのほとんどに横線が引かれていた。
「駄目だ」
「諦めた?」
「逆」
エリアスは帳面を閉じる。
今までの聞き方が悪かった。
「なあ、ネリス」
「今度は何?」
「その魔法、何をする魔法だ?」
「風を見る」
「それはもういい」
「じゃあ何を聞いてるの?」
エリアスは少し考える。
術式を聞いても駄目だ。
効果を聞いても、使う理由までは出てこない。
自分が知りたいのは、彼女がどう判断しているかだ。
「さっきの箱」
「どれ?」
「上に積んでた三つ。お前、右へ引かれるって言っただろ」
「うん」
「そのとき、何を見た?」
ネリスが瞬きをする。
「何を?」
「風じゃなくていい。魔素でも、荷でも、地形でも何でもいい。お前が『これは調整する』って決めた瞬間、どこを見てた?」
今度は、ネリスがすぐには答えなかった。
作業場の外を見る。
少し離れた屋根。
その向こうの丘。
空。
そして、積まれた荷。
「……向こうから風が来てた」
「うん」
「でも、真っすぐじゃない。あの屋根で一度上へ逃げて、そのあと落ちてくる」
エリアスも目を向ける。
言われてみれば分かる。
「それから?」
「荷の横に魔素が溜まってた」
「さっき言った薄い場所と同じ?」
「違う。あれは流れが切れてた。こっちは寄ってる」
「なるほど」
帳面を開く。
「それで?」
「箱の重心が少し右だった」
「そこまで全部見たのか?」
「見たっていうか……普通に」
ネリスが困ったように笑う。
「だから、見れば分かるって言ったの」
エリアスの手が止まった。
そこだった。
エリアスは風、魔素、荷の重心、位置、地形を別々の欄へ書き、どれが使用条件になるのか探していた。ネリスはそれらを一緒に見ているらしい。屋根から落ちる風と、魔素の寄りと、箱の右側の重さまで。
「……もう一個いいか?」
「まだ聞くの?」
「もちろん」
「本当に好きね」
「魔法が?」
「こういうのが」
「好きだな」
ネリスは少し笑った。
今度は嫌そうではなかった。
エリアスは次の荷を指す。
「今、これは何を見た?」
「まず風」
「その次は?」
「次っていうか、一緒」
「一緒?」
「風を見たら、周りも見えるでしょ」
「俺には別々だ」
「そうなの?」
「そうらしい」
二人は同じ荷の前に立ち、同じ風を受けていた。それでもエリアスの帳面の項目と、ネリスが荷を運ぶときに見ているものは重ならない。
エリアスは帳面の余白に大きく線を引いた。
術式の分類は残したまま、その横にネリスの判断を書ける欄を作る。そうしなければ、風の術式がどう働くかは分かっても、あの箱へいつ使うのかを説明できない。
「明日、飛ぶんだよな?」
「その予定」
「一緒に行く」
「空まで?」
「ああ」
ネリスがエリアスを見て、少しだけ笑う。
「そこまで見たい?」
「ここまで来て地上だけ見て帰れるか」
「本当に変な旅人」
「褒め言葉として受け取っとく」
作業場の外では、午後の風が少しずつ強くなっていた。
ネリスはそれを一度見上げてから、何事もないように次の荷へ手を伸ばす。
ネリスの一瞥だけでは、まだ何を見て決めたのか分からない。だがエリアスは、次に尋ねるべきことなら帳面へ書けた。彼女は風を見るとき、荷とその先の道をどう見ているのか。
帳面を閉じる。
明日は、それが実際に空で何を意味するのかを見る。




