第35話 人の姿で暮らす竜たち
山道を抜けた先に町が見えたとき、エリアスは少しだけ足を止めた。
竜族の土地と聞いて、翼の影が空を横切るところを想像していた。だが町へ入って最初に目についたのは、通りの端で果物を選ぶ女だった。
「こっちの方が甘い?」
「昨日のよりはな」
「じゃあ二つ」
人の姿をした女が、店主から果物を受け取って金を払う。
その横では男が木箱を担いで歩き、道の向こうでは老人二人が立ち話をしている。
食堂らしい建物からは焼いた肉の匂いが流れてきた。
子供が通りを走り、その後ろから母親らしい女が名前を呼ぶ。
「……普通だな」
思わず口から漏れた。
よく見れば人間族とは違いがあり、魔力の感じ方も異なる。それでもエリアスの目には、まず果物を買い、荷を運び、子供を呼ぶ人々の暮らしが入った。
エリアスは旅の荷を背負ったまま、ゆっくりと通りを歩く。
竜族の魔力や身体の違いは気になるし、術式が見えればすぐにでも調べたい。旅の初めから土地と使い手も見てきたが、織物と窯の仕事を記録してからは、魔法が使われる順番も気になるようになった。エリアスは通りに並ぶ店と、そこへ出入りする人々を見ながら進む。
「まず宿だな」
腹も減っていた。
研究には頭を使う。
頭を使うには飯がいる。
ついでに酒もあればもっといい。
そして美人がいれば、なおいい。
このあたりは旅を始めた頃から何も変わっていない。
宿へ荷を置き、簡単に食べてから通りへ戻った。商店や食堂を過ぎると作業場と倉庫が増え、町の端では大きな荷を扱う人の姿が目立った。
そこでエリアスの足が止まった。
広い作業場に、いくつもの木箱と革袋が並べられていた。
人の姿をした竜族たちが、その間を行き来している。
「それ、北行き」
「こっちは?」
「西。先にまとめといて」
何人かが荷札を確認し、縄を締め直している。
行き先ごとに荷をまとめる運送の仕事らしい。見ているうちに、エリアスは眉を上げた。
一人の女が木箱の横へしゃがみ、手をかざした。
小さく魔力が動く。
箱の周囲をかすかな風がなぞり、すぐ消えた。
女は箱を一度押し、それから別の荷物へ向かう。
少し離れた場所では男が指先に弱い光を灯している。
光そのものが目的ではない。
位置を確かめる類の術式に近い。
さらに別のところでは、積み上げた荷の横で小さな魔力の揺れが起きた。
箱がほんの少しだけ動き、元の位置へ戻る。
「……なんだ?」
エリアスは作業場の端へ移動した。
邪魔にならない場所から見る。
もう一度。
さっきの女が今度は大きな革袋の前へ立った。
手をかざす。
風が動いた。
弱くて簡単な、風の流れを拾う術式だ。ところが次の荷には使わない。見たところ大きさも重さも近く、隣に置かれているのに。
(なんでだ?)
帳面を出しかけた手が止まる。
術式は読めるが、何を確かめるためにその荷へ使ったのかが分からない。エリアスは帳面を戻して、もうしばらく女の手元を見た。
女が荷をいくつか確かめるあいだ、エリアスも一つずつ使い方を予想した。規則はありそうなのに、使うと思ったところで使わない。
「さっきから何見てるの?」
声をかけられ、エリアスは顔を上げた。
先ほど風の魔法を使っていた女が、少し離れたところに立っていた。
年はエリアスより少し上だろうか。
作業用の服を着て、腰には縄や金具を下げている。
働いている途中なのだろう。片手には荷札の束があった。
「仕事」
「見れば分かるでしょ」
「そうじゃなくて、今の魔法」
女が眉を上げる。
「魔法?」
「箱の前で使ってたやつ。風を見てただろ」
「ああ」
反応が軽い。
本人にとっては、その程度のものらしい。
「何のために?」
「運ぶから」
「それは分かる」
「じゃあいいじゃない」
「よくない。さっきの箱には使って、その横の袋には使わなかった」
女が少し黙った。
それからエリアスを見る。
「……そんなところまで見てたの?」
「気になった」
「変な人」
「よく言われる」
本当によく言われる。
魔法を追いかけて町の裏まで入り、畑で作業を眺め、船の上では船乗りに質問を浴びせた。
今さらだった。
「旅の魔法使い?」
「ああ。エリアス」
「ネリス」
女――ネリスは荷札を持ったまま名乗った。
「ここで働いてるのか?」
「見れば分かるでしょ」
「それ、気に入ってる?」
「使いやすいから」
少し笑われた。
エリアスも笑う。
悪くない。
顔も好みだった。
仕事をしている女はいい。
しかも魔法まで面白い。
かなりいい。
「で、なんで使い分けた?」
「荷が違うから」
「その二つ、そこまで違わないだろ」
「違うよ」
「どこが?」
ネリスが革袋と木箱を交互に見る。
「……どこって言われても」
「そこを知りたい」
「運ぶときに困るかどうか」
「何を見て決める?」
「見れば分かる」
「戻ったな」
ネリスが吹き出した。
「だって、本当にそうなんだもの」
仕事を続けるうちに覚えた判断を、言葉にするのは難しいのかもしれない。オスカーやバルクに聞いたときも、最初は何を尋ねられているのか分からない顔をされた。それでも、ネリスが風の術式を使う前に見ているものを知りたい。
「この荷、どこまで運ぶんだ?」
「周辺の集落。遠いところもあるよ」
「馬車?」
ネリスは首を傾げた。
「私たちが運ぶ」
エリアスも一瞬だけ黙った。
それから納得する。
「ああ。飛ぶのか」
「必要ならね」
町の中では人の姿で荷をまとめる。
そして、運ぶときには本来の身体を使う。
エリアスは作業場を見回した。
人の手で荷札を確かめ、縄と金具でまとめた荷を、竜の身体で運ぶ。ここで見た小さな魔法がその飛行にどう関わるのか、少しずつつながり始めた。
「明日も仕事ある?」
「あるけど」
「最初から見せてくれ」
「最初から?」
「荷を選ぶところから。まとめて、確認して、運ぶまで」
ネリスが怪訝そうにエリアスを見る。
「そこまで見てどうするの?」
「魔法を調べる」
「こんなのを?」
「こんなのがいいんだよ」
即答すると、ネリスは目を丸くした。
「もっとすごい魔法、知ってるんじゃないの?」
「知ってる」
大賢者アドルフ・ヴァイスの弟子として、大規模な術式も攻撃や防御、移動の魔法も学んだ。だが目の前の木箱に、ネリスが風を使った理由は知らない。
「俺が知りたいのは、これ」
エリアスが木箱を指す。
「なんでそこで使うのか。なんで使わないことがあるのか。それを知らないまま術式だけ書いても、たぶん足りない」
ネリスはしばらく黙っていた。
それから、少しだけ口元を上げる。
「大賢者の弟子って、もっと偉そうな人かと思ってた」
「偉いぞ」
「自分で言うんだ」
「強いし、頭もいいし、そのうち本も売れて金持ちになる予定だ」
「最後だけ予定なんだ」
「そこはこれから」
ネリスがまた笑った。
「分かった。明日の朝、ここに来て」
「何時?」
「朝から」
「雑だな」
「見れば分かるんでしょ?」
「それ俺に返す?」
今度は二人とも笑った。
ネリスは荷札を軽く振ると、仕事へ戻っていった。
エリアスはその背中を見送る。
美人だった。
それはそれとして。
視線を荷物へ戻す。
風を読み、位置を確かめ、荷の揺れを抑える。どれも単独なら難しくないが、使う順番と条件はまだ分からない。明日は荷をまとめるところから運ぶところまで見て、ネリスに聞こう。
エリアスは帳面を開いた。
今日読めた術式は覚えている。その場では仕事の流れを一行だけ記して、帳面を閉じた。
明日、最初から見る。




