第31話 今夜だけ
翌朝、エリアスが仕事場へ着いたとき、ミレナはすでに糸を並べていた。
「遅い」
「まだ朝だろ」
「朝から見るって言ったのは誰?」
「朝には来た」
「私たちの朝はもう始まってるの」
そう言われて、エリアスは入口の外を振り返った。
太陽はまだ低い。
どう考えても朝である。
「厳しいな」
「見るんでしょう?」
「見る」
エリアスはすぐに帳面を取り出した。昨日は途中からだったが、今日は最初から見る。
ミレナは織機へ糸を掛ける前に状態を確かめ、必要な分だけ張りを整えた。場所によって湿り気を残し、別の場所では少し抜く。布を織り始める前から、いくつもの小さな魔法が使われていた。
「それ、昨日のと同じだよな?」
「どれ?」
「今の水分を動かしたやつ」
「似てるけど、これは準備」
「昨日のは途中だった」
「そう」
「術式は?」
「知らないわよ。私はそういう見方してないもの」
「なるほど」
エリアスは術式、出力、対象、使用する場所を書き、その横へ項目を一つ増やした。
――工程。
使用環境と用途は旅のあいだずっと書いてきた。今、準備の手元を見ていると、同じような魔法でも、作業のどこで使うかによって意味が違うと分かる。反対に、別々の術式が一続きの作業に組み込まれていた。
「次は?」
「まだ始まったばかりよ」
「だから聞いてる」
「見てれば分かるでしょう?」
「聞いた方が早い」
「少しは自分で考えなさい」
「考えたうえで聞いてる」
「面倒ね」
「昨日も言われた」
「今日も言うわ」
そんなことを言いながら、ミレナはきちんと答えてくれる。
作業が進むにつれて、昨日見た魔法がまた現れた。
だが、使われる場所が違う。糸を通す前、途中で張りが崩れたとき、布の端を整えるとき、仕上げへ入る前。
似た魔法なのに、ミレナの中では明確に別の仕事だった。
「これ、名前は?」
「名前?」
「魔法の」
「ないわよ」
「じゃあ何て呼んでる?」
「別に。ここを整える、とか。少し乾かす、とか」
「まとめて呼ばないのか?」
「まとめる必要ある?」
聞かれて、エリアスは少し考えた。
研究する側ならまとめたい。構造が近いなら同じ系統に置き、違いがあるならそこから枝分かれさせた方が整理しやすい。
ミレナが今必要としているのは分類表ではなく、目の前の布を仕上げるための手順だった。
「ないな」
「何が?」
「まとめる必要」
「でしょう?」
「でも俺はまとめるけど」
「結局まとめるんじゃない」
「俺には必要だからな」
ミレナが笑う。
「好きにすれば?」
「その代わり、お前たちがどう分けてるかも書く」
「私たち?」
エリアスは筆を止めた。
「ああ……いや。この仕事場では、か」
「そうね」
ミレナは糸を指先で弾いた。
「別の町がどうしてるかなんて、私は知らないもの」
「似た仕事でも?」
「似てても違うことはあるでしょう?」
「あるな」
「使う糸だって違うかもしれないし、道具も違うかもしれない。私はここで、この仕事をしてるだけ」
エリアスは、その言葉も書いた。
「それも書くの?」
「大事だから」
「何が?」
「お前が知ってるのは、お前の仕事だってこと」
「当たり前じゃない」
「その当たり前を忘れると、あとで変なことになる」
ここで聞いた話を、エルフ族の織物すべての話として書けば、ミレナが教えてくれた使い分けまで見失う。エリアスは帳面の欄外に、彼女の仕事場で見たことだと記した。
「よし」
「何がよしなの?」
「また書くことが増えた」
「嬉しそうね」
「面白いからな」
「本当にそればっかり」
◯
仕事が終わった頃には、エリアスの帳面はかなり埋まっていた。
工程、使用順序、ミレナが同じ仕事として扱うものと分けて扱うもの。その理由を書き始めたせいで、昨日より頁を使っていた。
「腹減った」
仕事場を出たところでエリアスが言うと、隣を歩いていたミレナが呆れた顔をした。
「昼も食べてたでしょう?」
「頭使うと腹減るんだよ」
「ずっと質問してただけじゃない」
「質問するのも頭使う」
「便利な言い訳ね」
「飯行かない?」
ミレナが足を止めた。
「それ、調査の続き?」
「今日はもう帳面閉じた」
「じゃあ何?」
「普通に誘ってる」
「ああ」
ミレナは少しだけ笑った。
「やっと魔法以外の話する気になったのね」
「昨日から美人だとは思ってたぞ」
「それ、今言う?」
「今なら仕事の邪魔にならないだろ」
「そういうところだけ考えるのね」
「結構考えてる」
結局、二人で近くの店へ入った。温かい煮込みとパン。それに酒。
今日の仕事の話をしていた二人は、杯が半分ほど減る頃には旅の話をしていた。
「ずっと一人なの?」
「基本はな。途中で一緒に動くことはあるけど」
「寂しくない?」
「酒場がある」
「答えになってない」
「人もいる」
「女の人も?」
「当然」
「やっぱり」
ミレナが笑う。
「昨日から、たまにそういう目で見てたもの」
「気づいてた?」
「気づくわよ」
「なら話が早いな」
「何の話よ」
「俺がミレナを美人だと思ってる話」
「それはもう聞いた」
ミレナは杯を口へ運び、目を逸らさずに笑った。エリアスはその様子を見て、誘いの言葉を続けた。
「それで旅して、魔法を集めて、最後はどうするの?」
「本にする」
「本?」
「魔導書。各地で拾った魔法をまとめて出版する」
「へえ。立派ね」
「売れたら金になる」
「……うん?」
「名前も売れる」
「まあ、そうでしょうね」
「金持ちで、有名で、大賢者の最後の弟子で、本まで出してる」
エリアスは指を一本ずつ立てた。
「モテると思わない?」
ミレナがしばらく黙った。
それから吹き出した。
「そこへ行くの?」
「大事だろ」
「てっきり魔法を世の中へ残したいとか、そういう話かと思った」
「面白いから調べてる。それを本にして金になったら最高だろ」
「本当に俗っぽいわね」
「褒めてる?」
「半分くらい」
エリアスも笑った。
酒が進む。
けれど、酔って何も分からなくなるほどではない。
ミレナも同じだった。
「ミレナは?」
「何が?」
「男」
「急ね」
「俺ばっかり聞かれるの不公平だろ」
「今はいない」
「今は?」
「前にはいたわよ」
「じゃあ、恋人募集中?」
「別に」
ミレナは少し考えてから続けた。
「欲しくないわけじゃないけど、誰でもいいから欲しいとは思わない」
「分かる」
「あなたが?」
「俺だって誰でもいいわけじゃないぞ」
「女の人なら大体見てるくせに」
「見るのと口説くのと寝るのは別だ」
「細かい分類ね」
「研究者だからな」
「それ、便利ね」
また笑う。
気づけば、仕事場にいたときよりずっと近い距離で話していた。
ミレナがエリアスを見る。
「でも、あなた、もうこの町を出るんでしょう?」
「ああ。調べたいことは調べたからな」
「じゃあ、恋人には向かないわね」
「俺も今から旅やめる気はない」
「私もついていく気ないわよ」
「そこは安心した」
「何よ、それ」
「旅は一人が楽なんだ」
「じゃあ、私たち、ちょうどいいのかもね」
声の調子が少し変わった。
エリアスはミレナを見る。
彼女もこちらを見ている。
「何が?」
「分かってるくせに」
「確認は大事だろ」
「研究者ね」
「こういうのは特にな」
ミレナが笑った。
そして、少しだけ身を寄せる。
「今夜だけなら?」
エリアスは迷わなかった。
「俺は嬉しい」
「明日になって、急に恋人みたいな顔しない?」
「しない」
「次の町へ行くのをやめたり?」
「それもしない」
「よし」
「ミレナは?」
「私も同じ」
それで十分だった。
エリアスが顔を近づける。
ミレナは逃げない。
唇が一度触れた。離れてから、互いの顔を見る。
「確認できた?」
「もう一回くらい必要かも」
「欲張り」
「知ってるだろ」
今度はミレナの方から距離を詰めた。
◯
翌朝。
エリアスは見慣れない天井を見ながら目を覚ました。
「……朝か」
「朝よ」
隣から声がする。
振り向くと、ミレナが寝台の上で身体を起こしていた。
昨夜より少し乱れた髪。床には脱いだ服がいくつか残っている。
昨夜を思い出して、エリアスは頬を緩めた。
「おはよう」
「おはよう」
どちらからともなく笑う。
「後悔してる?」
ミレナが聞いた。
「全然」
「私も」
「よかった」
昨夜は互いに望んで、楽しく過ごした。二人は次にいつ会うかを決めず、そのまま身支度を始めた。
身支度を整えて外へ出る前に、エリアスは帳面を開いた。
「今?」
「今」
「昨夜のこと書く気?」
「違う」
「本当に?」
「魔法の方」
「ならいいけど」
昨日までの記録を見直す。
魔法式、出力、使用環境。それに今回から、作業工程と使用順序、使い手が何を同じ技術として扱い、何を別のものとして扱うのかまで加わった。
エリアスは最後の一行を書き終え、帳面を閉じた。
「よし」
「満足?」
「かなり」
「魔法に?」
ミレナが意地悪そうに聞く。
エリアスは少し考えるふりをした。
「両方」
「正直ね」
「嘘つくところじゃないだろ」
仕事場の近くまで一緒に歩く。
そこで二人は立ち止まった。
「じゃあな、ミレナ」
「ええ。次の町でも、仕事中の人をいきなり捕まえないようにね」
「それは無理かもしれない」
「でしょうね」
「でも先に入っていいかは聞く」
「少しは成長したわね」
「そこ?」
最後まで笑ったままだった。
エリアスは手を上げ、ミレナと別れる。
町を出る道へ向かいながら、一度だけ振り返った。
ミレナはもう仕事場へ戻っていた。
それでいい。
昨夜を思い出すと笑みが出る。それでもミレナは仕事場へ戻り、エリアスにはこれからの道がある。
エリアスは鞄の位置を直した。
一つの町、一つの仕事、一人の使い手を見ただけで、エルフ族の暮らしを知ったことにはならない。
別の場所へ行けば、また違う暮らしと仕事がある。そこにはきっと、違う魔法もある。
「次は何があるかな」
いつものようにそう呟き、エリアスはまた一人で街道を歩き出した。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
エリアスとミレナがこの夜、「そこから先」にどんな時間を過ごしていたのか。
本編では描写を省いた成人向け部分を、ノクターンノベルズにて別作品として掲載しています。
『大賢者の弟子は、旅先の夜を拾っていく』
エリアスとミレナが、お互いに「今夜だけ」と決めたその先の夜。
18歳以上で、二人がどんな時間を過ごしたのか気になる方は、そちらもお楽しみください。
なお、成人向け部分を読まなくても、本編の物語には問題なく続けていただけます。




