第30話 糸のあいだの魔法
雪の残る土地を離れて何日か進むと、街道の景色は少しずつ変わっていった。
白い地面から土が覗き、針葉樹ばかりだった森にも葉の広い木が混じる。朝晩はまだ冷えるが、吐く息は白くならない。エリアスは外套の前を開けて歩いた。
鞄には雪国でまとめた帳面がある。暖房、雪解け、凍結防止、保存、方向確認、保温。小さな術ばかりだが、誰がどこで何を守るために使うのかで、同じ程度の強さでも意味が変わった。
「次は何があるかな」
それを考えると、自然と足が速くなる。
昼を過ぎた頃、道の先に町が見えてきた。
石造りと木造りの建物が混じる小さな町で、通りには荷車と人が行き交っている。旅の途中で聞いたとおり、エルフ族の姿も多かった。それ以上にエリアスの目を引いたのは、通り沿いの店だった。
食料を売る店や道具屋、酒場、宿。そして、何軒か並んだ織物の仕事場。
「飯は……あとでもいいか」
腹は減っている。
宿も取っていない。
だが、開け放たれた仕事場の奥で魔力が動いた。
そうなると、そちらが先だった。
エリアスは入口の近くまで寄り、中を覗く。
何台もの織機が並び、木の鳴る音と糸の擦れる音が規則的に続いている。布が少しずつ形になる、その手元でまた小さな魔力が動いた。
「……今の何だ?」
思わず声が出る。
織機の前に座っていた女性が顔を上げた。
「何が?」
「今、糸に魔法使っただろ?」
女性は手元を見た。
「使ったけど」
「もう一回やってくれない?」
「いきなり来て、それ?」
「あ」
エリアスは少し考えた。
確かに順番がおかしい。
「エリアス。旅の魔法使い」
「そうじゃなくて」
女性が笑う。
「普通は、仕事場に入っていいか聞く方が先じゃない?」
「なるほど」
「なるほどじゃないわよ」
追い出されるかと思ったが、女性は笑ったままだった。
エリアスは改めて入口へ一歩戻る。
「仕事、見せてもらっていい?」
「今さら?」
「順番は直した」
「遅いけどね」
女性は織機へ向き直った。
「邪魔しないならいいわよ」
「助かる」
エリアスはすぐに帳面を取り出した。
「それで、さっきのもう一回」
「本当にそれしか頭にないのね」
呆れたように言いながら、女性が糸へ指を触れる。
ほんのわずかに魔力が流れた。
エリアスは目を細める。
術式そのものは簡単だった。
複数の糸へごく弱い力をかけているが、同じ強さで引っ張ってはいない。緩んだところだけをわずかに引き、張りすぎた部分にはほとんど触れなかった。
「張りを揃えてるのか」
「分かるの?」
「術式はな」
エリアスは空中で指を動かして同じ構造を組み、目の前に垂れた数本の糸へ魔力を流す。ばらついていた張りが揃った。
女性が少し目を見開く。
「一回見ただけで?」
「これくらいなら」
「へえ」
今度は女性の方がエリアスを観察するように見る。
「旅の魔法使いって、みんなそんなことできるの?」
「いや。俺が結構すごい」
「自分で言うんだ」
「事実だからな」
女性が吹き出した。
悪くない反応だ。しかも、笑うと落ち着いた雰囲気が少しほどけて、かなり綺麗だった。エリアスは帳面を開きながら聞いた。
「名前は?」
「ミレナ」
「ミレナか。俺は――」
「エリアス。さっき聞いた」
「覚えてた?」
「今聞いたばっかりでしょう」
「それもそうか」
ミレナはまた笑った。
エリアスは少しだけ機嫌がよくなった。
魔法も見つかり、話しやすい美人とも知り合えた。いい町かもしれない。
◯
しばらく見ていると、別の魔法も見つかった。
ミレナが布へ指先を滑らせると、ごく狭い範囲から水分が抜けた。
「乾燥?」
「少しだけね」
「全部乾かさないのか?」
「乾かしたら困るもの」
「なんで?」
「このあと扱いにくくなるから」
エリアスは帳面へ書き込みながら、布を見る。
術式だけなら簡単な水分調整だ。似た魔法なら、保存や洗濯、農作業、船の上でもいくつも見たことがある。
「もっと均等に抜けるけど」
エリアスが言うと、ミレナは首を振った。
「均等じゃ困るのよ」
「ここだけ?」
「そこだけ」
「なんで?」
「次にこっちを通すから」
ミレナが作業を続ける。
布の端へ少し湿り気を残しながら、別の部分だけを調整する。
そのあと別の糸を通して位置を整え、また別の場所へわずかな魔力を流した。エリアスは筆を止めた。
「待って」
「何?」
「今の魔法、さっきとほとんど同じだよな?」
「どれ?」
「湿り気を動かしたやつ」
「ああ。それなら違うわよ」
「術式はほとんど同じだぞ」
「でも違うでしょう」
ミレナは当然のことのように言った。
エリアスは布を見る。
「何が違う?」
「使うところ」
「それだけ?」
「それだけって……」
ミレナは困った顔をした。
「こっちは糸を通す前。さっきのは仕上げる前。やってることが違うもの」
エリアスはもう一度、術式を思い返す。
構造も作用も似ているから、魔法理論では同系統の術式としてまとめられる。だがミレナの手元では、使う場所も作業の段階も目的も違っていた。
「じゃあ、これとこれを同じ魔法って言われたら?」
「嫌ね」
「嫌なの?」
「だって違うもの」
即答だった。
エリアスは少し笑った。
「面白いな」
「何が?」
「いや、こっちの話」
さらに仕事を見ていく。
糸の張りを揃え、湿り気を動かし、ほんの少しだけ素材へかかる力を逃がす。
どれもエリアスなら、もっと強く、広く、速く使える。けれど、この仕事に要るのは今触れている範囲だけだ。雪国でも見た、その使い方の先に、もう一つ気になることがあった。
「なあ、さっきの張りを揃えるやつ」
「まだ聞くの?」
「まだ聞く」
「好きねえ」
「知らない魔法だからな」
ミレナは手を止めずに答える。
「何?」
「あれ、いつ使う?」
「必要なとき」
「それじゃ分からない」
「あなた、面倒くさい人ね」
「よく言われる」
「でしょうね」
それでもミレナは答えてくれた。
糸を掛けた直後や、途中で張りが崩れたときに使う。素材によっては使わないこともあり、使いすぎれば逆に糸を傷める。
「じゃあ最初からずっと効かせておけばいいわけじゃない?」
「そんなことしたら駄目になるわよ」
「やっぱりか」
エリアスは発動方法、対象、出力、使う工程、使わない場合と使いすぎた場合まで書いた。ひとまず一つの術の記録はできたが、目の前ではミレナが次の作業へ移り、また別の魔力が動く。
一枚の布を織るあいだ、小さな術は単独で完結しない。仕事の順番に沿って、何度も挟まれていた。
「……なるほどな」
「今度は何?」
「使う順番まで見ないと分からないのか」
ミレナが手を止めた。
「何が?」
「この魔法」
「魔法?」
「そう。俺は術式を見れば、何をしてるかは分かる。でも、それだけじゃ足りないみたいだ」
エリアスは帳面を見る。
同じような術式なのに、ミレナは別のものとして扱う。逆に、術式としては別々に分けられる魔法を、一つの仕事の流れの中では当たり前のようにつなげて使っている。
術式による分類と、使い手が仕事の中で区別する技術。その二つは重ならないことがある。
「面白い」
「本当に楽しそうね」
ミレナが呆れ半分で笑う。
「楽しいぞ」
「大賢者の弟子って、みんなそんな感じなの?」
エリアスの手が止まった。
「なんで知ってる?」
「さっき、通りの人が教えてくれたわよ。旅の魔法使いが来たと思ったら、大賢者アドルフ・ヴァイスの最後の弟子らしいって」
「噂、早くない?」
「小さい町だから」
「便利なんだか怖いんだか分からないな」
ミレナは少しだけエリアスを見る目を変えた。
「本当に大賢者の弟子なの?」
「そうだけど」
「へえ」
「もっと驚かない?」
「驚いてるわよ」
「そう見えない」
「じゃあ、明日から私の代わりにこれ全部できる?」
エリアスは織機を見る。
術式なら全部再現できる。
だが、どの糸へ、どの順番で、どこまで、いつ使うのか。そこまで判断しろと言われると、話が違う。
「……無理だな」
「でしょう?」
ミレナは満足そうに笑った。
「大賢者の弟子でも?」
「大賢者の弟子でも」
「じゃあ、ちゃんと覚えて帰りなさい」
「そのつもり」
エリアスも笑った。
大賢者の弟子でも、知らない仕事の判断まで見ただけでは分からない。なら、聞いて、見て、覚えればいい。その方が面白い。
日が傾き始める頃、ミレナがようやく手を止めた。
「今日はここまで」
「もう?」
「もうって、ずっと見てたじゃない」
「途中からだっただろ」
「朝から来るつもりだったの?」
「明日は朝から見たい」
ミレナが瞬きをした。
それから、少し笑う。
「本気?」
「本気」
「仕事よ?」
「だから見たいんだよ。一日の最初から最後まで見た方が、どこで何を使ってるか分かる」
ミレナはしばらくエリアスを見ていた。
大賢者の弟子を見る目ではなかった。
妙な旅人を見るような、少し面白がっている目だった。
「じゃあ、明日。朝から来れば?」
「いいの?」
「邪魔しないなら」
「質問はするぞ」
「それはもう諦めた」
「よし」
エリアスは帳面を閉じた。
宿もまだ取っておらず、飯も食っていない。腹はとっくに減っている。
それでも、悪くない一日だった。
知らない魔法があり、術式だけではまだ分からないことも残っている。明日また最初から見られるのが楽しみだった。
仕事場を出る前、エリアスは振り返った。
「じゃあ、また明日。ミレナ」
「ええ。また明日、エリアス」
名前を呼び返されて、少しだけ気分がよかった。
さて。
宿を探して、飯を食って、できれば酒も飲もう。
そう思いながら歩き出しても、頭の中ではもう、明日見る魔法のことを考えていた。




