第29話 命を守る小さな魔法
翌朝になっても、エリアスの身体には昨日の疲れが残っていた。
怪我はなく、魔力も眠ればかなり戻った。それでも頭の奥には薄い重さが残っている。長い時間、複数の魔法を同時に維持し続けたせいだろう。
「……眠い」
宿の食堂で朝食を食べながら、エリアスは欠伸を噛み殺した。だが、その隣にはすでに帳面が開かれている。
昨夜、町へ戻ってきた時点で書きたいことはいくらでもあった。しかしさすがに、まともに字を書ける状態ではなかった。
だから今日になった。
まず確認したいのは、岩陰で四人が使っていた保温魔法だった。
術式は単純で、威力も小さい。宿で見つけただけなら、寒い日に便利な魔法として記録しただろう。だが、昨夜はあの魔法を切らさず使っていた四人に、岩陰で会えた。
「でも、あそこじゃ違ったんだよな」
エリアスは残ったパンを口へ放り込み、帳面を閉じた。
眠いし、疲れている。だからといって、気になるものを放っておけるほど大人しくもなかった。
◯
「これ、誰に教わった?」
「親父だよ」
「親父さんは?」
「そのまた親父からだと思う」
「いつ使う?」
「寒けりゃ使う」
「寒いって、どのくらい?」
「……寒いくらいだ」
「それじゃ分からない」
「そんなこと言われてもな」
昨日救助された男が困った顔をする。
エリアスは帳面を構えたまま、さらに尋ねた。
「ずっと使うのか?」
「いや。火が使えるなら火を使う。風を避けられる場所なら、まずそっちを探す」
「じゃあ、あれだけで何とかしようとはしない?」
「無理だろ」
「だよな」
答えを聞きながら書く。
保温魔法の発動方法、使用者、使用環境。併用する防寒具、風を避けられる場所の有無、火を使える状況かどうか。
そして、その下へ一行加える。
――身体から熱が失われる速度を抑え、救助までの時間を稼ぐ。
エリアスは筆先を止めた。
用途も使い手も、これまで記録してきた。今度は、救助が来るまで持ちこたえるという使い手の目的を、自分が確かめた言葉で書ける。
「何のために……か」
「何だ?」
「いや、こっちの話」
エリアスはもう一度、書いた文字を見る。
宿の毛布と岩陰では、同じような保温でも使う場面が違う。昨夜、四人にとっては救助を待つ時間を延ばすための魔法だった。
その後も町を歩いた。
水桶の凍結を防ぐ魔法、雪を除けやすくする魔法、食料を凍らせすぎないための温度調整、雪の中で方向を見失わないための補助。
誰に教わり、いつ使い、どこまで頼るのか。どういうときには魔法以外の方法を選ぶのか。
術式を解析する楽しみは変わらない。その上で、使い手が魔法以外の何を選び、何を守ろうとしたのかも知りたかった。
「ここまで書いた方が分かりやすいな」
なぜその形と強さが選ばれたのか。理由が分かるほど、術式を読み返すのも面白くなる。
「書くこと、また増えたな……」
帳面の頁を見てため息をつく。
だが口元は笑っていた。
「まあ、面白いからいいか」
◯
夜には、さすがに身体が限界を訴え始めていた。
エリアスは宿の食堂で酒を飲んでいた。
一杯目はうまかった。
二杯目も、たぶんうまかった。
三杯目を頼もうとしたところで、目の前から杯が消えた。
「今日はもうやめておきなさい」
「え?」
顔を上げる。
そこにいたのはノーラだった。
エリアスより、かなり年上の女性。落ち着いた顔立ちと、ゆったりした雰囲気を持っている。
派手さはないが、目を向ければつい見てしまう魅力がある。既婚者だということも、エリアスはすでに聞いていた。
「まだ二杯しか飲んでない」
「三杯目を頼もうとしてたでしょう?」
「よく見てるな」
「あなた、朝からずっと町を歩き回ってたでしょう」
「研究だから」
「昨日は吹雪の中で人を助けて、その次の日に朝から研究?」
「気になったから」
「そう」
ノーラは笑った。
「じゃあ、まず食べなさい」
代わりに置かれたのは、湯気の立つ皿だった。
肉と野菜の入った煮込み。
「酒は?」
「食べてから」
「厳しい」
「倒れられるよりいいわ」
エリアスは反論しようとして、腹が鳴った。
ノーラが何も言わずに見る。
「……食べます」
「よろしい」
匙を取る。
温かい。
腹へ入ると、思っていた以上に身体が緩んだ。
「うまい」
「でしょう?」
「これ食ったら酒くれる?」
「急がなければね」
「じゃあゆっくり食う」
「それはそれで遅くなりそうね」
ノーラは向かいに座った。
エリアスが研究の話を始めると、きちんと聞いてくれた。
「昨日のあの魔法、すごく弱いんだよ。でも、その弱さで――」
「ええ」
「いや、弱いって言っても悪い意味じゃなくて。むしろあれくらいだから――」
「分かったから、食べながら話しなさい」
「はい」
食べながら研究の話をし、酒を少し飲んではまた話す。そのうち言葉が途切れがちになった。
「それで……保温の方は……」
「うん」
「使う場所によって、同じくらいの出力でも……」
「うん」
「……」
「眠い?」
「眠くない」
「目、閉じてるけど」
エリアスは目を開けた。
「考えてただけ」
「そういうことにしておきましょうか」
ノーラは笑う。
妙だった。
普段なら、相手が魅力的な女性ならエリアスの方から話を振る。笑わせ、距離を詰め、どうにかしてこちらを意識させようとする。
ノーラはかなり好みだ。独身なら間違いなく口説いている。でも彼女には夫がいる。今夜はそれ以上を考えずに話し、食べられることが、妙に楽だった。
「これ、食べなさい」
「まだあるの?」
「少しだけ」
「太る」
「昨日あれだけ動いた人が言う台詞じゃないわね」
「じゃあ食う」
「素直ね」
「疲れてるからな」
「知ってる」
その返事が、不思議なくらい心地よかった。
大賢者の弟子だからでも、昨日人を助けたからでもない。ノーラは疲れた客に飯を食わせ、酒を止め、休ませようとしている。それが心地よかった。
「もう部屋へ戻った方がいいんじゃない?」
「まだ帳面が……」
「明日でいいでしょう」
「忘れるかもしれない」
「今のあなたが書いた字、明日読めると思う?」
「……たぶん読めない」
「でしょう?」
エリアスはしばらく帳面を見た。
それから閉じた。
「分かった。寝る」
「はい、おやすみなさい」
「子供扱いしてない?」
「してないわよ」
「本当に?」
「早く行きなさい」
追い払うように手を振られる。
エリアスは立ち上がった。
身体が重い。
でも嫌な重さではなかった。
張り詰めていたものが、いつの間にか抜けている。
「……こういうのも悪くないな」
「何か言った?」
「何でもない」
自室へ戻る。
寝台へ身体を落としたところで、ノーラの顔が浮かんだ。
「独身だったら絶対口説いてたのにな……」
それだけ呟いて、エリアスは眠った。
その夜は、夢を見る暇もなかった。
◯
翌朝。
「よく寝た」
頭の重さはすっかり消えていた。
エリアスは伸びをして、窓の外を見る。
雪は止んでいる。昨日までとは違って、空も明るい。階下へ降りる途中、若い女性とすれ違った。
思わず目で追う。
「……美人だな」
いつもの自分だった。
少し安心する。
食堂へ入ると、ノーラの姿もあった。
「おはよう。今日は顔色いいわね」
「おかげさまで」
「ちゃんと寝た?」
「寝た。すごく寝た」
「ならよかった」
エリアスは席につきながら、ほんの少しだけ惜しく思う。
人妻じゃなかったらなあ。
まあ、それはそれだ。
朝食を終えると帳面を開いた。
暖房、雪解け、凍結防止、保存、方向確認、保温。
並べてみると、どれも大きな魔法ではない。それでも、意味は同じではなかった。
誰がどこで使い、何を守るために必要としたのか。昨日聞いた話を添えて読み返すと、その形になった理由が前よりよく見えた。
「よし」
エリアスは最後の頁を閉じた。
雪国で拾った魔法は、ひとまずまとまった。
まだ知らないものはいくらでもあるだろう。でも、それはここだけではない。他の土地にもある。
金も欲しい。
うまい飯も食いたい。
酒も飲みたい。
女にもモテたい。
そして何より、まだ知らない魔法を見たい。
「じゃあ、行くか」
荷物を背負う。
外には白い道が伸びていた。
エリアスは一人で、次の土地へ向かって歩き出した。




