第26話 凍らせない暮らし
翌朝、エリアスが食堂へ下りると、宿の主人が大きな水差しを抱えて裏口から戻ってくるところだった。
「おはよう」
「早いな。朝飯ならもう少し待て」
「いや、それ」
主人が足を止める。
「今度は何だ?」
「水」
「水がどうした」
エリアスは主人の持つ水差しではなく、開いた裏口の向こうを見ていた。
外壁の脇に、大きな木桶が置かれている。昨夜から雪は降り続いていたし、朝の冷え込みは昨日より明らかに強い。
それなのに、桶の水面は凍っていなかった。
「外に置いてあるのに凍ってない」
「ああ」
「魔法だろ?」
「そうだが」
主人はもう驚かなかった。
昨日一日で、エリアスが何に食いつく客なのか理解したらしい。
「見るか?」
「見る」
即答した。
外へ出ると、冷気が頬を刺した。桶へ近づき、縁に指を添える。そこから非常に弱い魔力が、木桶の底と側面へ薄く巡っていた。
昨日、寝具に触れたときの術式にも似ている。ただ、これは水を温めず、凍り始めるぎりぎりで熱を補っていた。
「……これも弱いな」
「昨日も同じこと言ってたな」
「今度は褒めてる」
「便利な言葉だな」
主人が笑う。
エリアスは桶の水へ指先を入れた。
冷たい。
普通に冷たい。
「温かくする気はないんだな」
「飲み水だぞ」
「だよな」
温水は要らない。水のまま使えればいいのだ。
エリアスは帳面を開いた。
水桶。凍結する直前だけ熱を補う。
「ずっと使ってるのか?」
「冷え込む夜だけだ。昼間までやってたら魔力の無駄だろ」
「なるほど」
使う時間まで絞っている。エリアスはその点にも印をつけた。
「朝飯、冷めるぞ」
「あ」
研究に夢中になって朝飯を逃すほど、エリアスは殊勝ではない。
「それは困る」
帳面を閉じて、さっさと宿へ戻った。
◯
朝食を済ませたエリアスは、昨日より意識して町の仕事を見て回った。
探せば、いくらでもあった。
鍛冶場の前では、男が荷車の車軸へ手を当てている。
「動かないのか?」
「夜のうちに凍った」
「見てもいい?」
「好きにしろ」
男が使ったのは、やはり局所的な加熱だった。
ただし昨日の扉より少し複雑だ。
金属そのものを熱するのではなく、接合部分へ入り込んだ氷だけを緩めている。
「ここまで絞るのか」
「全部熱くしたら油まで流れるだろ」
「ああ、それは困る」
「壊れても困る」
「それも困るな」
エリアスは術式を読む。
術式は難しくない。出力や効果範囲を広げるのも簡単だが、それでは目的から外れる。車輪を回したいのであって、車軸を焼きたいわけではない。
次に見つけたのは食料庫だった。
店先へ積まれた木箱を眺めていたエリアスに、店の女が声をかける。
「買うの?」
「いや。なんでこの箱だけ魔法がかかってるのか見てた」
「……箱を見て分かるの?」
「魔力が流れてる」
「あんた魔法使い?」
「一応」
箱の中には、肉と野菜が入っていた。
外気なら十分すぎるほど冷える。
なのに箱には、ごく弱い温度調整の魔法が組まれている。
「冷やすためじゃないな」
「凍らせないためよ」
「外に置いてるのに?」
「外だからよ」
女は当たり前のように言った。
「凍りすぎたら傷むものもあるし、使うたびに石みたいに固まってたら面倒でしょう」
「……なるほど」
食料を守るには、寒ければ冷やせばいいというわけでもない。外気が冷たすぎるこの土地では、凍らない程度へ温度を戻している。
「面白いな」
「何が?」
「普通の土地だと、食べ物を冷やすために魔法を使うだろ?」
「そうなの?」
「こっちじゃ冷えすぎないために使う。同じ保存でも逆になる」
女は少し考えてから肩をすくめた。
「腐らなきゃどっちでもいいわ」
「そういうもんか」
使う側にとっては、理屈より食べ物が無事なことの方が大事らしい。
エリアスは笑いながら帳面へ書き足した。
◯
昼を過ぎる頃には、雪がまた強くなっていた。
通りでは数人の男たちが、屋根から落とした雪を道の脇へ寄せている。
昨日見た雪掻きより量が多い。
腰ほどの高さまで積み上がった雪を前に、男の一人が息を吐いた。
「また降りやがった」
「それ、溶かした方が早くないか?」
エリアスが声をかけると、男たちが振り向いた。
「旅の魔法使いか」
「そう。これくらいなら、一気に消せるぞ」
エリアスは雪山を見る。
難しくはない。
範囲を指定して熱を通せば、短時間で全部水に変えられる。この程度の量なら、魔力消費も大したことはない。
「やめろやめろ」
「え?」
思った以上の勢いで止められた。
「なんで?」
「これ全部、水にする気か?」
「そのつもりだけど」
男が通りの傾斜を指差した。
「流れた水、どこ行くと思う」
エリアスも見る。
通りは緩く下っている。
その先には家が並んでいた。
「下?」
「そうだ。昼間に流れて、夜になったら?」
「……凍るな」
「この寒さならな」
もう一人が雪掻きを地面へ立てる。
「昨日も少し溶けたところが凍って、朝から二人転んだ」
「雪より氷の方が厄介だぞ」
「ああ……」
エリアスは積まれた雪を見直した。
雪を溶かしても水は消えない。坂を流れ、下に溜まり、夜にはまた凍る。
「じゃあ、どこまでやる?」
「固いところだけ緩める」
男が雪山の根元へ手を向けた。
「こうやって崩せる程度にな」
弱い熱が広がる。
表面ではなく、雪の塊が地面へ固着している部分だけ。
別の男が道具を差し込み、まとまった雪を持ち上げた。
それを荷台へ載せる。
「運ぶのか?」
「町の外へな」
「全部?」
「全部じゃない。邪魔な分だけだ」
エリアスはしばらく黙っていた。
広い範囲をすぐに溶かす力はある。だが、それで雪掻きが終わるわけではなかった。
「……ああ。溶かしすぎても困るのか」
「雪国じゃ、雪がなくなりゃ終わりってわけじゃないからな」
「面倒だな」
「毎年だ」
男たちは笑った。
エリアスも笑って、帳面を取り出した。
「ちょっと待って。その魔法、もう一回見せて」
「そっちかよ」
「そっちだよ」
出力、範囲、使う場所。その下へ、強くした場合に水がどこへ流れ、夜に何が凍るかも書き足した。
「なるほどなあ」
術式は簡単なのに、聞くことは昨日より増えた。どこでいつ使うかだけでなく、なぜそこまでで止めるのか。溶けた水の行き先まで考えて、ようやくこの町での雪の扱い方が見えてくる。
◯
夕方。
宿へ戻ったエリアスは、暖炉のそばで帳面を広げていた。
水桶、車軸、食料箱、道の雪。一日で帳面がかなり埋まった。どの術も出力は小さいが、使う場所を間違えれば別の困りごとが増える。
「強くできることと、強くした方がいいことは別だな」
声に出してみる。
水を温めすぎれば飲み水として扱いにくい。
車軸を熱しすぎれば別の部分へ影響する。
食料を冷やしすぎれば凍る。
雪を溶かしすぎれば、水になり、また氷になる。
どれも、もっと強い魔法で置き換えること自体はできる。
だが暮らしの中では、強さ以外にも都合がある。
「寒さを消してるんじゃないんだな」
エリアスは頁をめくった。
この町の人たちは、寒さと雪が続く中で、水や道具や食料を使えるようにしている。冬を消すのではなく、暮らしに困るところだけを調整していた。
「そりゃ、こういう魔法になるか」
面白い。
理屈が分かれば、昨日よりずっと面白い。
エリアスが次の頁を開いたところで、近くの席から男たちの会話が聞こえた。
「明日は向こうの集落まで行くのか?」
「ああ。雪が強くなる前にな」
「道、大丈夫か?」
「今のうちならな。印もまだ拾える」
エリアスの手が止まった。
印。
雪の中の道。
昨日から町の中ばかり見ていたが、この土地で暮らす人間が町の外へ出ないはずがない。
雪で道が埋まれば、どうやって進むのか。
目印が見えなくなれば、どうやって方向を確かめるのか。
エリアスは帳面を閉じた。
「……今度は外か」
まだ拾うものはありそうだった。




