第25話 雪の町
海を離れて北へ向かうほど、空気は少しずつ冷たくなっていった。
最初は朝晩に息が白くなる程度だった。それが数日も進むと、街道の脇に雪が残るようになり、さらに北へ入る頃には、道そのものが白く埋まっていた。
「……寒いな」
エリアスは吐いた息が白くほどけていくのを見た。
寒いが、困るほどではない。簡単な術式を組んで、身体の周りへごく弱い熱を巡らせる。冷気に奪われる分を補うだけで、指先の強張りが解けた。
「まあ、魔法使えばどうにでもなるか」
雪を踏んで歩き出す。
街道の両側には針葉樹が増えていた。枝へ積もった雪が、ときおり風に揺れて落ちる。遠くの山も白い。
海では、船が移動することまで魔法の使い方に関わっていた。あれ以来、帳面には術式と使い手のほかに、いつどこで使い、どんな道具を持ち込めるかも書いている。聞くことが増えて、面倒にはなった。
「でも、その方が面白いんだよな」
その分、なぜその形になったのかが見える。なら、書く手間くらいは安いものだった。
昼を少し過ぎた頃、雪の向こうに屋根が見えた。
低い建物が並び、その一つ一つから煙が上がっている。屋根には厚く雪が積もっていたが、入口の前だけはどこもきれいに道が開いていた。
町へ近づくと、人の姿も増える。
雪を掻く者、薪を運ぶ者、荷車の車輪についた雪を落とす者。手を止めて寒さを嘆く人間はいなかった。
ここでは、これが普通なのだろう。
「とりあえず宿だな」
寝床を決めて、飯を食い、酒を飲む。研究はそのあとでもできる。
そう思って町の通りを歩いていたとき、エリアスの足が止まった。
一軒の店先で、男が扉の金具へ指を当てている。
魔力が、ごくわずかに流れた。
「ん?」
エリアスは思わず振り返った。
男が取っ手を引く。さっきまで白く凍りついていた金具が、何事もなかったように動いた。
「今の、もう一回やってもらっていい?」
男が怪訝な顔をする。
「何がだ?」
「扉」
「扉?」
「その金具に使った魔法」
男は自分の手元を見た。
「こんなのか?」
もう一度、指先から魔力が流れる。
火は生まず、熱も広げない。金具の表面と内側で凍りついた部分にだけ、少し熱を渡している。
術式は単純だった。
エリアスなら見ただけで再現できる。
「……弱いな」
「は?」
「あ、いや。悪い意味じゃなくて」
エリアスはしゃがみ、金具を見る。
もっと強く温めることは簡単だ。
この程度の金属なら、すぐに熱くできる。
なのに男は、氷が外れるぎりぎりまでしか温めていない。
「なんで、もっと強くしないんだ?」
男は今度こそ妙なものを見る顔をした。
「取っ手を熱くしてどうする」
「……それもそうか」
握れなくなる。
言われてみれば当然だった。
男は肩をすくめて店へ入っていく。エリアスはその背中を見送ってから、帳面を取り出した。
凍結した金具に、ごく狭い範囲で必要なだけ熱を渡す。そこまで書いて顔を上げた。
「雪国、面白そうだな」
宿を探す予定だったことは、少しだけ後回しになった。
◯
結局、宿へ入ったのは日が傾き始めてからだった。
その間にも、妙なものをいくつも見つけた。
家の前で雪を掻いていた女は、地面すれすれへ弱い熱を流していた。
雪を全部溶かさず、地面に貼りついた下側だけを緩めて、剥がしやすくしている。
「それ、どうやってる?」
「これ?」
「そう。それ」
女は不思議そうにしながらも、もう一度見せてくれた。
エリアスも同じように手をかざす。
術式を読む。
出力を合わせる。
雪の下側だけがわずかに緩んだ。
木の雪掻きを差し込むと、固まっていた雪がまとまって持ち上がる。
「なるほど」
「何が?」
「全部溶かさないんだな」
「当たり前でしょ。びしゃびしゃになるじゃない」
また当然のように言われた。
エリアスは少し笑った。
次に見つけたのは宿だった。
入口をくぐった瞬間、暖かい空気が頬へ触れる。
大きな暖炉がある。
当然、火も燃えている。
けれど、エリアスが見たのは炎ではなかった。
暖炉から離れた場所にも、妙に暖かさが残っている。
「……これも魔法か」
荷物を置くより先に壁へ目を向けた。
薄い魔力の流れが、部屋の外周に沿って巡っている。
熱を作っているわけではない。
外へ逃げようとする熱を、ほんの少しだけ内側へ留めている。
受付にいた宿の主人が、エリアスの視線に気づいた。
「部屋なら上だよ」
「いや、これ」
「何だ?」
「壁に流してる魔法。暖炉の熱を逃がしにくくしてるだろ」
主人は一瞬黙った。
それから壁を見た。
「まあ、そうだが」
「誰が考えた?」
「知らん」
「いつから使ってる?」
「俺が子供の頃にはもうあったぞ」
「出力って変える?」
「寒い日は少し強くするな」
エリアスはもう帳面を開いていた。
主人が呆れたように見る。
「泊まりに来たんじゃないのか?」
「泊まる。飯も食う。酒も飲む。で、これも聞きたい」
「忙しい客だな」
「よく言われる」
本当は、それほど言われたことはない。
だが旅に出てからなら、そのうち言われる気がした。
部屋を取って荷物を置いたあとも、エリアスは宿の中を見て回った。
客室の寝台には、厚い毛布が重ねてある。
その一枚へ手を触れると、ここにも薄い魔力の痕跡があった。
身体から逃げる熱を少しだけ留める。
それだけ。
扉の金具、道に貼りついた雪、暖炉、寝具。見かけた術はどれも単純で小さい。エリアスならもっと強く使えるが、町ではこの大きさのまま、何度も使われていた。
「なんで、わざわざこんな弱くしてるんだろうな」
呟いてから、昼間の男の言葉を思い出した。
取っ手を熱くしてどうする。
雪を全部溶かしたら、びしゃびしゃになる。
暖炉の熱を留めすぎれば、今度は暑くなりすぎる。
毛布だって、眠れないほど熱を持たせる必要はない。
そこでようやく、エリアスは帳面の文字を見直した。
弱い。
そう書きかけて、線を引く。
「違うな」
必要な場所へ、必要なだけ。強くしたらかえって使いにくくなる。
「これで足りるのか」
言葉にすると、妙にしっくりきた。
◯
夜。
食堂で運ばれてきたのは、厚く切った肉と根菜を煮込んだ料理だった。
湯気と一緒に香草の匂いが立つ。
ひと口食べる。
「うま」
塩気が強い。
だが寒い中を歩いた身体にはちょうどいい。
根菜は柔らかく、肉の脂をよく吸っていた。
酒は濃い色の麦酒だった。
冷たいものを出されるかと思ったが、ほんの少し温めてある。
「こっちじゃこう飲むのか」
口に含むと、香りが強く立った。
悪くない。
かなりいい。
エリアスは皿を空にしながら、昼間から書き続けていた帳面を開く。
凍った金具。
雪掻き。
暖炉。
寝具。
威力だけなら、どれも大した魔法ではない。だが町の人は、朝も昼も夜も使う。寒さは倒して終わりにはできず、明日もその次の日も来る。そのたびに大きな魔法を使うより、毎日使える形の方が役に立つのだろう。
暮らしに合わせて、必要な分だけ使えればいい。
エリアスは酒を一口飲んだ。
「……雪国、当たりだな」
帳面の空いている頁はまだ多い。
今日一日歩いただけで、これだけ見つかった。
なら、明日はもっとある。
水や食べ物、道具、屋根、荷物。凍る場所で暮らすなら、困るものは他にもいくらでもある。
エリアスは帳面を閉じた。
「もう一杯」
明日から本格的に見て回ろう。
今夜はまず、温かい飯と酒を楽しむ。
雪国には、まだ拾っていない魔法がたくさんありそうだった。




