第24話 海で生まれた魔法
翌朝には、海は昨日の荒れ方が嘘のように静かになっていた。波はまだ少し高い。それでも船を横から叩くほどではなく、帆にも穏やかな風が入っている。
甲板の上では、船員たちが朝から働いていた。切れた索具を張り直す者、濡れた帆布を広げて傷んだ場所を確認する者、積荷を一つずつ調べる者。船体の側面へ身を乗り出し、損傷がないか確かめている者もいる。
昨日と同じ船だが、あちこちに嵐の跡が残っている。
エリアスは甲板の端へ腰を下ろし、帳面を開いた。
ページには、途中まで書かれた文字が残っていた。
仕事、場所、使える道具、持ち運べる量、動く環境。
昨日はそこで止まっている。
「今なら続きが書けそうだな」
呟いてから、顔を上げた。
帳面を置きかけたとき、サイラスが通りかかった。
「暇?」
「見りゃ分かるだろ」
両手に縄を抱えていた。
「忙しいな」
「分かってるなら聞くな」
「じゃあ、それ終わったら暇?」
「お前、諦めねえな」
「昨日のこと聞きたい」
サイラスが足を止めた。
「昨日?」
「潮見。風見。方角留め。いつ使って、何を見てたのか」
「今まで散々聞いただろ」
「昨日使ったときは違った」
「何が?」
「使う理由が分かった」
サイラスは少しだけ黙った。
それから縄を肩へ担ぎ直す。
「それ置いたらな」
「待ってる」
「本当に待ってそうだから嫌なんだよ」
言いながらも、口元は笑っていた。
◯
「風見は、ずっと使ってるわけじゃない」
修理の手が一段落した頃、サイラスは舷側へ寄りかかっていた。
エリアスはその横で帳面を開く。
「必要なときだけ?」
「当たり前だ。風なんて見りゃ分かることも多い」
「じゃあ昨日は?」
「変わり方が早かった。目で見てからじゃ遅いことがある」
「どこを見る?」
「帆。波。雲。海面。あと、顔に当たる風」
「風見だけじゃない」
「だから昨日も言っただろ」
サイラスが呆れた顔をする。
エリアスは気にせず書き込んだ。
「同じ風見でも、使う人で違う?」
「そりゃ違う」
「術式が?」
「使い方が」
サイラスは指先を立て、弱い風見を使った。
「俺は舵を見るから、船がどっち向いてるかと合わせて見る。帆を扱う奴なら、もっと帆の近くで使うこともある」
「同じ魔法なのに?」
「同じ風を見てるわけじゃないからな」
エリアスの筆が止まった。
「……それ、面白いな」
「何がだよ」
「同じ船の上でも違う」
「役目が違えば見るもんも違うだろ」
同じ船の上で同じ魔法を使っても、舵を扱うサイラスと帆を扱う船員では、欲しい情報が違う。エリアスはその違いを帳面へ書き留めた。
「潮見は?」
「それはベルンにも聞け」
「船長?」
「俺より細かい」
ちょうど近くを通ったベルンが顔をしかめた。
「勝手に押しつけるな」
「船長の方が詳しいだろ」
「詳しいからって暇じゃねえ」
「でも昨日助けた」
エリアスが言う。
ベルンが足を止めた。
「それを使うか?」
「駄目?」
「……五つだけだぞ」
「質問?」
「十個に増やしたら海へ落とす」
「じゃあ九個まで」
「五つだ」
ベルンは譲らなかった。
エリアスは笑って帳面を構える。
「潮見は、流れが分かれば毎回使う?」
「使わん」
「なんで?」
「知ってる場所なら、海面や岸を見れば大体分かる。必要もないのに魔力を使う意味がない」
「知らない場所では?」
「使うこともある」
「昨日みたいな荒天では?」
「使う」
「四つ」
「数えてやがるな」
「あと一つ」
ベルンが露骨に嫌そうな顔をした。
「じゃあ最後。同じ潮見でも、人によって判断は変わる?」
ベルンはすぐには答えなかった。
海を見る。
「変わる」
「やっぱり」
「経験が違うからな。同じ流れを見ても、若い奴なら避けるところを、俺なら使えると思うこともある。逆もある」
「魔法は同じなのに」
「だから魔法だけ覚えても船長にはなれん」
「それ、昨日よく分かった」
ベルンが鼻を鳴らす。
「分かったなら勝手に船を動かそうとしなかったのは正解だったな」
「俺もそこまで馬鹿じゃない」
「どうだかな」
「助けたのに扱い悪くない?」
「助けてもらったから話してやってる」
「じゃあ六個目――」
「終わりだ」
ベルンはさっさと離れていった。
「けち」
「聞こえてるぞ!」
少し遠くから声が返ってきた。
エリアスは笑って、また帳面へ目を落とした。
◯
午後になる頃には、記録は何ページも増えていた。
風見、潮見、方角留め、保存魔法。それに、濡れた縄や網へ使う風。
術式だけなら一度見て再現できるものも多い。だが、それを書くだけでは昨日の船で起きたことが残らない。
いつ使い、使わないときにはなぜ使わないのか。何を見るための魔法で、得た情報を何と組み合わせるのか。誰が使い、同じ魔法でも役目によって何が変わるのか。
そこまで書き込む。
「……こうした方が分かりやすいな」
後で自分が読み返したときも、その方が面白い。
港の魚箱と船の保存箱では、冷やす時間が違う。同じように細い風を使っても、陸で洗濯物の間を通すのと船で濡れた網を乾かすのでは、風の当て方が違った。
陸なら蔵も倉庫も置けるし、重い道具を建物へ預けておける。船では積む量と場所に限りがあり、足元も揺れる。風や潮の変化は、船上の暮らしへそのまま入ってきた。
「仕事だけじゃ足りないんだな」
エリアスは呟いた。
冒険者たちの術は、追跡や野営、危険の確認を助けていた。船の上では、仕事に加えて潮と揺れ、積める量まで、魔法の使い方に関わってくる。生活する場所ごと移動するのだ。
「海だから、こうなるのか」
ページを見返す。
確かめ、調整し、できるだけ長く保つための工夫が、船の上には揃っている。昨日はそれを船員たちが使い、船を進ませた。
「すげえ面白いな」
思わず笑った。
記録する手がまた速くなった。
◯
次の港が見えたのは、日が傾き始めた頃だった。
遠くに建物が並び、その手前へ何本もの帆柱が見える。
「着くぞ」
サイラスが言った。
「もう?」
「もうって、お前ずっと書いてただろ」
「まだ聞きたいことあるんだけど」
「次に船乗ったときに聞け」
「同じ船とは限らない」
「なら別の奴に聞け」
「それも面白いな」
「何でも面白いんだな、お前」
「知らない魔法なら大体」
船が港へ入る。
岸壁へ近づき、縄が投げられる。船員たちが慣れた手つきで船を固定すると、揺れが小さくなり、陸がすぐそこまで来た。
エリアスは旅鞄を背負う。
乗ったときより、旅鞄は新しい記録のぶんだけ重くなっていた。
「世話になった」
エリアスが言うと、サイラスは肩をすくめた。
「こっちの台詞でもある」
「また会ったら聞いていい?」
「酒一杯つけろ」
「それくらいなら」
ベルンも近くへ来た。
「次に船へ乗るときは、勝手に荷物の間をうろつくなよ」
「今回はいいの?」
「もう降りるから言ってる」
「ひどいな」
「あと、嵐の日に笑うな。気味が悪い」
「面白かったから」
「やっぱり変な奴だ」
それでもベルンは笑っていた。
エリアスも笑う。
「じゃあな」
「ああ。今度はもう少し天気のいい日に乗れ」
「その方が酒も飲めそうだ」
「結局それか」
船を降りる。
桟橋へ足をついた瞬間、妙な感覚がした。
地面が動かない。
「……陸ってこんなに静かだったか?」
背後で船員たちが笑った。
エリアスは振り返らず、そのまま歩き出す。
海には、海でしか生まれない魔法があり、船には、船だからこそ必要になる形があった。
なら、次の土地には何がある。
知らない魔法。知らない使い方。
それを見つけて、本にする。売れれば金になるし、名前も広がるかもしれない。うまい飯があれば食べたいし、酒も飲みたい。いい女がいれば、それはそれで嬉しい。
そして何より。
「次はどんな魔法があるかな」
それを考えるだけで、足が自然と前へ出た。
潮の匂いを背中へ残し、エリアスはまた一人、次の土地へ向かった。




