第23話 海が荒れた日
最初に変わったのは、音だった。帆を打つ風の音が低くなり、次の瞬間には甲板の上を唸るように走った。
船体が持ち上がる。
そのまま落ちた。
腹の底へ響く衝撃とともに、舷側へ波が叩きつける。
「前の荷をもう一度見ろ! 緩んだ縄は全部締め直せ!」
ベルンの声が風を裂いた。
船員たちは返事もそこそこに動いている。
サイラスは舵から片手を離し、風見を使った。
すぐに顔をしかめる。
「また回った!」
「どっちだ!」
「西寄り! まだ強くなる!」
「前帆を落とせ! 全部受けるな!」
数人の船員が帆を扱う縄へ飛びついた。
エリアスも帆を見上げる。
白かった布は灰色の空を背負い、今にも千切れそうなほど膨らんでいた。
さっきまで船を進ませていた風が、今は帆ごと船を引き倒そうとしている。
「右だ! 寄せろ!」
サイラスが舵を切る。
船首が波へ斜めに向いた。
直後、横から来た大波が船体を殴った。
甲板が大きく傾く。
エリアスは足を踏ん張った。
樽が一つ、固定縄を軋ませながら横へずれる。
「押さえろ!」
二人が飛びつく。
その頭上で、甲高い音がした。
何かが切れた。
「上!」
誰かが叫んだ。
帆を支えていた索具の一本が弾け、切れた縄が鞭のように甲板を打った。
船員たちが身を伏せる。
帆の片側が大きく暴れ始めた。
「くそっ!」
ベルンが見上げる。
「その帆はもう駄目だ! 切り離せ!」
「船長!」
「残したら帆柱ごと持っていかれる! 切れ!」
男が刃物を抜き、暴れる縄へ近づく。
だが船がまた傾いた。
足場が逃げる。
男は帆柱へしがみついて転倒を免れた。
エリアスは手を上げた。
「風を止めるか?」
ベルンが一瞬だけこちらを見る。
「全部止めるな!」
「どのくらい?」
「この帆の周りだけだ! 十呼吸もあればいい!」
「分かった」
即答した。
魔力を広げる。
風をすべて止める必要はない。暴れる帆に叩きつける流れだけを拾い、勢いを削る。強く抑えすぎれば周囲との風の差で船体へ負荷がかかる。帆の形を見ながら範囲と出力を絞った。
ごうごうと鳴っていた布が、急に力を失った。
「今だ!」
船員が走る。
一人が縄を掴み、もう一人が刃を振るう。
太い縄が切れた。
傷んだ帆が風に持っていかれ、海へ落ちていく。
「終わった!」
「エリアス、戻せ!」
「ああ」
風への干渉を解く。
たったそれだけで、再び嵐の音が甲板を満たした。
だが帆柱は残った。
船もまだ動いている。
エリアスは息を吐く。
もっと長く風を抑えることも、押し返すこともできた。だがベルンが求めたのは、帆を切り離すための十呼吸だけだった。
「潮、見るぞ!」
サイラスの声が飛ぶ。
一人の船員が舷側へ移動し、潮見を使った。
波のせいで海面は乱れている。
それでも魔力を通せば、その下を流れる水の動きが拾える。
「外へ流れてる!」
「どっちだ!」
船員が方向を示す。
サイラスの顔が険しくなった。
「まずいな」
「何が?」
エリアスが聞く。
今度はベルンが答えた。
「このまま流されると浅い場所へ入る」
「浅い?」
「その先に岩場がある」
エリアスは海を見る。
どこにも岩など見えない。
波しかない。
「見えないぞ」
「今はな」
ベルンは岸の方角を睨んだ。
「もう少し流されたら見える。その頃には遅い」
方角留めを確認していたサイラスが叫ぶ。
「船長! 予定よりかなり外へ押されてる!」
「戻せるか!」
「今の帆じゃ足りん!」
損傷した分、船を思うように動かせない。
風も潮も波も、船の足元も動き続けている。エリアスは水面へ視線を落とした。水を動かして潮を押し返すことも、船を丸ごと別方向へ押すこともできる。
だが、どちらへ、どの角度で、どれほどの速さで押すべきか。自分だけでは、それが安全か判断できなかった。
エリアスはベルンを見た。
「何をすればいい?」
ベルンもこちらを見る。
「水を動かせるんだったな」
「できる」
「どのくらいだ?」
「この船を押すくらいなら余裕」
一瞬、ベルンが黙った。
「……余裕なのかよ」
「余裕」
「なら話が早い」
ベルンが海を指した。
「船そのものを勝手に動かすな。潮見で流れを読む。サイラスが船首を決める。それから、俺が言った側への流れだけ弱めろ」
「消す?」
「消すな。急に止めると船が振られる」
「どの程度?」
「半分だ」
「分かった」
そこでベルンは一拍置いた。
「できるか?」
エリアスは笑った。
「それを聞くの、今さらじゃないか?」
「じゃあ頼む!」
船員が再び潮見を使う。
「流れ、変化なし!」
「サイラス!」
「船首、左へ! 波を正面から受けすぎるな!」
「聞いたな、エリアス!」
「ああ!」
エリアスは両手を開いた。
右手で水へ干渉する。
左手では風を読む。
同時に二つ。
さらに水の流れそのものを潰さないよう、危険方向へ船を押している部分だけを削っていく。
力任せに押す方が簡単だ。だが今は船員が選んだ進路を邪魔する力だけを、必要な分だけ減らす。水を止めてはならない。
「これで?」
エリアスが叫ぶ。
サイラスが舵を握ったまま船の反応を見る。
「まだ強い! もう少し!」
出力を上げる。
「今は?」
「そこだ! そのまま!」
エリアスは魔力を固定した。
船体の揺れ方がわずかに変わる。
今まで横へ押し流されていた船が、少しずつ船首の向いた方へ進み始めた。
「戻ってる!」
船員の一人が叫ぶ。
「浮かれるな! まだだ!」
ベルンが怒鳴った。
「予備の帆を出せ! 前は小さく張る! 索具も見ろ!」
生まれたわずかな余裕を使い、船員たちが一斉に動く。
誰かが縄を運ぶ。
誰かが帆柱へ登る。
誰かが積荷を確認する。
誰かが風見を使い、また風向きを叫ぶ。
「風、さらに南へ!」
「サイラス!」
「聞こえてる!」
舵が切られる。
「エリアス、今度は右から来る風を少し削れ!」
「水は?」
「維持だ!」
「両方?」
「できないのか!」
エリアスは思わず笑った。
「できるよ」
水への干渉を維持したまま、風魔法を組む。
二つの術式。
別の対象。
別の出力。
しかも船は常に揺れている。
普通の魔法使いなら、片方だけでも集中を崩すだろう。
エリアスには問題なかった。
風の流れを見極め、船体を横から叩いている部分だけを弱める。
帆に必要な風まで奪わない。
水流も抑えすぎない。
ほんの少しずつ。
船員が使える状態へ整える。
「どうだ!」
「いい! そのまま!」
サイラスの声が返る。
エリアスは魔力を維持する。
風と海の間へ指を差し込み、船員たちが仕事のできるわずかな隙間を作っている。エリアスには、そんな感覚があった。
やがて予備の帆が張られた。
「張れた!」
「船長!」
「サイラス、行けるか!」
サイラスが風見を使う。
次に潮見を確認する。
方角留めへ目をやる。
最後に波を見る。
「行ける!」
「エリアス! 水、少しずつ戻せ!」
「了解」
「急に離すなよ!」
「分かってる」
少しずつ干渉を弱める。
船自身が潮を受ける割合を戻していく。
サイラスがそれに合わせて舵を切る。
帆も調整される。
エリアスが手を離した頃には、船は自力で進路を保っていた。
浅瀬へ押されていた向きから外れている。
「抜けたぞ!」
誰かが叫んだ。
だが歓声は長く続かなかった。
「まだ波は高い! 仕事に戻れ!」
ベルンの一喝で、全員が動き直す。
エリアスも笑いながら息を吐いた。
◯
しばらくして、風はようやく弱まり始めた。
波はまだ高い。
それでも先ほどまでのように、船を叩き潰そうとする勢いではない。
甲板には切れた縄や濡れた帆布が残っている。
予備の帆は張られたまま。
船体の一部も傷んでいるらしく、何人かが確認に回っていた。
怪我人はいる。
転んで腕を打った者。
縄で手の皮を裂いた者。
だが歩けないほどの者はいなかった。
エリアスは舷側へ手を置き、海を見る。
潮見も風見も方角留めも、術式はもう分かる。どれも小さな魔法だし、自分にはもっと強い術が使える。だが今日、船を進ませるには、それだけでは足りなかった。
弱める風と抑える潮、船を向ける方角、帆を切るときと舵を切るとき。答えを出したのは海で働いてきた船員たちで、小さな魔法は彼らの目と手を助けていた。
「……なるほどな」
エリアスは呟いた。
昨日は使い方や術式に夢中になっていた。今日見たのは、その魔法を使う船員たちの仕事だ。風と潮を読み、方角を確かめ、船を壊さず港へ着くために使っていた。
エリアスは濡れた旅鞄から帳面を取り出しかけ、手を止めた。
まだ甲板では船員たちが動いている。
「……あとで聞こう」
今度は、何を聞けばいいかも昨日までとは違っていた。




