第22話 船の上の暮らし
船で過ごす時間にも、エリアスはだいぶ慣れてきていた。
最初のうちは足元が揺れるたびに無意識に踏ん張っていたが、今では多少傾いた程度なら帳面から目を離さずにいられる。
船員たちの方も似たようなものだった。
「それ、何の魔法?」
「またか」
朝から三度目の質問に、サイラスはもう呆れもしなかった。
「今度は何を見つけた」
「あれ」
エリアスが指した先では、一人の船員が舷側から海面を覗き込みながら、片手を水へ向けていた。かすかな魔力が海面近くへ広がっている。
風見とは違う。
風ではなく、水そのものの動きを拾っている。
「潮見だな」
「やっぱりあるのか」
「何がやっぱりなんだよ」
「風を見るなら、潮も見るだろ」
「まあ見るけどな」
サイラスについていくと、船員が魔法を使い終えたところだった。
エリアスはすぐに海を覗き込む。
水面は穏やかに見えるが、波も船も動いている。水が実際にどちらへ流れているか、目で追うだけでは分かりにくい。
「もう一回やってもらっていい?」
「お前、本当に飽きねえな」
「飽きる理由がない」
船員が苦笑しながら、もう一度魔力を流した。
エリアスは術式を追う。
対象は船の周囲だけ。水を押したり引いたりせず、その動きが生むわずかな差を魔力へ拾わせている。
「なるほど」
エリアスも手を伸ばした。
術式を組む。
海面近くへ薄く魔力を広げると、すぐに感触が返ってきた。
一定ではない。
船の進行方向とは少しずれた方向へ、水が流れている。
「こっちか」
エリアスが指すと、サイラスが頷いた。
「今はな」
「今は?」
「潮は変わる」
「どのくらい?」
「場所と時間による」
「じゃあ、これで流れが分かれば航路も――」
「決まらねえ」
言い切られた。
エリアスはサイラスを見る。
「昨日と同じか」
「何が?」
「魔法は答えを出さない」
「そういうもんだ」
サイラスは海を見る。
「流れが分かっても、その流れに乗るか避けるかは別だ。速く進めても、行きたくない方へ持っていかれたら意味がない。岸が近いなら、それも見る」
「岩礁とかは?」
「潮見じゃ分からん」
「浅瀬は?」
「分からん」
「危険な流れかどうかは?」
「俺たちが考える」
「徹底してるな」
「何がだよ」
エリアスは笑った。
これだけ便利な術を使っても、最後に進路を決めるのはサイラスだ。そういう使い方のために、潮見は残ってきたのかもしれない。
エリアスなら、水そのものをもっと大きく動かせる。
船を押す程度の流れを作ることもできる。
だが船乗りたちは、まず海の動きを確かめる。
「面白いな」
「またそれか」
「だって面白いだろ」
「お前くらいだよ、潮見でそんな顔するの」
それは褒め言葉として受け取っておいた。
◯
昼になると、甲板の一角で簡単な食事が配られた。
固いパン。
塩気の強い肉。
干した魚。
温かい汁物。
港の酒場ほど豪勢ではないが、船の上で食べるには悪くない。
エリアスがパンを齧っていると、その近くで船員が木箱を開けた。
中には食料が詰められている。
箱を開いた途端、わずかに冷えた空気が流れ出した。
エリアスの手が止まる。
「あ」
船員も止まった。
「……何だよ」
「それ」
「今、飯食ってんだろ」
「食いながら見られる」
「器用だな」
嫌そうな顔をしながらも、もう追い払われなくなっている。
エリアスはパンを片手に箱を覗き込んだ。
食料を少し冷やして傷みにくくするところは、港の魚箱に似ている。ただし、術式の組み方が少し違った。
「持続の方を優先してる?」
「知らん。そういうふうに教わった」
「魔力の流し方がかなり弱い。その代わり切れにくいな」
「船で何度もかけ直してられねえからな」
別の船員が横から言った。
「荷も食い物も積める量が決まってる。腐らせたら困る」
エリアスは箱の縁へ指を置いた。港の魚市場では、売るまでの短い時間、商品だけを冷やせればよかった。
船では数日持たせなければならず、設備を増やすほど積荷を載せる場所が減る。大きな保存庫を持ち込むわけにもいかない。
「だから箱だけで済ませるのか」
「箱なら積めるだろ」
「それも、なるべく少ない魔力で長く」
「魔力が尽きて仕事できなくなったら馬鹿だからな」
当然のように返される。
エリアスは帳面を引き寄せた。
農村で調べた蔵風も、家ごとに置かれたものや棚の位置に合わせて形が違った。ここではさらに、保管する場所ごと海を移動している。船は揺れ、潮気にさらされ、積める量にも限りがあった。
「……場所が違うだけじゃないな」
「何が?」
船員が魚を齧りながら聞いてきた。
「いや、こっちの話」
「また研究か」
「仕事だから」
「お前、金もらってんのか?」
「まだもらってない」
「じゃあ仕事じゃねえだろ」
「本にすれば金になる」
「結局金かよ」
「大事だろ」
「そこは妙に普通なんだな」
笑われた。
エリアスも笑い返し、続きを書く。
船の保存魔法。狭い範囲で低出力、長時間。重い設備を要さず、揺れる船でも使える。
ただ「保存する魔法」とだけ書くのでは足りない。
どうしてこの形なのか。
そこまで分かって初めて面白い。
◯
午後、エリアスは甲板の端で網を見ていた。
輸送船だから本格的な漁をするわけではない。
それでも航海中に使う簡単な釣り具や網は積まれているらしい。
船員が網を畳みながら、湿気を飛ばすために弱い風を通している。
「それも港で見た」
「ああ?」
「縄を乾かすやつ」
「似たようなもんだ」
「でも弱いな」
「強く吹かせたら網が絡むだろ」
「なるほど」
「分かったなら引っ張るなよ」
すでに触ろうとしていた手を止めた。
「まだ何もしてない」
「顔で分かる」
「船乗り、勘がいいな」
「お前が分かりやすいんだ」
船員たちとのやり取りにも、ずいぶん遠慮がなくなっていた。
エリアスは網から手を離し、甲板全体を見る。
縄、積荷、食料、水。それぞれ陸でも扱うが、揺れる船に積んで運べば、置き方も手入れも変わってくる。帆と舵が加われば、仕事場そのものが動き出す。
同じ仕事でも場所によって魔法は変わる。船では、足元そのものが移動する。風が変われば進み方が変わり、潮が変われば流され方も変わる。昨日見ていた岸はもう、船の後ろへ遠ざかっていた。
「船って、でかい家みたいなもんか」
近くにいたサイラスが顔をしかめた。
「家?」
「暮らしてるだろ。飯食って、寝て、道具置いて、仕事して」
「まあな」
「でも家ごと動いてる」
「船だからな」
「それが変なんだよ」
「俺にはお前の方が変だ」
もっともだった。
エリアスは笑いながら帳面へ書き足した。
仕事、場所、使える道具、持ち運べる量、動く環境。同じ魔法でも条件が変われば、使いやすい形は変わる。職業だけを書いても、この船のことは説明できない。
その仕事を、どこで、どう暮らしながらやっているのか。
そこまで見なければ分からない。
書いている途中で、エリアスは顔を上げた。
風が少し冷たい。
さっきまでとは違う方向から吹いているように感じる。
空を見る。
遠くに雲が増えていた。
「雨でも降るのか?」
誰に聞くでもなく呟いた。
その直後だった。
「サイラス!」
ベルンの声が飛んだ。
今までとは明らかに違う声だった。
サイラスがすぐ舵の方へ戻る。
「風、変わったな」
「ああ。早い」
「どっちへ寄せる?」
「岸から少し離す。今のうちに回せ」
「了解」
エリアスは帳面を閉じた。
甲板の空気が変わっていた。
船員たちが一斉に動き始める。
「帆、少し落とせ!」
「前の荷、縛り直せ!」
「そこの縄もだ! 緩んでるぞ!」
命令が飛び交う。
さっきまで笑っていた男たちが、迷わず持ち場へ走る。
帆が調整される。
積荷を固定する縄が一本ずつ確認される。
船体が波を越えるたび、甲板の傾きが少し大きくなった。
エリアスも海を見る。
波が高くなり、風も強くなっている。ただエリアスには、まだ天気が崩れ始めたようにしか見えなかった。
「そんなにまずいのか?」
近くを通ったベルンへ聞く。
ベルンは立ち止まらなかった。
「まだまずくはない」
「まだ?」
「だから今やるんだ」
短い返事だった。
エリアスはもう一度、海を見る。
船員たちは違う。風見を使う者、潮見を確かめる者がいて、帆や波、岸との距離まで見ている。それぞれが確かめたことを、ベルンの指示につないでいた。
エリアスは帳面を旅鞄へしまった。
今は書いている場合ではなかった。風がまた強くなった。
帆が大きく鳴る。
船体が傾き、海水が舷側へ叩きつけられた。
遠くの空は、さっきよりずっと暗い。
それまで面白がって眺めていた小さな魔法を、船員たちは今も同じように使っている。
けれど、その顔から笑いは消えていた。
エリアスもようやく理解する。
海が悪くなっている。
しかも、自分が思っていたより早く。




