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大賢者の弟子は、忘れられた魔法を拾いに行く  作者: Atelier Lotus文庫
第五章 海の魔法

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第21話 風を読む船

 港へ着く頃には、眠気はだいぶ引いていた。身体の重さまでは消えていない。


 昨夜のことを思い出せば、その理由もよく分かっている。


「……まあ、楽しかったしな」


 誰に聞かせるでもなく呟いて、エリアスは船着き場を見渡した。


 昨日より早い時間だというのに、港はもう騒がしい。


 荷を積む男たちの声、板張りの桟橋を転がる樽の音。船員が帆を畳み直し、波が岸壁へ打ちつける。その向こうに、今日乗る船が浮かんでいた。


 大きすぎもしない、小さすぎもしない輸送船だった。


 一本の太い帆柱を中心に帆を張り、甲板の中央から後方へかけて荷箱や樽が固定されている。


 人より荷物を運ぶための船だ。


「乗るならそっちからだ」


 声をかけてきたのは、日に焼けた男だった。


 年は四十を少し越えたくらいだろう。太い腕に、潮風で傷んだ上着。エリアスの旅鞄を一度見ただけで、荷物の置き場所を指した。


「昨日、金を払った旅人か?」


「エリアス」


「ベルンだ。この船の船長をやってる」


 ベルンはそれだけ言うと、すぐ船員へ顔を向けた。


「そっちの樽、もう一本奥だ。揺れたら動くぞ」


「分かってる!」


「分かってる奴は最初から縛る!」


 怒鳴り返しながら、自分でも縄を引く。


 エリアスは少し笑った。


 偉そうに立って指示だけする船長ではないらしい。


 言われた場所へ旅鞄を置き、邪魔にならないよう甲板の端へ移動する。


 やがて船を岸へつないでいた縄が外された。


 帆が上がる。


 風を受けて白い布が膨らんだ。


 船体がゆっくり岸から離れていく。


 足元が動く感覚に、エリアスは思わず下を見た。


「変な感じだな」


 街が離れていく。


 自分は立っているのに、地面の方が動いているように感じた。港の建物が少しずつ小さくなり、その先に海が広がっていく。


 視界を遮るものがなく、どこを見ても水だった。


 昨夜の眠気は、その景色を眺めているうちにほとんど消えた。


 そして完全に消えたのは、船員の一人が手を上げたときだった。


 小さな魔力の流れ。


 エリアスの目がそちらへ向く。


 男は指先を立て、何かを確かめるように少し待ってから、帆を見上げた。


「今の何?」


 反射的に声をかける。


 男が振り返った。


「何って?」


「魔法」


「ああ、風見か」


 その返事だけで、エリアスはもう男のそばまで来ていた。


「もう一回やって」


「何だお前」


「見たい」


「さっき見てただろ」


「術式の流れをちゃんと」


 男はしばらくエリアスを見ていたが、やがて肩をすくめた。


「変なの乗せたな、船長」


「昨日からそういう奴らしい」


 ベルンが離れたところから答える。


「仕事の邪魔だけはするなよ」


「しない」


「なら好きにしろ」


 あっさり許可が出た。


 男はサイラスと名乗った。


 舵を扱い、航路を見る役目を任されているらしい。


「もう一回やるぞ」


「頼む」


 サイラスが指を上げる。


 魔力が薄く広がった。


 狭い範囲へ魔力を広げ、空気を動かす代わりに、流れる風の変化を拾いやすくしている。術式は単純だった。


 エリアスは一度見ただけで、大まかな構造を掴んだ。


「こうか?」


 同じように指を立てる。


 魔力を流す。


 空気の流れが、わずかな抵抗として指先へ伝わってきた。


「……ああ」


 サイラスが少し眉を上げた。


「一発で使えるのか」


「難しくないからな」


「そうかよ」


 エリアスは構わず風を読む。


 右から左。


 いや、少し後ろからも来ている。


 強さも一定ではない。


「こっちから吹いてるな」


 エリアスが指した。


 サイラスは帆を見た。


「それだけか?」


「それだけって?」


「じゃあ、この帆はどうする?」


 今度はエリアスが黙る。


 帆は風を受けて膨らんでいる。


 それは分かる。


 ただし、拾った風が帆にどれだけ効いているのかは分からない。船が進むことで感じる風と、元から吹いている風の違いも読みきれなかった。


 サイラスが笑った。


「風がどっちから来るか分かっても、それだけじゃ船は動かせねえよ」


「なるほど」


 エリアスには嫌味ではなく、面白い問いに聞こえた。


 エリアスはもう一度、風見を使う。


 今度は帆を見る。


 さらに波を見る。


 船首の向き。


 遠ざかる岸。


 サイラスが見ていたものを真似して追ってみる。


「船が動いてるから、感じる風も変わるのか」


「そういうことだ」


「帆に当たってる風も同じじゃない」


「全部同じなら楽なんだけどな」


 サイラスは舵へ手をかけた。


「風だけ見てりゃいい日なんてねえよ。波も見る。岸も見る。帆も見る。それで今の向きがいいか考える」


「風見は答えを出す魔法じゃないんだな」


「そんな魔法があるなら俺が欲しい」


 即答だった。


 エリアスは笑った。


 昨日の漁師が網の張りを確かめたときと同じだ。風見で得た感触を、船を操る人間が帆や波と合わせて判断する。


     ◯


 昼を過ぎる頃には、岸はずいぶん遠くなっていた。


 完全に見えなくなるわけではない。


 沿岸を進む船らしく、陸地を右手に見ながら進んでいる。


 サイラスは時折、海と岸を交互に見ていた。


 その途中で、今度は別の魔力が流れた。


「また何か使った」


「よく見てんな、お前」


「何?」


「方角留め」


 エリアスはすぐ近づいた。


「名前そのまま?」


「名前なんてそんなもんだろ」


 サイラスが呆れたように言う。


 彼が示した先には、小さな金具が船体へ取り付けられていた。


 そこへ薄く魔力が残っている。


「これが方角を教える?」


「教えねえよ」


「じゃあ何するんだ?」


「こっちだと決めた向きを忘れにくくする」


 サイラスは手を伸ばし、船首の向きを確かめる。


「岸の形と日を見て、まず進む向きを決める。それをこいつに留める。少し船が振られても、どっちへ戻せばいいか分かりやすい」


「目的地は?」


「自分で決める」


「最短の航路は?」


「自分で考える」


「危険な場所は?」


「自分で避ける」


「……便利そうで、何もしてくれないな」


「だから便利なんだよ」


 意外な答えだった。


 エリアスが顔を上げる。


 サイラスは海を見たまま続けた。


「海なんて毎回同じじゃねえ。風も変わるし、潮も変わる。昨日通れたところを今日も同じように通れるとは限らねえ。勝手に答えを決められる方が困る」


「なるほど」


 エリアスは金具へ残る術式を見る。


 これも難しくない。


 一度定めた方向感覚を、魔力によって薄く保持する。


 強力な術ではない。エリアスなら風を起こして帆に当てることも、水を動かして船を押すこともできる。


 だが、それを思った瞬間、ベルンの声が飛んできた。


「サイラス、少し帆を緩めろ!」


「あいよ!」


 船員たちが動く。


 帆の張りが変わった。


 船の揺れ方もわずかに変わる。


 エリアスは首を傾げた。


「風、弱くなってないぞ」


「だから緩めたんだ」


 ベルンが近くを通りながら答えた。


「この先、少し風が回る。今のまま受けたら船が振られる」


「強い方が速いんじゃないのか?」


「速けりゃ何でもいいなら、帆を限界まで張りっぱなしにするさ」


 ベルンは帆柱を軽く叩いた。


「それで折れたら終わりだがな」


 エリアスは上を見る。


 帆は帆柱と縄で船体へつながっている。そこへただ強い風を当てれば、速くなる前に船を傷める。


 必要なのは力ではない。


 今の船に、今の海で、どれだけの風を受けさせるか。


 それを決めるために、船員たちは小さな魔法で風を読み、岸を見て、波を見ている。


「面白いな」


 また口から出た。


 ベルンが鼻で笑う。


「まだ風しか見てねえだろ」


「他にもあるのか?」


「あるに決まってる」


 その一言で、エリアスの目が輝いた。


「何?」


「自分で探せ」


「教えてくれてもいいだろ」


「暇じゃねえんだよ」


 ベルンは笑いながら離れていった。


 エリアスは海を見る。


 青い水面、絶えず変わる風、揺れ続ける足元。陸では気にせずに済んだものばかりだった。


 船には船の魔法がある。


 昨日まで予感だったものが、はっきりした形になり始めていた。


 エリアスは旅鞄から帳面を取り出した。


 風だけでこれなら、潮を読むときや魚を捕るときはどうするのだろう。食料や、濡れ続ける道具はどう扱うのか。帳面に書きたいことが次々浮かんだ。


 昨夜の寝不足など、もう完全に忘れていた。



 

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