第21話 風を読む船
港へ着く頃には、眠気はだいぶ引いていた。身体の重さまでは消えていない。
昨夜のことを思い出せば、その理由もよく分かっている。
「……まあ、楽しかったしな」
誰に聞かせるでもなく呟いて、エリアスは船着き場を見渡した。
昨日より早い時間だというのに、港はもう騒がしい。
荷を積む男たちの声、板張りの桟橋を転がる樽の音。船員が帆を畳み直し、波が岸壁へ打ちつける。その向こうに、今日乗る船が浮かんでいた。
大きすぎもしない、小さすぎもしない輸送船だった。
一本の太い帆柱を中心に帆を張り、甲板の中央から後方へかけて荷箱や樽が固定されている。
人より荷物を運ぶための船だ。
「乗るならそっちからだ」
声をかけてきたのは、日に焼けた男だった。
年は四十を少し越えたくらいだろう。太い腕に、潮風で傷んだ上着。エリアスの旅鞄を一度見ただけで、荷物の置き場所を指した。
「昨日、金を払った旅人か?」
「エリアス」
「ベルンだ。この船の船長をやってる」
ベルンはそれだけ言うと、すぐ船員へ顔を向けた。
「そっちの樽、もう一本奥だ。揺れたら動くぞ」
「分かってる!」
「分かってる奴は最初から縛る!」
怒鳴り返しながら、自分でも縄を引く。
エリアスは少し笑った。
偉そうに立って指示だけする船長ではないらしい。
言われた場所へ旅鞄を置き、邪魔にならないよう甲板の端へ移動する。
やがて船を岸へつないでいた縄が外された。
帆が上がる。
風を受けて白い布が膨らんだ。
船体がゆっくり岸から離れていく。
足元が動く感覚に、エリアスは思わず下を見た。
「変な感じだな」
街が離れていく。
自分は立っているのに、地面の方が動いているように感じた。港の建物が少しずつ小さくなり、その先に海が広がっていく。
視界を遮るものがなく、どこを見ても水だった。
昨夜の眠気は、その景色を眺めているうちにほとんど消えた。
そして完全に消えたのは、船員の一人が手を上げたときだった。
小さな魔力の流れ。
エリアスの目がそちらへ向く。
男は指先を立て、何かを確かめるように少し待ってから、帆を見上げた。
「今の何?」
反射的に声をかける。
男が振り返った。
「何って?」
「魔法」
「ああ、風見か」
その返事だけで、エリアスはもう男のそばまで来ていた。
「もう一回やって」
「何だお前」
「見たい」
「さっき見てただろ」
「術式の流れをちゃんと」
男はしばらくエリアスを見ていたが、やがて肩をすくめた。
「変なの乗せたな、船長」
「昨日からそういう奴らしい」
ベルンが離れたところから答える。
「仕事の邪魔だけはするなよ」
「しない」
「なら好きにしろ」
あっさり許可が出た。
男はサイラスと名乗った。
舵を扱い、航路を見る役目を任されているらしい。
「もう一回やるぞ」
「頼む」
サイラスが指を上げる。
魔力が薄く広がった。
狭い範囲へ魔力を広げ、空気を動かす代わりに、流れる風の変化を拾いやすくしている。術式は単純だった。
エリアスは一度見ただけで、大まかな構造を掴んだ。
「こうか?」
同じように指を立てる。
魔力を流す。
空気の流れが、わずかな抵抗として指先へ伝わってきた。
「……ああ」
サイラスが少し眉を上げた。
「一発で使えるのか」
「難しくないからな」
「そうかよ」
エリアスは構わず風を読む。
右から左。
いや、少し後ろからも来ている。
強さも一定ではない。
「こっちから吹いてるな」
エリアスが指した。
サイラスは帆を見た。
「それだけか?」
「それだけって?」
「じゃあ、この帆はどうする?」
今度はエリアスが黙る。
帆は風を受けて膨らんでいる。
それは分かる。
ただし、拾った風が帆にどれだけ効いているのかは分からない。船が進むことで感じる風と、元から吹いている風の違いも読みきれなかった。
サイラスが笑った。
「風がどっちから来るか分かっても、それだけじゃ船は動かせねえよ」
「なるほど」
エリアスには嫌味ではなく、面白い問いに聞こえた。
エリアスはもう一度、風見を使う。
今度は帆を見る。
さらに波を見る。
船首の向き。
遠ざかる岸。
サイラスが見ていたものを真似して追ってみる。
「船が動いてるから、感じる風も変わるのか」
「そういうことだ」
「帆に当たってる風も同じじゃない」
「全部同じなら楽なんだけどな」
サイラスは舵へ手をかけた。
「風だけ見てりゃいい日なんてねえよ。波も見る。岸も見る。帆も見る。それで今の向きがいいか考える」
「風見は答えを出す魔法じゃないんだな」
「そんな魔法があるなら俺が欲しい」
即答だった。
エリアスは笑った。
昨日の漁師が網の張りを確かめたときと同じだ。風見で得た感触を、船を操る人間が帆や波と合わせて判断する。
◯
昼を過ぎる頃には、岸はずいぶん遠くなっていた。
完全に見えなくなるわけではない。
沿岸を進む船らしく、陸地を右手に見ながら進んでいる。
サイラスは時折、海と岸を交互に見ていた。
その途中で、今度は別の魔力が流れた。
「また何か使った」
「よく見てんな、お前」
「何?」
「方角留め」
エリアスはすぐ近づいた。
「名前そのまま?」
「名前なんてそんなもんだろ」
サイラスが呆れたように言う。
彼が示した先には、小さな金具が船体へ取り付けられていた。
そこへ薄く魔力が残っている。
「これが方角を教える?」
「教えねえよ」
「じゃあ何するんだ?」
「こっちだと決めた向きを忘れにくくする」
サイラスは手を伸ばし、船首の向きを確かめる。
「岸の形と日を見て、まず進む向きを決める。それをこいつに留める。少し船が振られても、どっちへ戻せばいいか分かりやすい」
「目的地は?」
「自分で決める」
「最短の航路は?」
「自分で考える」
「危険な場所は?」
「自分で避ける」
「……便利そうで、何もしてくれないな」
「だから便利なんだよ」
意外な答えだった。
エリアスが顔を上げる。
サイラスは海を見たまま続けた。
「海なんて毎回同じじゃねえ。風も変わるし、潮も変わる。昨日通れたところを今日も同じように通れるとは限らねえ。勝手に答えを決められる方が困る」
「なるほど」
エリアスは金具へ残る術式を見る。
これも難しくない。
一度定めた方向感覚を、魔力によって薄く保持する。
強力な術ではない。エリアスなら風を起こして帆に当てることも、水を動かして船を押すこともできる。
だが、それを思った瞬間、ベルンの声が飛んできた。
「サイラス、少し帆を緩めろ!」
「あいよ!」
船員たちが動く。
帆の張りが変わった。
船の揺れ方もわずかに変わる。
エリアスは首を傾げた。
「風、弱くなってないぞ」
「だから緩めたんだ」
ベルンが近くを通りながら答えた。
「この先、少し風が回る。今のまま受けたら船が振られる」
「強い方が速いんじゃないのか?」
「速けりゃ何でもいいなら、帆を限界まで張りっぱなしにするさ」
ベルンは帆柱を軽く叩いた。
「それで折れたら終わりだがな」
エリアスは上を見る。
帆は帆柱と縄で船体へつながっている。そこへただ強い風を当てれば、速くなる前に船を傷める。
必要なのは力ではない。
今の船に、今の海で、どれだけの風を受けさせるか。
それを決めるために、船員たちは小さな魔法で風を読み、岸を見て、波を見ている。
「面白いな」
また口から出た。
ベルンが鼻で笑う。
「まだ風しか見てねえだろ」
「他にもあるのか?」
「あるに決まってる」
その一言で、エリアスの目が輝いた。
「何?」
「自分で探せ」
「教えてくれてもいいだろ」
「暇じゃねえんだよ」
ベルンは笑いながら離れていった。
エリアスは海を見る。
青い水面、絶えず変わる風、揺れ続ける足元。陸では気にせずに済んだものばかりだった。
船には船の魔法がある。
昨日まで予感だったものが、はっきりした形になり始めていた。
エリアスは旅鞄から帳面を取り出した。
風だけでこれなら、潮を読むときや魚を捕るときはどうするのだろう。食料や、濡れ続ける道具はどう扱うのか。帳面に書きたいことが次々浮かんだ。
昨夜の寝不足など、もう完全に忘れていた。




