第20話 潮風の町
海が見えたのは、街道がゆるやかに下り始めた頃だった。
丘の向こうに、空とは違う青が広がっている。陽を返して細かく光るその向こうへ、白い帆がいくつも浮かんでいた。
エリアスは足を止めた。
「でかいな」
海そのものを見るのが初めてというわけではない。だが、旅の途中でこうして港町へ入るのは初めてだった。
坂を下るほど、潮の匂いが強くなる。やがて風に混じって、魚を焼く匂い、濡れた木材、縄、荷を運ぶ獣の臭いまで漂ってきた。
町へ入ると、荷車が行き交い、魚籠を抱えた男たちの声が飛んできた。岸壁では船から樽が下ろされ、その隣では網を広げた漁師が破れを確かめている。
旅鞄の重みを肩で直しながら、エリアスは港の奥を見渡した。
食い物もうまそうだ。
酒場も多い。
女も――まあ、それは夜に確認すればいい。
それより先に、目についたものがあった。
魚市場の一角で、男が木箱へ手を当てている。箱の内側から、ほんのわずかに魔力が流れた。
エリアスは足を止めた。
冷気が流れている。氷を作るほど強くはなく、箱の中だけを外気より少し低い温度に保っていた。
「……へえ」
男が顔を上げた。
「何だ?」
「今の魔法、魚を冷やしてるのか?」
「そうだけど」
男は、なぜそんなことを聞くのか分からないという顔をした。
「凍らせないんだな」
「凍らせたら駄目だろ。売り物だぞ」
当然のように返され、エリアスは笑った。
そういうことだ。
強く冷やせるかどうかではない。魚を傷めず、売るまで持たせるのに必要なだけ冷やす。そのために出力も範囲も絞っている。
「ちょっと見てもいい?」
「何を?」
「魔法」
「もう見ただろ」
「中身を」
男の顔がさらに怪しくなった。
「研究してるんだ。邪魔はしない」
「変な兄ちゃんだな」
「よく言われる」
しばらく箱のそばで魔力の流れを見せてもらう。
術式は難しくない。火魔法で温度に干渉する範囲と出力を絞り、魚は凍らせずに箱の中を冷やし続ける。似た発想の魔法なら知っているが、ここでは市場に並べる魚を、売れるまで傷めずに置くために使っていた。
紙を取り出そうとしたところで、別の魔力に気づいた。
今度は風だ。
岸壁の近くで、若い男が濡れた縄を束ねながら指先を動かしている。縄の間を細い風が抜け、水気を飛ばしていた。
さらに少し先では、網を繕っていた漁師が、張った網の端へ魔力を流している。
エリアスはそちらへ歩いた。
「それ、何してる?」
「ん?」
「網に魔法流しただろ」
「ああ。張りを見るだけだ」
漁師が網を軽く引く。
その振動が、魔力に乗って手元へ返ってきていた。
「破れてる場所が分かる?」
「慣れてりゃな」
「魔法が教えてくれるんじゃなくて?」
「そんな便利なもんじゃねえよ」
漁師は笑った。
「変な引っ掛かりがあれば分かりやすくなる。それが破れか、絡みか、ただの癖かは自分で見る」
エリアスの口元が上がった。
また、魔法の先に使い手の判断がある。冒険者の足跡拾いや草鳴らしを思い出したが、この網の術は潮気の中で道具を扱い、魚を捕る仕事から生まれている。
「港って面白いな」
「そうか?」
漁師は本気で分かっていなさそうだった。
その反応まで含めて、エリアスには面白かった。
◯
次に向かう土地へは、街道を回ればかなり日数がかかるらしい。
宿を探すついでに聞いて回ると、沿岸を進む輸送船が旅人も乗せていると教えられた。
船着き場で話をつけると、出港は翌朝。
「ちょうどいいな」
船なら歩くより早い。それに、港だけでこれだけ知らない魔法があるのだ。風や潮、帆や積荷を扱う船の上には、どんな術があるのだろう。
乗船料を払い、出港時刻を確認したところで、エリアスはようやく腹が減っていたことを思い出した。
港近くの酒場へ入る。
焼いた白身魚に香草を散らした皿。貝を煮込んだ濃いスープ。固めのパン。それに、少し辛口の酒。
「うまい」
魚は身が柔らかく、焼いた表面だけ香ばしい。スープには貝の味が強く出ていて、パンを浸すと酒が進んだ。
研究用の帳面を開きかけて、やめる。
今は食う。
魔法はあとでも書ける。
酒を重ねる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
店の窓から港町の灯りが見える。
昼とは違う賑わいが通りへ出ていた。
酒場。音楽。笑い声。
そして少し先には、明らかにそれと分かる歓楽街の灯り。
エリアスは杯を空にした。
明日の船は朝だから、早く寝た方がいい。そう思いながらも、視線はもう歓楽街へ向いていた。
「……まあ」
「せっかく来たしな」
誰に言い訳するでもなく、席を立った。
◯
店を選ぶまでには、それほど時間はかからなかった。
呼び込みに捕まったわけではない。何軒か眺め、雰囲気と値段を見て、自分で入った。
案内された部屋で待っていると、やがて女が入ってきた。
年はエリアスよりいくらか上だろう。派手すぎない化粧に、身体の線をきれいに見せる服。胸元は少し開いているが、露骨というほどではない。
それでも、どこへ目が行くかまで計算されているような気がした。
「旅の人?」
「分かる?」
「荷物の跡が肩に残ってる」
いきなりそこを見るのか。
エリアスは少し笑った。
「魔法使い」
「へえ。すごい人?」
「かなり」
「自分で言うんだ」
「本当だからな」
いつもの調子で返す。
「名前は?」
「エリアス」
「私はサロメ」
サロメも笑った。
その反応が悪くない。
エリアスは自然と、いつものように相手を口説く側へ回ろうとした。
「そっちこそ――」
言いかけたところで、サロメが隣へ腰を下ろした。
近い。
膝が触れそうなくらいなのに、強引さを感じない。
「まず飲む?」
差し出された小さな杯を受け取る。
「飲ませて酔わせる気?」
「酔わせなくても楽しませられるわよ」
「自信あるな」
「お仕事だから」
さらりと言って、サロメの指が肩へ触れた。旅鞄で固くなったところを探すように、ゆっくり押される。
「ここ、凝ってる」
「歩いてるからな」
「じゃあ今日は休まないと」
耳に近いところで言われた。
吐息がかすかに触れる。
それだけで、さっきまでの軽口が一瞬遅れた。
サロメは急がない。
肩をほぐしながら、旅の話を聞く。エリアスが答えれば笑い、少しだけ身を寄せ、また離れる。
こちらが追えば、その分だけ先へ逃げる。
逃げたと思えば、今度は向こうから近づいてくる。
気づけば、会話の間まで相手に握られていた。
「……なるほど」
「何が?」
「いや。さすがだと思って」
「まだ何もしてないけど?」
サロメが笑う。
近い。
今度は、さっきよりもずっと近かった。
「そういうところが」
「褒めてくれてる?」
「たぶん」
「じゃあ、お礼しないとね」
頬へ指が触れた。
顎へ滑り、ほんの少し上を向かされる。
酒とは違う甘い香りが近づいた。
唇が重なる。
一度、短く。
触れただけで離れた。
エリアスが目を開けると、サロメはすぐ目の前で笑っていた。
「……それだけ?」
「もっと欲しいの?」
「聞く必要ある?」
「ないかも」
もう一度、唇が重なった。
今度は長い。
離れたと思えば、息を整える前にまた触れる。
唇には湿った感触が残り、サロメの吐息も近いままだった。
エリアスが何か言おうとした瞬間、また口を塞がれる。
「……っ」
ようやく離れたとき、サロメは楽しそうにこちらを見ていた。
「静かになった」
「喋らせてないだろ」
「嫌だった?」
「まさか」
「よかった」
答えを聞いてから、また距離を詰めてくる。
それが妙に上手かった。
こちらが何を望んでいるか、確かめてから次へ進む。
だから強引ではない。
なのに、主導権はこちらへ戻ってこない。
サロメの腕が首へ回った。
引き寄せられ、身体が触れ合う。
服越しに柔らかな胸の感触が押し当てられ、エリアスの視線が反射的に下がった。
それを見逃してもらえるはずもない。
「見るんだ?」
「そりゃ見るだろ」
「正直ね」
「隠してもしょうがない」
サロメは笑いながら、さらに身体を寄せた。
胸元の布が少しだけずれる。
見えるものが増えたというより、見せられている。
そう気づいた頃には、また唇を奪われていた。
軽いキス。
少し長いキス。
吐息が混じるほど近づき、離れてもすぐに戻ってくる。
唇に残った湿り気を拭う暇さえ与えられない。
耳元へ顔を寄せられれば、今度はそこへ熱い息が触れる。
肩へ回っていた手が背中を撫で、また首筋へ戻る。
触れ方はどれも軽い。
それなのに、次にどこへ触れられるのかを待ってしまう。
エリアスはようやく理解した。自分が口説いているつもりだった。
違う。
最初から、全部向こうの流れだ。
目を合わせるところから。
笑うところから。
少し焦らすところまで。
「……完全に遊ばれてるな、俺」
「今さら?」
「もう少し早く気づいたかった」
「気づいても来たでしょ?」
否定できない。
「まあな」
サロメが笑う。
そのまま、もう一度唇を重ねてきた。
今度はエリアスからも腕を回した。
細い腰を抱けば、サロメは拒まない。
むしろ満足そうに身体を預けてくる。
抱き寄せる。
柔らかな身体が密着し、胸の感触がさっきよりはっきり伝わった。
エリアスの息が少し乱れる。
その変化さえ、相手には分かっているらしい。
「かわいいところあるのね」
「それは初めて言われた」
「じゃあ覚えて帰って」
「覚える余裕が残ればな」
「大丈夫。朝には返してあげる」
「何を?」
「余裕」
耳元で囁かれ、エリアスは笑った。
笑ったはずなのに、次のキスでまた言葉を奪われる。
なるほど。
本職というのは、こういうことか。
勝とうとするものでもない。
抵抗する理由もない。
金を払っている。
向こうは楽しませることを仕事にしている。
なら、今日は素直に任せた方がいい。
サロメが立ち上がり、エリアスの手を取った。
少し離れた場所にある寝台へ導かれる。
途中で振り向き、また唇を重ねられた。
服の襟元へ細い指がかかる。
すぐには外さない。
ただ、そこに指を置いたまま、エリアスの目を見る。
確認する視線だった。
エリアスはその手を止めなかった。
サロメの笑みが少し深くなる。
次の瞬間には、身体ごと寝台へ引き込まれていた。
甘い香り。
近い吐息。
何度も重なる唇。
乱れていく服。
柔らかな身体の感触。
どこまで自分が追って、どこから相手に追わされているのか、もう分からなかった。
そこから先は、完全に相手の時間だった。
◯
翌朝。
エリアスは目を覚まして、しばらく天井を見た。
身体が重い。
酒だけのせいではない。
「……遊びすぎたな」
声に出してから、少し笑う。
後悔はない。普段なら自分が相手の反応を見て口説くのに、昨夜は最初から最後までサロメの手の上だった。金を払っただけのことはある。かなりよかった。
窓の外を見る。
朝の港はもう動いていた。
船に乗るのだった。エリアスは寝台から起き上がる。まだ眠くて身体も重いが、昨日港で見つけた魔法を思い出すと、頭は少しずつ冴えてきた。
港だけであれだけあった。
船の上なら、もっとあるかもしれない。
顔を洗い、旅鞄を背負う。
潮の匂いがする朝の通りを、船着き場へ向かう。
昨夜の余韻を身体に残したまま、海の上ではどんな魔法が使われているのかと考える。それだけで、眠気が引いていった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
エリアスとサロメがこの夜、「そこから先」にどんな時間を過ごしていたのか。
本編では描写を省いた成人向け部分を、ノクターンノベルズにて別作品として掲載しています。
『大賢者の弟子は、旅先の夜を拾っていく』
第3夜「遊ばれる夜」
18歳以上で、サロメに完全に主導権を握られたエリアスの夜の続きが気になる方は、そちらもお楽しみください。
なお、成人向け部分を読まなくても、本編の物語には問題なく続けていただけます。




