第19話 またどこかで
その夜の酒は、予想どおり美味かった。
「だから、あそこで俺が言っただろ。まだ撃つなって」
「聞いてたよ」
「聞いてた顔じゃなかった」
ガレスが杯を置きながら睨む。
「今にも撃ちそうな顔してたぞ」
「でも撃たなかっただろ」
「そこは褒めてやる」
「偉い」
「自分で言うな」
テーブルの向こうで、イネスが笑った。酒場には仕事を終えた冒険者たちの声が飛び交っている。
肉の焼ける匂いと酒の匂い、笑い声に椅子を引く音。ついさっきまで危険区域を歩いていたのが、遠いことのようだった。
「それより、あの魔法よ」
イネスがエリアスを指さした。
「三つ一緒に使って、そのあと普通に別の魔法撃ってたでしょ」
「普通ではないと思うぞ」
ガレスが言う。
「俺もそう思う」
別の冒険者も頷いた。
「大賢者の弟子って、みんなああなのか?」
「みんなって、俺以外知らないけど」
「参考にならねえな」
「師匠ならもっとすごいよ」
一瞬、全員が黙った。
「……もういい」
ガレスが酒を飲む。
「比べる相手を間違えた」
エリアスも杯を傾けた。
喉を通る酒が気持ちいい。大型魔物を倒したのも悪くないが、仕事を終えて皆で飲めるのがよかった。全員が無事で荷物も届き、報酬は明日出る。飲む理由なら十分すぎる。
「でも本当に助かったわよ」
イネスが言う。
「あなたがいなかったら、あれを倒すんじゃなくて、隊商を逃がすことだけ考えてたでしょうね」
「それでも仕事は成功?」
「全員生きて荷物を通せれば成功」
「魔物を倒さなくても?」
「討伐依頼じゃないもの」
「やっぱりそこなんだな」
エリアスは頷いた。
冒険者たちは最初から、魔物を倒せるかより、頼まれた仕事を果たせるかで動いていた。
「何よ。また何か考えてる?」
「魔法のこと」
「でしょうね」
「足跡拾いも、火守りも、草鳴らしもさ」
エリアスは指を折る。
「別に強い魔法じゃない」
「失礼ね」
「褒めてる」
「そう聞こえないけど?」
「でも残ってる。今も使われてる」
足跡を追い、夜を越し、周囲を見張って危険を避ける。戦う前にも、生きて帰るための仕事はいくつもある。そのために魔法は削られ、足され、使いやすい形で残ってきたのだろう。
家や畑、家畜のそばで使う農村の魔法とは、道の上で必要になることが違った。
「仕事の中で形が決まってるんだな」
エリアスが呟く。
「また難しい顔してる」
「面白い顔」
「そんな顔ある?」
「今してる」
イネスが笑った。
エリアスも笑う。
今すぐ紙を取り出したかったが、酒場の真ん中で始めれば怒られそうだった。今日は飲もう。記録は明日でも逃げない。
◯
夜が深くなるにつれて、一人、また一人と席を立った。
「俺は寝る」
ガレスも立ち上がる。
「明日の手続き忘れるなよ」
「分かってる」
「お前に言ってるんだ、エリアス」
「なんで俺だけ?」
「金の話は忘れないだろうけどな」
「絶対忘れない」
「だろうな」
ガレスは呆れながら酒場を出ていった。
気づけば、テーブルに残っているのはエリアスとイネスだけになっていた。
酒はまだ少し残っている。二人とも飲んでいたが、話す声も目つきもはっきりしていた。
「みんな帰ったわね」
「帰ったな」
「あなたは?」
「まだ飲める」
「私も」
イネスが杯を持ち上げる。
軽く触れ合わせた。
乾いた音が鳴る。
それから二人で飲み、今度は仕事以外の話をした。エリアスが歩いた土地、イネスの好きな依頼、まずい飯や虫の出た宿。綺麗な景色を見た帰りに、雨でずぶ濡れになった話には二人で笑った。
「ずっと旅してるの?」
「今のところは」
「飽きない?」
「知らない魔法がある限りは」
「本当にそればっかりね」
「金も女も好きだよ」
「知ってる」
「酒も」
「それも知ってる」
イネスが頬杖をつく。
「じゃあ今、何が一番気になる?」
「難しい質問だな」
「そう?」
エリアスは少し考えた。
酒も魔法も明日の報酬も大事だ。けれど、今は。
「今はイネスかな」
イネスの目が少し細くなった。
「それ、口説いてる?」
「今度は全部」
「さっきは半分だったのに?」
「増えた」
「何が?」
「色々」
イネスは少しだけ笑った。
だが、今度は軽く流さなかった。
「私も」
「何が?」
「最初は、女の顔ばっかり見てる変な魔法使いだと思ってた」
「ひどいな」
「今もそこは変わってない」
「もっとひどい」
「でも」
イネスの指が、テーブルの上をゆっくり滑った。
エリアスの手のすぐ近くで止まる。
「思ってたより、ずっと一緒に仕事しやすかった」
「それは褒めてる?」
「かなり」
エリアスが手を動かすと、指先が触れた。どちらも退かなかった。
「そろそろ店、閉まるって」
イネスが店の奥を見る。
「みたいだな」
「帰る?」
問いかけながら、彼女の手は離れない。
エリアスは少し笑った。
「一人で?」
イネスも笑った。
「そこまで言わせる?」
「確認は大事だろ」
「冒険者らしくなったじゃない」
「見習いだからな」
イネスが立ち上がった。
「じゃあ、来る?」
「行く」
◯
夜の街は、昼より静かだった。それでも酒場の多い通りにはまだ灯りが残り、遅くまで飲んでいる声がどこかから聞こえてくる。
イネスはエリアスの隣を歩いていた。
歩くたびに肩が触れたが、避けるどころか、どちらからともなく少し近づいていた。
「ねえ」
「ん?」
「本当に分かりやすいわよね、あなた」
「何が?」
「美人が好き」
「好き」
「即答」
「嘘つく理由ないだろ」
「じゃあ私は?」
エリアスは足を止めた。
イネスも止まる。
「美人」
「それだけ?」
「腕がいい」
「それから?」
「一緒にいて楽しい」
イネスが黙る。エリアスも言葉を継がず、彼女の顔を見た。
少しだけ距離が縮まる。
イネスがエリアスの胸元を軽く掴んだ。
「合格」
「何の?」
「知らない」
そのまま引かれた。
唇が重なる。
いったん離れて顔を見合わせると、どちらも笑っていた。
「もう一回?」
「聞くの?」
「確認」
「いらない」
今度はイネスから口づけた。
エリアスの腕が彼女の背へ回る。
昨夜、装備の留め具を直されたときとは違う。仕事中ではなく、互いに近づきたくて触れていた。
少し長い口づけのあと、イネスが額を肩へ預けた。
「宿、どっち?」
「あっち」
「近い?」
「かなり」
「それはいいわね」
二人はまた歩き始めた。
◯
宿の部屋へ入ると、イネスが扉を閉めた。
装備を外す音が、小さく響く。
エリアスも杖を壁へ立てかける。
「それ置くんだ」
「今はいらないだろ」
「やっと魔法より私が勝った?」
「今だけなら」
「そこはずっとって言いなさいよ」
「嘘になる」
「最低」
言いながら、イネスは笑っていた。
エリアスも笑う。
また距離がなくなる。
今度の口づけは、酒場を出たときより長かった。
腕を回して互いを引き寄せるうちに、笑い声は静まり、言葉も途切れた。やがて灯りが落ちる。
その夜は、誰かへの礼でも仕事の報酬でもない。二人が望んだから、一緒に過ごした。
◯
翌朝。
目を覚ましたエリアスは、隣から伸びてきた腕に顔を押された。
「重い」
「朝から失礼ね」
「起きてたの?」
「今起きた」
イネスが腕を引っ込める。
髪は少し乱れていた。
エリアスはそれを見て、素直に言った。
「朝も美人だな」
「本当にぶれないわね」
「褒めてる」
「知ってる」
互いに気まずさも後悔もない。何か約束を交わす空気でもなく、エリアスにはそれが心地よかった。
「今日、出るの?」
イネスが尋ねる。
「報酬もらって、記録をまとめたら」
「早いわね」
「知らない魔法が待ってるかもしれない」
「そうだったわね」
「イネスは?」
「次の仕事探す」
「そっちも早いな」
「冒険者だから」
顔を見合わせて笑った。
◯
報酬の袋は、受け取ると気持ちのいい重さがした。
「よし」
「嬉しそうね」
「働いたからな」
「遠慮とかないの?」
「なんで?」
「ないわよね」
イネスが笑う。
ガレスたちもそれぞれ報酬を受け取り、一時パーティは本当にこれで終わりになった。
エリアスはその場で旅鞄から紙を取り出した。
「まだ何かあるのか?」
ガレスが嫌そうな顔をする。
「最後に確認」
「やっぱり始まった」
足跡拾い、火守り、草鳴らし。誰から習い、どんなときに使い、使わないのはどんなときか。使い手によって変えるところも、何度か聞き直して記録を埋めた。
そして最後に、少し考える。
土地に合わせて形を変える魔法、暮らしに根づいた魔法、使い手ごとに少しずつ違う魔法。それらを見てきたエリアスの前に、今度は冒険者の仕事の中で使い続けられてきた魔法がある。
エリアスは紙へ書き込んだ。
――職業の中で生まれた魔法。
「何それ?」
横からイネスが覗き込む。
「今回のやつ」
「足跡拾いとか?」
「そう。強いから残ったんじゃなくて、冒険者が仕事をするのに便利だったから残った魔法」
「へえ」
「こういうの、他の仕事にもありそうだな」
考えるだけで面白い。
どんな仕事があり、そこでどんな魔法が使われているのか。
まだ知らないものはいくらでもありそうだった。
エリアスは満足して紙をしまった。
◯
街門の前まで来たところで、イネスが足を止めた。
「本当に行くのね」
「行くよ」
「引き止めても?」
「困る」
「即答ね」
「イネスも来ないだろ?」
「行かない」
「だろ?」
二人とも笑った。
一緒に働き、大型魔物と戦い、酒を飲み、同じ夜を過ごした。それでも、これから同じ道を歩き続けると決めたわけではない。二人とも、それを分かっていた。
「じゃあ」
イネスが手を上げる。
「またどこかで会ったら飲みましょ」
「今度も奢るの俺?」
「当然」
「じゃあ稼いどく」
「期待してる」
エリアスも手を上げた。
「またな、イネス」
「またね、エリアス」
悪くない別れだった。
エリアスは街門を抜ける。
背負った旅鞄には、また新しい紙が増えていた。
足跡拾い。
火守り。
草鳴らし。
そして、職業の中で生まれた魔法という新しい見方。
少し歩いてから、エリアスは一度だけ振り返った。
街はもう人混みの向こうに沈み始めている。
「さて」
前を向く。
街道はまだ先へ続いていた。
どこへ行けば、次の知らない魔法があるのか。
それを考えるだけで、足取りは自然と軽くなった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
エリアスとイネスがこの夜、灯りを落としてから朝を迎えるまで、もう少しだけ何をしていたのか。
本編では描写を省いた成人向け部分を、ノクターンノベルズにて別作品として掲載しています。
『大賢者の弟子は、旅先の夜を拾っていく』
第2夜「共闘のあとの夜」
18歳以上で、二人の夜の続きが気になる方は、そちらもお楽しみください。
なお、成人向け部分を読まなくても、本編の物語には問題なく続けていただけます。




