第17話 夜営の火、森の風
日が森の向こうへ傾き始めるころ、ガレスが隊商を止めた。
「今日はここまでだ。暗くなる前に野営を作る」
街道から少し外れた場所だった。
周囲を木々に囲まれてはいるが、地面は比較的平らで、荷馬車をまとめて置けるだけの広さがある。片側には緩やかな斜面があり、反対側には低い岩場が続いていた。
エリアスは辺りを見回した。
「ここがいいの?」
「ああ」
「どうして?」
ガレスはすぐには答えず、荷馬車の配置を指示しながら顎をしゃくった。
「まず、後ろが岩場だ。そっちから大型が突っ込んでくる可能性は低い。斜面側は見通しが利く。荷馬車もまとめやすいし、逃がすなら街道へ戻せる」
「なるほど」
「水場からは少し離れてるが、夜中に獣が寄りやすい場所で寝るよりいい」
岩場と斜面を見比べると、なるほどと思う。自分一人なら、その場で魔法の壁でも作って済ませたかもしれない。
「防壁を出せばもっと安全じゃない?」
ガレスが荷物を下ろしながら振り返った。
「毎晩やるのか?」
「俺ならできるけど」
「お前はな」
それだけで答えになっていた。自分にはできても、普通の冒険者が毎晩大きな魔法を使ってから眠るわけにはいかない。翌日も歩き、戦うかもしれないのだ。魔力と体力を残すために地形を見て荷馬車を置く。その手間で安全を増やしている。
「……これも仕事か」
「むしろ、こういうのが仕事だ」
ガレスは当然のように言った。
エリアスは少し笑った。
やはり面白い。
◯
野営の準備が進むころには、空に夜の色が混じり始めていた。
荷馬車を囲むように簡単な寝床が作られ、中央では火が起こされている。
エリアスが焚き火の前へ来ると、男の冒険者が薪の上へ手をかざした。
小さく魔力が流れる。
火が一瞬だけ揺れ、それから妙に落ち着いた。
「今のも魔法?」
「ん?」
男は薪を一本足しながら答えた。
「火守りだよ」
エリアスはしゃがみ込む。
炎は大きくなっていない。風が吹いても形が崩れにくく、薪の一部だけが急に燃え上がることもない。舞いかけた火の粉まで、炎の近くに押し戻されるように落ちていく。
「火を強くするんじゃないのか」
「強くしてどうする。寝てる間に荷物が燃えるぞ」
「確かに」
「雨や風で簡単に消えなくて、薪を食いすぎなくて、火の粉が飛びにくけりゃいい。夜営の火なんてそんなもんだ」
エリアスは魔法式を追った。
火属性の基本的な制御に、わずかな風の調整。
難しくはないが、目的がいい。火を強くするのではなく、小さいまま長く保つ。夜を越すための火だった。
「これ、誰に教わった?」
「最初に組んだ先輩。そいつも先輩から教わったって言ってたな」
「冒険者の間で?」
「たぶんな」
エリアスは紙を取り出そうとして、やめた。
まだ夕食も食べていない。
さすがに今書き始めると、また笑われそうだった。
「顔が書きたそうね」
背後から声がした。
振り向くと、イネスがいた。
「分かる?」
「昼からずっとそればっかりだもの」
「だってまた知らない魔法だぞ」
「分かったから、先に食べなさい」
差し出された器を受け取る。
中には簡単な煮込みが入っていた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
イネスはエリアスの隣へ腰を下ろした。
二人で焚き火を見る。
街の酒場と違って、焚き火の爆ぜる音と森の虫の声が近い。少し離れたところで、御者たちが小声で話していた。
「毎回こんな感じ?」
エリアスが聞いた。
「何が?」
「仕事」
「依頼によるわ。もっと楽なのもあるし、もっと酷いのもある」
「野宿ばっかり?」
「多いわね」
「嫌にならない?」
イネスは煮込みを口へ運び、少し考えた。
「街にずっといる方が嫌かも」
「へえ」
「同じところに何日もいると、外に出たくなるのよ。依頼が終わって、酒飲んで、寝て。次の日になると、また何かないかなって見に行く」
「ちょっと分かる」
「あなたも?」
「知らない魔法があるって聞いたら行きたくなる」
「それ、旅が好きなんじゃなくて魔法が好きなだけじゃない?」
「否定できない」
イネスが笑った。
エリアスも笑う。
美人なのは最初から分かっていたし、腕のよさも今日一日で見た。それに、一緒にいて面倒がない。変に持ち上げず、言いたいことを言う。エリアスが魔法の話を始めても、呆れながら付き合ってくれる。
もっと話してみたいと思う程度には、かなりいい。
「そういえば」
イネスが手を伸ばした。
「動かないで」
「何?」
彼女の指がエリアスの肩へ触れる。
一瞬だけ目がそちらへ向いた。
イネスは気にした様子もなく、肩から下がっていた鞄の留め具を引き上げる。
「緩んでる。走ったらずれるわよ」
「ああ」
「その状態で魔物が出たら、紙を撒き散らすわね」
「それは困る」
「魔物よりそっち?」
「記録は大事だろ」
「命の次くらいにはね」
留め具を直すと、イネスは何事もなかったように手を離した。
仕事仲間なら、それくらいは普通なのだろう。
エリアスも妙に意識することなく、自分の鞄を引いて確かめた。
「助かった」
「今度から自分で見なさい」
「じゃあ俺もイネスの装備見ようか?」
「必要なところだけ見なさいよ」
「難しい注文だな」
「何が難しいのよ」
焚き火の向こうでガレスが深いため息をついた。
◯
夜が深くなると、野営地の空気は変わった。
眠る者と見張る者が分かれ、焚き火も必要以上には大きくしない。
エリアスはイネスと同じ時間の夜番に入った。
「偶然?」
「ガレスに聞けば?」
「聞いたら怒られそうだからやめる」
「賢いわね」
二人は荷馬車の外側に並ぶ。
昼間より冷たい風が森を抜けていた。
イネスはしばらく耳を澄ませたあと、腰を落として片手を草へ近づける。
「また魔法?」
「今度は別」
ごく弱い風が広がった。
エリアスにも分かる。
草の葉、低い枝、地面に落ちた枯れ葉。それらを撫でる程度の小さな風だった。
ざわ、と周囲が鳴る。
「草鳴らし」
「何を見る?」
「聞くの」
「音を?」
「音も。揺れ方も」
イネスは暗い森へ目を向けた。
「風を通して、いつもと違うところがないか見るの。何か大きいものがいれば、風の流れも草の鳴り方も変わる」
「自動で見つけるわけじゃないんだな」
「そんな便利な魔法じゃないわよ」
「またそれか」
「便利すぎたら斥候がいらなくなるもの」
昼間と同じだ。
エリアスは草鳴らしの流れをなぞった。
魔力を流す。
弱い風が森へ広がる。
自分の方が滑らかに、広く流せているのが分かる。
「できた」
「でしょうね」
イネスはもう驚かなかった。
エリアスは耳を澄ませる。
草が鳴り、葉が擦れ、枝が揺れる。遠くで何かが動いたようにも聞こえた。
「……で?」
「何が?」
「何を聞けばいい?」
イネスが笑いを堪えるように口元を押さえた。
「昼間と同じじゃない」
「魔法は分かるんだよ」
「知ってる」
彼女はエリアスのすぐ横へ寄った。
二人で同じ森を見る。
「あそこ」
「どこ?」
「右の斜面。音が一回途切れたでしょ」
「……分からない」
「じゃあもう一回」
イネスの腕がエリアスの前を横切り、森の一点を示す。
肩が触れそうな距離だった。
だが二人とも視線は森へ向いたままだ。
もう一度、弱い風を流す。
ざわ。
ざわ。
少し遅れて、一部だけ音が鈍る。
「あ」
「分かった?」
「今のか」
「たぶん小さい獣。大型ならもっと広く乱れる」
エリアスは感心して頷いた。
足跡拾いと同じで、使うところまでは簡単だ。その先を聞き分けるには経験が要る。追跡や野営、索敵。冒険者の仕事には、それぞれに小さな魔法がある。
冒険者たちは強い魔法を作ろうとしたのではない。仕事を続けるために、少し便利な形へ魔法を削り、足し、使い続けてきた。
「……面白いな」
「またそれ?」
「だって面白いだろ」
「本当に飽きないわね」
イネスが笑った、その直後だった。
表情が変わる。
「待って」
エリアスも黙る。
イネスが再び草鳴らしを使った。
弱い風が森へ流れる。
今度は、先ほどまでとは違った。
遠い。
だが広い範囲で、一瞬だけ草木の鳴り方が崩れた。
イネスが立ち上がる。
「ガレス」
低い声だった。
ガレスがすぐに起きる。
「来たか?」
「近くにはいる。こっちを回ってるかもしれない」
ガレスは暗い森を見た。
「追うか?」
誰かが尋ねた。
「追わない」
即答だった。
「夜の森で隊商を置いて大型を追う理由がない。見張りを増やす。火はそのまま。朝まで来なければ、明るくなってから動く」
エリアスは何も言わなかった。
自分なら、森へ入って倒せるかもしれない。
だが今の仕事は魔物討伐ではない。
隊商を守って、危険区域の向こうへ届けることだ。
「俺はどこにいればいい?」
ガレスがエリアスを見る。
「中央。何か出たらすぐ動けるようにしてくれ」
「分かった」
エリアスは素直に戻った。
焚き火では火守りの魔法が静かに働き、炎が小さく揺れている。
森では草鳴らしを使うイネスたちが、闇の音を拾っている。
魔法式は分かる。だが、いつ使い、何を読み、どう判断するかでは、まだ彼らの方がずっと詳しい。
エリアスは暗い森へ目を向けた。
大型魔物は近い。
おそらく、明日は避けて通れない。
それでも今夜は追わない。
火と荷馬車、そこで眠る人間を守りながら、冒険者たちは朝を待った。




