第16話 足跡を拾う魔法
街門を抜けると、隊商はゆっくりと街道を進み始めた。荷馬車は全部で四台。前後を冒険者が固め、その間を商人や御者たちが進んでいる。
エリアスは最初、何となく前を歩けばいいのだろうと思っていた。
「そこじゃない」
出発して間もなく、ガレスに呼び止められた。
「どこ?」
「お前は二台目と三台目の間。何か出たとき、前にも後ろにも動ける位置にいてくれ」
「なるほど」
言われた場所へ移る。
少し先ではイネスが隊列から離れすぎない程度に前へ出て、街道の脇まで視線を走らせていた。
エリアスは歩きながら、その様子を眺める。
ただ道を見るだけではないらしい。
轍に道端の草、泥、木の根元。イネスはときどき足を止めて、何かを確かめていた。
「昨日から雨は降ってない」
ガレスが何気なく言った。
「うん」
「だから新しい足跡があれば残りやすい。逆に、古い跡も消えずに残ってる」
「……ああ」
エリアスは納得した。
普段、道の上に何が残っているかなど考えずに歩いていた。旅をしていても、旅の仕事を知っているわけではないらしい。
しばらく進んだところで、先頭のイネスが片手を上げた。
隊商が止まる。
彼女は街道の端にしゃがみ込んでいた。
「何かあった?」
近づこうとすると、ガレスに肩を押さえられた。
「荷馬車の横を離れるな」
「見たいんだけど」
「俺も見たい。でも護衛中だ」
「……それはそうだな」
エリアスは大人しくその場に残った。
少しして、イネスの方から戻ってくる。
「獣。たぶん三頭。昨日より前ね」
「大型か?」
「違うと思う。少なくとも、探してるやつじゃない」
ガレスが頷き、隊商を再び進ませる。
エリアスはその隣へ来たイネスを見る。
「今、使った?」
「何を?」
「出発前に見せてくれた魔法」
「ああ。見てたの?」
「魔力が動けば分かる」
「便利ね、大賢者の弟子」
「便利だよ。だから教えて」
「仕事中に暇があったらって言ったでしょ」
「今歩いてるだけだろ」
「護衛中だけど?」
「じゃあ護衛しながら教えて」
イネスが横目で見る。
「しつこい男は嫌われるわよ」
「魔法については諦めが悪いんだ」
「女については?」
「場合による」
「そこは即答しないのね」
イネスが笑った。
「仕方ないわね。足跡拾いって呼んでる」
「足跡拾い」
「そのままでしょ?」
「分かりやすくていい」
エリアスは先ほど感じた魔力の流れを思い出す。
複雑な式ではない。
むしろかなり単純だった。
地面へ薄く魔力を広げ、土や石を動かさずに、残ったわずかな凹凸や圧力の差を拾いやすくする。
「土系が土台か」
「そうなの?」
「知らずに使ってる?」
「仕組みなんて知らなくても使えるもの」
「そういうものか」
「そういうものよ」
エリアスは少し考えてから、街道の端へ視線を向けた。
「やっていい?」
「歩きながらなら」
杖すら必要なかった。
先ほどイネスが使った魔力の流れをなぞり、自分なりに式を組み直す。
魔力が地面へ薄く広がった。
ただの土にしか見えなかった道に、いくつもの違いが浮かび上がった。靴底の跡、轍、獣らしい窪み、踏まれて倒れた草。
「できた」
「……早くない?」
「式は簡単だから」
イネスが少し嫌そうな顔をした。
「何年かかけて覚えたものを、一回見ただけで使われると腹が立つわね」
「でも面白い」
「何が?」
エリアスは足元を見た。
さっきまで見えなかった跡まで、はっきりと分かる。ただ、その多さに気づいてエリアスは顔を上げた。
「……で、どれを見ればいい?」
イネスが黙った。
次いで、吹き出す。
「そこからなの?」
「いっぱい見えるんだけど」
「でしょうね」
「これは?」
エリアスが一つの窪みを示す。
「古い馬」
「こっちは?」
「うちの隊商」
「これは?」
「それも、うちの隊商」
「……じゃあこれは?」
「たぶん朝に通った荷車」
「分かるの?」
「分かるわよ」
エリアスはもう一度地面を見た。
足跡拾いはきちんと発動しているし、術式の精度ならイネスより高いかもしれない。だが、目に入った跡の意味が分からない。
「面白いな、これ」
「普通、そこで悔しがらない?」
「なんで?」
「魔法は使えるのに、読めてないじゃない」
「だから面白い」
エリアスは笑った。
術式を理解し、発動することと、それを役立てることは違う。その違いは知っていたつもりだが、自分が簡単に拾った跡をイネスが次々と読み分けるのを見れば、笑うしかなかった。
「どうやって見分ける?」
「一つずつ覚えるしかないわね。深さ、形、崩れ方。草なら倒れてる向き。乾き方も見る」
「乾き方?」
「新しく踏まれた土と、時間が経った土じゃ違うでしょ」
「ああ」
「雨が降った前か後かでも変わるし、同じ獣でも歩いてるのか走ってるのかで違う。魔物なら体重や歩き方も覚える」
説明を聞くほど、魔法以外の部分が増えていく。エリアスは楽しそうに何度も頷いた。
「じゃあ、足跡拾いを使わないこともある?」
「あるわよ」
「どんなとき?」
「見れば分かるくらい跡がはっきりしてるとき。あと、地面が向いてないとき」
「向いてない?」
「硬い岩場で土の跡を探しても仕方ないでしょ。雪なら雪の見方があるし、森なら枝や葉を見ることもある」
「魔法があれば何でも追えるわけじゃない」
「そんな便利なら、斥候なんて誰でもできるわ」
イネスは肩をすくめた。
その言葉が、妙に気に入った。
簡単な魔法でも、誰もが同じものを読み取れるわけではない。使う人間の経験によって、拾える情報が違う。
エリアスは旅鞄から紙を取り出した。
「歩きながら書くの?」
「忘れる前に」
「まだ危険区域にも入ってないんだけど」
「だから今のうちに」
「本当に魔法が好きなのね」
「好きじゃなかったら、こんな旅してないよ」
紙へ簡単に書きつける。
足跡拾い。基本式と魔力の流し方、地面に残った微細な変化を見やすくする働き。
それだけ書いてから少し考え、下へ書き加えた。
――使い手の追跡経験によって、得られる情報量が大きく変わる。
書き終えて顔を上げると、イネスがこちらを見ていた。
「何?」
「いや」
彼女は前へ向き直る。
「もっと偉そうな人かと思ってた」
「俺が?」
「大賢者の最後の弟子なんでしょ。こういう小さい魔法なんて、くだらないって言うのかと思ってた」
「そんなわけないだろ」
エリアスは本気で答えた。
「知らない魔法だぞ?」
「そこなの?」
「そこが大事だろ」
「……やっぱり変な人ね」
出発前と似た調子だった。
ただし、今度は少し楽しそうだった。
「そういうイネスは、思ってたよりすごいな」
「思ってたより?」
「最初は美人だなって」
「それしか見てなかったじゃない」
「今は美人で、腕もいい」
「増えたのね」
「かなり」
「はいはい」
軽くあしらわれたが、嫌がってはいない。
エリアスもそれ以上は追わず、また紙へ目を落とした。
魔法を一つ覚えた。しかも、式を覚えるだけでは得られないものまで、イネスに見せてもらった。
◯
昼を過ぎるころには、街道の景色が変わっていた。
人通りが減り、道の両側には深い森が迫っている。
ガレスの声も自然と少なくなった。
イネスは何度も隊列の前後を行き来し、ときには街道から少し外れて周囲を確かめている。
そして夕方近く。
彼女が再び止まった。
今度は、先ほどとは空気が違った。
「ガレス」
呼び方だけで、全員の表情が変わる。
ガレスが近づく。
エリアスも今度は荷馬車の位置を確認してから、その場を離れた。
街道脇の柔らかな土に、大きな窪みがある。
一つではない。
少し離れた場所にも、その先にも続いていた。
「これ……足跡?」
エリアスが尋ねる。
「そう」
イネスがしゃがみ込む。
足跡拾いの弱い魔力が地面を撫でた。
エリアスも同じ魔法を使う。
昼間とは比べものにならない大きさの跡が見える。だが、それだけではまだ分からない。
「新しい?」
「かなり」
イネスは縁の崩れ方を指で確かめ、それから周囲の草を見る。
「今日か、遅くても昨夜」
ガレスの顔が険しくなった。
「方向は?」
「街道を横切って、森の奥。でも……」
イネスが少し先へ進む。
そこで別の跡を見つけた。
「戻ってきてる」
エリアスも目を凝らした。
確かに、同じような巨大な足跡が逆方向へ重なっている。
「この辺りをうろついてるってこと?」
「たぶんね」
依頼書で読んだ「大型魔物」が、足元の窪みに形を持った。森の奥は暗く、姿は見えない。それでもエリアスは、不安より先に少しだけ血が騒ぐのを感じた。
ガレスが隊商へ戻りながら言う。
「今日は無理に距離を稼がない。日が落ちる前に野営できる場所を探す」
誰も反対しなかった。
エリアスも頷く。
足跡拾いの記録を書いた紙を旅鞄へ戻す。
魔法はもう使える。だが、跡を見つけ、古さを読み、危険を判断したのはイネスだった。自分一人なら、巨大な足跡を見つけて喜んだだけで、危険の近さまでは読めなかったかもしれない。
エリアスは少し笑った。
やはり、面白い。
日が傾き始めた森の中を、隊商は進んでいく。
今度は一晩を無事に越えるための場所を探しながら。




