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大賢者の弟子は、忘れられた魔法を拾いに行く  作者: Atelier Lotus文庫
第三章 暮らしの中の魔法

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第14話 今夜は、そこまで

 夕方、エリアスは宿の机に広げていた紙を一枚ずつ重ねた。


 泥離し、布あおぎ、火均し、蔵風、畝ほぐし。まだ短いものもあるが、どれも旅の途中で見つけ、使われているところを見て、話を聞いてまとめた紙だ。


 最初の泥離しを書いたときより、記すことは明らかに増えていた。


 魔法式と発動条件、土地や周囲の環境、用途。そして誰が使っているのか。


 火均し一つ取っても、鍋や炉だけでは説明しきれない。同じ術を教わっていても、使う者が料理や道具に合わせて少しずつ変えている。


 それを削れば式だけは綺麗になる。だが、その家で使われている形を書いたことにはならない。


「これでいいな」


 紙を整え、旅鞄へ収める。


 調べたいことは調べた。


 書きたいことも、ひとまず書いた。


 明日には、この農村地帯を離れる。


 なら、今夜残っている予定は一つだった。


「さて」


 エリアスは上着を羽織った。


「酒だな」


     ◯


 リディアは先に店へ来ていた。


「遅い」


「まだ約束の時間だろ」


「女を待たせた時点で遅いのよ」


「じゃあ詫びに一杯奢る」


「二杯」


「増えたな」


「待たせたから」


「待たせてないって」


 言い合いながら、エリアスは向かいではなくリディアの隣へ座った。


 彼女は何も言わなかった。


 店には、焼いた肉と香草の匂いが満ちていた。二人で大皿を頼み、この地方でよく飲まれている少し濁った酒を杯へ注ぐ。


 最初は、やはり魔法の話になった。


「結局、何枚書いたの?」


「論文と言えるところまでいったのがいくつか。あとは記録だな」


「そんなに?」


「まだ増やせる」


「明日出るんでしょう?」


「だから出るんだよ。他にもあるだろうから」


 リディアは呆れたように笑った。


「本当に魔法が好きなのね」


「面白いからな」


「お金になるから、じゃなくて?」


「それも大事」


「名声は?」


「欲しい」


「女の人は?」


「もちろん」


「台無しね」


「何が?」


「今ちょっとだけ立派な魔法使いに見えたのに」


「見る目がないな」


 リディアが肩を揺らす。


 エリアスも酒を飲んだ。


 それから話題は、自然に魔法から離れていった。


 リディアが商売で通った村の話。


 道の悪い場所。


 値切るのがやたら上手い客。


 エリアスが旅の途中で食べた妙に辛い料理。


 宿代だけ高くて飯がひどかった町。


「それでも泊まったの?」


「夜だったからな。次の宿まで歩く気にもならなかった」


「いくら?」


 エリアスが値段を言うと、リディアが露骨に顔をしかめた。


「高い」


「だろ?」


「私なら絶対値切るわ」


「宿でまで商売人になるのか」


「お金は大事よ」


「気が合うな」


「そこ?」


「大事だろ」


 また杯が触れた。


 何度目かの酒を注ぐ頃には、最初に空けていたわずかな隙間もなくなっていた。肩が触れてもリディアは離れない。二人が同じ皿へ手を伸ばし、指先が重なった。


「あ」


 どちらも手を引かなかった。


 リディアがエリアスを見る。


 エリアスも見る。


「取らないの?」


「そっちこそ」


「私が先だったわよ」


「本当か?」


「商売人はそういうの覚えてるの」


「じゃあどうぞ」


 そう言いながら、エリアスは手を退けず、むしろ指先で彼女の手を軽く押した。


 リディアが笑う。


「邪魔」


「嫌そうには見えないな」


「そう見える?」


「見えない」


「じゃあ、そうなんじゃない?」


 リディアの指が、今度はエリアスの手の甲を軽く撫でた。


 二人とも、普通に話せる程度には醒めていて、何をしているかも分かっている。エリアスはリディアの指を見てから、笑った。


「やっぱり俺のこと好きだろ」


「すぐ調子に乗る」


「嫌いな男の手は撫でないだろ」


「嫌いじゃないわよ」


「ほら」


「でも、それであなたの言ったこと全部が正しくなるわけじゃないから」


「厳しいな」


 リディアがもう一度笑った。


 しばらくすると、彼女の肩がエリアスへ預けられた。


 エリアスも自然に身体を寄せる。


 肩と腕を触れ合わせたまま話し、笑い、酒を飲む。リディアが何か言うたび、髪がエリアスの頬近くで揺れた。


「近いな」


「あなたが寄ってきたんでしょう」


「半分はそっちだろ」


「そうかもね」


 否定しない。


 エリアスの手が、椅子の背からリディアの背中へ移った。


 軽く添える。


 彼女は嫌がらなかった。


 むしろ少し姿勢を変え、さらに近くなる。


 今度はリディアの手がエリアスの腕へ触れ、そのまま肘のあたりを指先でなぞった。


「お前、結構触るよな」


「嫌?」


「まさか」


「じゃあいいでしょう」


「もちろん」


 これはいけるだろう、とエリアスは素直に思った。ここまで何度も会って話も合うし、触れているのは自分だけではない。リディアも楽しんでいる。期待くらいはする。


 店を出る頃には、夜風が少し冷たくなっていた。


 二人は宿まで同じ道を歩いた。


 酔って足元が危ういわけではない。それでもリディアはエリアスの腕へ手を添えたままだった。


「明日、出るのよね」


「ああ」


「どっちへ?」


「まだ決めてない。面白そうな方」


「雑ねえ」


「旅なんてそんなもんだろ」


「私は商売だから道順があるの」


「じゃあ俺と違うな」


「そうね」


 宿の前で立ち止まる。


 すぐに別れるには、少し近すぎた。


 リディアの手はまだエリアスの腕にある。


 エリアスも彼女の腰へ軽く手を添えていた。


 どちらも退かない。


「リディア」


「何?」


「楽しかった」


「あら。珍しく普通のこと言うのね」


「このあともっと楽しくてもいいぞ」


「やっぱりそっちに行くのね」


「期待してるからな」


「正直」


 顔が近づいた。


 リディアは笑っている。


 エリアスも笑った。


 寄せた身体はこわばらず、互いの手も離れない。もう少し顔を寄せれば、唇が触れる。


 エリアスは、そのまま距離を詰めた。


 すると。


「そこまで」


 リディアの指が、エリアスの唇の前へ入った。


 唇が触れる直前で、エリアスは止まった。


「……キスも駄目?」


「駄目」


 リディアはまだ笑っていた。


 怒っている様子はなく、彼女の手はまだエリアスの腕に触れていた。


「あなたは好きよ。話してて楽しいし、こうして触ってるのも嫌じゃない」


 そこで一度言葉を切り、リディアはエリアスを見た。


「でも、今夜はここまで。キスもしないし、その先もなし」


「そうか」


 エリアスは腰へ添えていた手を離した。それ以上は進まない。理由を聞く必要もなかった。ここまで近づいたからといって、その先までいいとは限らない。


 ただ、それはそれとして。


「残念」


 本音だった。


 リディアが吹き出す。


「本当に残念そう」


「そりゃ残念だろ」


「怒らないの?」


「なんで?」


「ここまでいい感じだったのに」


「いい感じだったことと、駄目って言われたあと押すことは別だろ」


 エリアスは肩をすくめた。


「それに、楽しかったのは本当だしな」


 リディアが少しだけ目を細める。


「そういうところ、嫌いじゃないわ」


「今言う?」


「言う」


「また期待するぞ」


「それは勝手にして」


「酷いな」


「おやすみ、エリアス」


「おやすみ、リディア」


 最後にリディアが彼の腕を一度だけ軽く叩いた。


 それから二人は別れた。


     ◯


 翌朝、エリアスはいつも通り目を覚ました。


 一人だった。


「まあ、そうだよな」


 残念な気持ちはまだ少しある。だが、昨夜の酒も料理もうまかったし、リディアとの時間は楽しかった。キスできなかったからといって、そこまで消えるわけではない。


 顔を洗い、荷物をまとめる。


 旅鞄は、ラーデンを出た頃より少し重くなっていた。


 紙が増えたせいだ。


 泥離しだけではない。


 布あおぎ。火均し。蔵風。畝ほぐし。


 それぞれの魔法式だけでなく、土地や環境、用途、そして実際に使っていた人間についても書いてある。


 誰が、どう使っているのか。


 そこまで見なければ、その魔法を正しく理解できない。


 今は、それで十分だった。


 宿を出ると、通りの向こうにリディアがいた。


 すでに荷車の準備をしている。


「おはよう」


「おはよう。ちゃんと起きたのね」


「俺を何だと思ってる」


「昨日、残念そうだった男」


「まだ言うか?」


 リディアが笑う。


 気まずさはなかった。


「そっちは?」


「今日は南の村へ戻るわ」


「俺とは逆だな」


「そうみたい」


「じゃあ、ここまでか」


「そうね」


 次にいつ会うとも言わない。互いに自分の道がある。


「商売、頑張れよ」


「そっちも魔法ばっかり見て道に迷わないようにね」


「美人も見るから大丈夫」


「何が大丈夫なのよ」


 最後まで呆れた顔で笑われた。


 エリアスも笑い、手を上げる。


 リディアは荷車を引いて南へ。


 エリアスは旅鞄を背負い、別の道へ向かった。


 知らない魔法は、まだある。


 なら、次へ行けばいい。


 旅はまだ始まったばかりだった。

 

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