第14話 今夜は、そこまで
夕方、エリアスは宿の机に広げていた紙を一枚ずつ重ねた。
泥離し、布あおぎ、火均し、蔵風、畝ほぐし。まだ短いものもあるが、どれも旅の途中で見つけ、使われているところを見て、話を聞いてまとめた紙だ。
最初の泥離しを書いたときより、記すことは明らかに増えていた。
魔法式と発動条件、土地や周囲の環境、用途。そして誰が使っているのか。
火均し一つ取っても、鍋や炉だけでは説明しきれない。同じ術を教わっていても、使う者が料理や道具に合わせて少しずつ変えている。
それを削れば式だけは綺麗になる。だが、その家で使われている形を書いたことにはならない。
「これでいいな」
紙を整え、旅鞄へ収める。
調べたいことは調べた。
書きたいことも、ひとまず書いた。
明日には、この農村地帯を離れる。
なら、今夜残っている予定は一つだった。
「さて」
エリアスは上着を羽織った。
「酒だな」
◯
リディアは先に店へ来ていた。
「遅い」
「まだ約束の時間だろ」
「女を待たせた時点で遅いのよ」
「じゃあ詫びに一杯奢る」
「二杯」
「増えたな」
「待たせたから」
「待たせてないって」
言い合いながら、エリアスは向かいではなくリディアの隣へ座った。
彼女は何も言わなかった。
店には、焼いた肉と香草の匂いが満ちていた。二人で大皿を頼み、この地方でよく飲まれている少し濁った酒を杯へ注ぐ。
最初は、やはり魔法の話になった。
「結局、何枚書いたの?」
「論文と言えるところまでいったのがいくつか。あとは記録だな」
「そんなに?」
「まだ増やせる」
「明日出るんでしょう?」
「だから出るんだよ。他にもあるだろうから」
リディアは呆れたように笑った。
「本当に魔法が好きなのね」
「面白いからな」
「お金になるから、じゃなくて?」
「それも大事」
「名声は?」
「欲しい」
「女の人は?」
「もちろん」
「台無しね」
「何が?」
「今ちょっとだけ立派な魔法使いに見えたのに」
「見る目がないな」
リディアが肩を揺らす。
エリアスも酒を飲んだ。
それから話題は、自然に魔法から離れていった。
リディアが商売で通った村の話。
道の悪い場所。
値切るのがやたら上手い客。
エリアスが旅の途中で食べた妙に辛い料理。
宿代だけ高くて飯がひどかった町。
「それでも泊まったの?」
「夜だったからな。次の宿まで歩く気にもならなかった」
「いくら?」
エリアスが値段を言うと、リディアが露骨に顔をしかめた。
「高い」
「だろ?」
「私なら絶対値切るわ」
「宿でまで商売人になるのか」
「お金は大事よ」
「気が合うな」
「そこ?」
「大事だろ」
また杯が触れた。
何度目かの酒を注ぐ頃には、最初に空けていたわずかな隙間もなくなっていた。肩が触れてもリディアは離れない。二人が同じ皿へ手を伸ばし、指先が重なった。
「あ」
どちらも手を引かなかった。
リディアがエリアスを見る。
エリアスも見る。
「取らないの?」
「そっちこそ」
「私が先だったわよ」
「本当か?」
「商売人はそういうの覚えてるの」
「じゃあどうぞ」
そう言いながら、エリアスは手を退けず、むしろ指先で彼女の手を軽く押した。
リディアが笑う。
「邪魔」
「嫌そうには見えないな」
「そう見える?」
「見えない」
「じゃあ、そうなんじゃない?」
リディアの指が、今度はエリアスの手の甲を軽く撫でた。
二人とも、普通に話せる程度には醒めていて、何をしているかも分かっている。エリアスはリディアの指を見てから、笑った。
「やっぱり俺のこと好きだろ」
「すぐ調子に乗る」
「嫌いな男の手は撫でないだろ」
「嫌いじゃないわよ」
「ほら」
「でも、それであなたの言ったこと全部が正しくなるわけじゃないから」
「厳しいな」
リディアがもう一度笑った。
しばらくすると、彼女の肩がエリアスへ預けられた。
エリアスも自然に身体を寄せる。
肩と腕を触れ合わせたまま話し、笑い、酒を飲む。リディアが何か言うたび、髪がエリアスの頬近くで揺れた。
「近いな」
「あなたが寄ってきたんでしょう」
「半分はそっちだろ」
「そうかもね」
否定しない。
エリアスの手が、椅子の背からリディアの背中へ移った。
軽く添える。
彼女は嫌がらなかった。
むしろ少し姿勢を変え、さらに近くなる。
今度はリディアの手がエリアスの腕へ触れ、そのまま肘のあたりを指先でなぞった。
「お前、結構触るよな」
「嫌?」
「まさか」
「じゃあいいでしょう」
「もちろん」
これはいけるだろう、とエリアスは素直に思った。ここまで何度も会って話も合うし、触れているのは自分だけではない。リディアも楽しんでいる。期待くらいはする。
店を出る頃には、夜風が少し冷たくなっていた。
二人は宿まで同じ道を歩いた。
酔って足元が危ういわけではない。それでもリディアはエリアスの腕へ手を添えたままだった。
「明日、出るのよね」
「ああ」
「どっちへ?」
「まだ決めてない。面白そうな方」
「雑ねえ」
「旅なんてそんなもんだろ」
「私は商売だから道順があるの」
「じゃあ俺と違うな」
「そうね」
宿の前で立ち止まる。
すぐに別れるには、少し近すぎた。
リディアの手はまだエリアスの腕にある。
エリアスも彼女の腰へ軽く手を添えていた。
どちらも退かない。
「リディア」
「何?」
「楽しかった」
「あら。珍しく普通のこと言うのね」
「このあともっと楽しくてもいいぞ」
「やっぱりそっちに行くのね」
「期待してるからな」
「正直」
顔が近づいた。
リディアは笑っている。
エリアスも笑った。
寄せた身体はこわばらず、互いの手も離れない。もう少し顔を寄せれば、唇が触れる。
エリアスは、そのまま距離を詰めた。
すると。
「そこまで」
リディアの指が、エリアスの唇の前へ入った。
唇が触れる直前で、エリアスは止まった。
「……キスも駄目?」
「駄目」
リディアはまだ笑っていた。
怒っている様子はなく、彼女の手はまだエリアスの腕に触れていた。
「あなたは好きよ。話してて楽しいし、こうして触ってるのも嫌じゃない」
そこで一度言葉を切り、リディアはエリアスを見た。
「でも、今夜はここまで。キスもしないし、その先もなし」
「そうか」
エリアスは腰へ添えていた手を離した。それ以上は進まない。理由を聞く必要もなかった。ここまで近づいたからといって、その先までいいとは限らない。
ただ、それはそれとして。
「残念」
本音だった。
リディアが吹き出す。
「本当に残念そう」
「そりゃ残念だろ」
「怒らないの?」
「なんで?」
「ここまでいい感じだったのに」
「いい感じだったことと、駄目って言われたあと押すことは別だろ」
エリアスは肩をすくめた。
「それに、楽しかったのは本当だしな」
リディアが少しだけ目を細める。
「そういうところ、嫌いじゃないわ」
「今言う?」
「言う」
「また期待するぞ」
「それは勝手にして」
「酷いな」
「おやすみ、エリアス」
「おやすみ、リディア」
最後にリディアが彼の腕を一度だけ軽く叩いた。
それから二人は別れた。
◯
翌朝、エリアスはいつも通り目を覚ました。
一人だった。
「まあ、そうだよな」
残念な気持ちはまだ少しある。だが、昨夜の酒も料理もうまかったし、リディアとの時間は楽しかった。キスできなかったからといって、そこまで消えるわけではない。
顔を洗い、荷物をまとめる。
旅鞄は、ラーデンを出た頃より少し重くなっていた。
紙が増えたせいだ。
泥離しだけではない。
布あおぎ。火均し。蔵風。畝ほぐし。
それぞれの魔法式だけでなく、土地や環境、用途、そして実際に使っていた人間についても書いてある。
誰が、どう使っているのか。
そこまで見なければ、その魔法を正しく理解できない。
今は、それで十分だった。
宿を出ると、通りの向こうにリディアがいた。
すでに荷車の準備をしている。
「おはよう」
「おはよう。ちゃんと起きたのね」
「俺を何だと思ってる」
「昨日、残念そうだった男」
「まだ言うか?」
リディアが笑う。
気まずさはなかった。
「そっちは?」
「今日は南の村へ戻るわ」
「俺とは逆だな」
「そうみたい」
「じゃあ、ここまでか」
「そうね」
次にいつ会うとも言わない。互いに自分の道がある。
「商売、頑張れよ」
「そっちも魔法ばっかり見て道に迷わないようにね」
「美人も見るから大丈夫」
「何が大丈夫なのよ」
最後まで呆れた顔で笑われた。
エリアスも笑い、手を上げる。
リディアは荷車を引いて南へ。
エリアスは旅鞄を背負い、別の道へ向かった。
知らない魔法は、まだある。
なら、次へ行けばいい。
旅はまだ始まったばかりだった。




