第13話 使う人を書く
翌朝、エリアスは村を歩き回る代わりに、宿の部屋へ籠もっていた。机の上には、ここ数日で集めた紙が積み上がっている。
布あおぎ。
火均し。
蔵風。
畝ほぐし。
家畜についた藁や埃を払う弱い風。
それぞれについて、見た魔法式、発動条件、使われていた場所、道具、用途を書き出してある。
「さて」
エリアスはまず、火均しの紙を手元へ引き寄せた。
基本となる術式だけなら、すでに整理できている。
弱い火魔法を細かく調整し、鍋底の一部分へ熱が集中しすぎないよう均していく。
そこまでは簡単だった。
問題は、その先だ。
最初に見た家では、厚い鉄鍋を使っていた。
別の家では浅い鍋だった。
炉の形も違った。
薪の積み方も、作っている料理も違った。
そのため同じ火均しでも、魔力を入れる位置や時間が微妙にずれている。
「全部まとめるなら……」
紙の中央へ基本となる魔法式を書き、横に家ごとの差を並べた。一軒目、二軒目、三軒目。鍋と炉の違いを書き終えたところで、エリアスの手が止まる。
「……誰だっけ」
一軒目の鍋を使っていたのは食事処の女だ。それは覚えている。では、二軒目は誰だったか。年配だったか、若かったか。あの調整は、いつから使っているのだろう。本人が考えたのか、それとも誰かに教わったのか。作っていたものさえ、記憶が曖昧だ。
エリアスは眉を寄せた。
「書いてないな」
帳面をめくる。
火均しだけではない。
畝ほぐしの頁にも、畑の状態と魔法の使い方はかなり細かく残してある。
だが、それを使っていた女については、ほとんど何もない。
雨のあとに固まった表面をほぐし、根を傷つけないよう浅く魔力を通していた。そこまでは分かる。しかし、何を育てていたかまでは書いていない。いつも同じ深さなのか、作物が変われば調整も変えるのか。誰からそのやり方を習ったのかも、聞いていなかった。
「……足りない」
エリアスは椅子から立ち上がった。
◯
「昨日も見てたじゃないか」
畑へ戻ると、大石を動かした男が笑った。
「見た。でも聞いてないことがあった」
「まだあるのか?」
「ある」
エリアスは帳面を開いた。
「畝ほぐしを使ってた人、どこにいる?」
「ああ、向こうだよ」
案内された先では、昨日の女が畝の間を歩いていた。
エリアスを見るなり、女は笑った。
「今日は芋を持ってないのね」
「今日は質問を持ってきた」
「そっちの方が多そうだね」
否定できなかった。
「畝ほぐし、誰に教わった?」
「母親だけど」
エリアスの筆が動く。
「母親も同じ使い方?」
「だいたいはね」
「だいたい?」
「母さんはもっと深くやってたよ。うちは昔、根の深いものを多く育ててたから」
筆が止まる。
「今は?」
「こっちは浅い方がいいものが多いから、私はあまり深くしない」
「それ、自分で変えたのか?」
「そりゃ畑を見ながらね」
女にとっては、また当たり前のことらしい。
エリアスは昨日の頁を開いた。
魔法式だけを見れば同じ畝ほぐしだが、母から娘へそのまま渡ったわけではない。育てるものが変わり、使う本人もそれに合わせて深さを変えていた。
「名前、聞いていい?」
「今さら?」
「今さら」
女は呆れながら、自分の名を教えた。
エリアスはそれも書いた。
名前、仕事、母から習ったこと。そして今の作物に合わせて、魔力を通す深さを浅くしていること。
書いてみると、昨日までの記録には、式の違いを説明するための肝心な部分が抜けていた。
「……そういうことか」
「何が?」
「こっちの話」
「最近そればっかりね、あんた」
どこかで聞いたようなことを言われた。
◯
それからエリアスは、前に話を聞いた家をもう一度回った。
「火均しって、誰に習った?」
「母親」
「どの鍋でも同じ?」
「そんなわけないだろ」
「いつ変える?」
「鍋を替えたときと、料理によるね」
「自分で変えたところは?」
「そこまで聞くのかい」
「聞く」
食事処の女は呆れながらも答えてくれた。
別の家では、父親から習ったという。
また別の家では、嫁いできてからその家の炉に合わせて覚え直したという。
蔵風も同じだった。
「この曲げ方、昔から?」
「いや。棚を増やしてからだ」
「じゃあ前は?」
「もっと真っ直ぐだったよ」
エリアスは書く。
誰が、どこで、何に使い、誰から教わって、何を自分で変えたのか。それを書き加えるたび、これまで不思議だった差に理由が見えてくる。
同じ火均しでも違う。
同じ畝ほぐしでも違う。
使っている人間も、その仕事も違うのだから、当たり前だった。
「ずいぶん聞き回ってるわね」
昼過ぎ、道端でリディアに会った。
今日も荷車を引いている。
「人を探してる」
「あなたが?」
「その言い方は何だ」
「だって今までは魔法ばっかり見てたでしょう」
「人も見てたぞ」
リディアが立ち止まる。
エリアスの顔をじっと見た。
「女の人だけ?」
「……人も見てた」
「言い直した」
くすくす笑われた。
エリアスは帳面を閉じる。
「今まで、魔法を使ってる人間のことをほとんど書いてなかった」
「名前も?」
「ほとんど」
「商売だったら怒られるわね。品物だけ見て、誰に売ったか忘れてるようなものでしょ」
「研究と商売を一緒にするなよ」
「でも今、人を探してるんでしょう?」
「それはそうだけど」
言い返しにくい。
リディアは楽しそうだった。
「誰を探してるの?」
「蔵風を使ってた家の人。入口が南向きで、奥に棚が二つある家」
「それなら分かるわ。瓶をよく買ってくれる家ね」
「連れていってくれる?」
「いいけど、ちゃんと名前くらい覚えなさいよ」
「今日から覚える」
「遅いのよ」
リディアに案内されて歩きながら、エリアスは少し笑った。
彼女と会うのも、もう何度目か分からない。
美人を見つければ気分がよくなる。それは変わらない。だが今は、リディアの顔を見たこと自体もちょっと嬉しかった。
「なあ、リディア」
「何?」
「今日も美人だな」
「真面目な話をしてたと思ったら、やっぱりそれ?」
「両立するだろ」
「しなくていいわよ」
「じゃあ明日の夜、飯でも食おう」
リディアが横目で見る。
「それ、調査?」
「口説いてる」
「ずいぶん正直ね」
「今さらだろ」
しばらく歩いてから、リディアは小さく笑った。
「明日の夜ならいいわよ」
「酒も?」
「飲む」
「よし」
「嬉しそうね」
「美人と飲めるんだから当然だろ」
「本当に分かりやすい人」
そう言いながら、リディアも機嫌よく歩いていた。
◯
夜、宿の机には書き直した紙が並んでいた。火均し、蔵風、畝ほぐし。布あおぎについても、聞ける範囲で情報を補った。
魔法式、発動条件、土地や環境、用途。これまでも調べていた項目の横に、使い手の名前と仕事、誰から習ったか、普段は何に使うか、本人が変えた部分を加えてある。
紙の量も、調べる手間も増えた。だが火均しが家ごとに違う理由も、畝ほぐしの深さが人によって違う理由も、今なら紙の上で追える。使い手のことを消せば、魔法式はきれいに整っても、なぜその形なのかが分からなくなる。
「これなら書けるな」
エリアスは新しい紙を取り出した。
一つ目を書き終え、二つ目へ移る。
夜が深くなる頃には、まだ粗いところを残しながらも、数本の小さな論文が形になり始めていた。
魔法を調べるなら、術式だけでは足りない。誰が、どう使っているのか。そこまで確かめて、ようやく違いの理由を書ける。
今のところ、エリアスが調べ直した理由はそれで十分だった。
エリアスは筆を置き、固くなった肩を回した。
調べ直すべきことはだいたい終わった。
論文も形になった。
この農村地帯に長く留まる理由も、そろそろなくなる。
そして明日の夜には、リディアと酒を飲む約束がある。
「そっちも楽しみだな」
魔法の紙をまとめて旅鞄へ収める。
知らない魔法をいくつも拾えた。
論文も増えた。
ついでに、美人と飲む予定までできた。
悪くない旅だった。




