第6話 腹を空かせた男が、畑の縁に立っていた
朝いちばんに、魔素濃度を上げた。
二十から、三十五へ。
換気扇の回転を落として、トンネルの中に層の空気を少しずつ戻していく。測定器の数字がゆっくり上がる。二十二、二十六、三十。三十五で止めた。
これで七日、様子を見る。焼けるとしたら、この四日以内に葉の縁から色が抜ける。
馴致というのは、要するに騙し方の順番だ。いきなり濃い場所に置けば、根は代謝を上げすぎて自分を焼く。少しずつ上げてやると、根のほうが構造を変えて追いついてくる。塩害地では、これに三年かけた。塩は植物にとって何の役にも立たないので、抜くしかなかった。
魔素は違う。あれは代謝を速める。速さを調整できるなら、抜く必要がない。
理屈は通っている。通っていることと、実際に育つことは別だ。
灰土を一握り取って、指で潰す。匂いを嗅ぐ。
昨日までと違って、かすかに湿った匂いがした。作土の下にも、水が回り始めている。
「おい」
顔を上げると、畑の縁に男が立っていた。
◇
作業着に、使い込んだ膝当て。四十手前くらいで、無精髭が伸びている。片手に空のペットボトルを提げて、もう片方の手で腹を押さえていた。
第一声がこれだった。
「あんた、なんか食いもん持ってねえか」
二週間ここに通って、人に話しかけられたのは二度目だ。
俺が答えあぐねていると、男は畝のほうへ目をやって、それから二度、まばたきをした。
「……なんだこれ」
「畑です」
「畑」
男は繰り返して、しゃがみ込んだ。トンネルのビニール越しに、中を覗いている。
「なんで、こんなとこで」
「借りてるので」
説明する気にはならなかった。この二週間で、それが冗談にしか聞こえないことは分かっている。
男はビニールの向こうに顔を近づけたまま、しばらく動かなかった。それからLEDの架台を見上げて、単管の組み方を目でたどっている。
「これ、あんたが組んだのか」
「はい」
「電気は」
「発電機です」
「よく降ろせたな、あんなもん」
言われてみれば、あれを一人で階段から降ろしたのは我ながら無理があった。三回に分けて、途中で二回落とした。
男は立ち上がって、腹をもう一度押さえた。音が鳴っていた。層の中は静かなので、はっきり聞こえる。
◇
保冷バッグから、おにぎりを二つ出した。
自分で握ったやつだ。中身は梅と、あとは何も入っていない塩むすび。米は三日前に炊いて冷凍したものを、朝に解凍して握っている。
塩むすびのほうを差し出した。
梅を残したのは、深い理由ではない。梅のほうが好きだからだ。
男は二秒くらい、それを見ていた。断るかどうか迷っているというより、受け取っていいものかどうかを測っている目だった。それから受け取って、包みを剥いで、三口で食った。
喉が鳴る。ペットボトルの中身がないことを思い出したらしく、口の中のものを飲み下すのに少し手間取っていた。俺は自分の水筒を渡した。
男は麦茶を半分飲んで、口を拭いた。
「……わりぃ。今日、朝から何も」
「はい」
「金がねえんだ」
言い訳をするでもなく、事実として言った。
それから、急に喋り出した。
「俺、大牟田っていうんだ。ソロで十二年やってる。十二年だぞ。同期はとっくに中層行って、クラン入って、家買ったやつもいる。俺は五層で日銭稼いで、装備は八年前のまんまだ。魔石の相場が下がっててな、去年の半分にもならねえ。かといって上に行こうにも、パーティ組むには金がいるんだよ。装備が古いと誰も組んでくれねえ。装備買うには金がいる。分かるか、この循環」
テンポが変わっていた。
さっきまで単語しか喋らなかった男が、止まらなくなっている。
「兄ちゃん、笑うだろ。四十手前で、日給一万に届かねえんだ。装備の分割払いがまだ二年ある。何のために潜ってんのか、たまに分かんなくなる」
言いながら、大牟田は自分でおかしそうに口の端を歪めた。笑っている顔ではなかった。
「まあ、それでもな。潜らねえと飯が食えねえ」
「で、ここだ」
大牟田は通路のほうを顎で指した。
「昼寝には最高なんだ、三層は。魔物が出ねえから」
「出ないんですか」
「出ねえよ。俺が知ってるだけで、この五年で二回だ。他の層はな、地面に爪の跡が残ってんだよ。ここは何もねえだろ。痩せてんだ」
空になった水筒を返しながら、大牟田は続けた。
「魔素だけは濃いのにな。素材も出ねえ。だから誰も来ねえ。俺みたいなのが、飯食う場所に使うくらいで」
俺は畝のほうを見た。
魔素だけは濃い。誰も来ない。
この人にとっては、それが「痩せている」だ。
同じ場所を、俺は別の言葉で見ている。
肥料が濃くて、邪魔が入らない。
どちらが正しいかは、たぶん十日後に決まる。
◇
大牟田が帰り支度を始めたのは、それから十分ほど経ってからだった。
ペットボトルを腰に挿して、膝を叩いて立ち上がる。
「兄ちゃん」
「はい」
「畑って、何を作んの」
「トマトと、カブです」
「ここで」
「はい」
「育つのか」
「分かりません」
大牟田が口を開けたまま、こちらを見た。
「分かんねえのにやってんの」
「はい」
「いや、それはそうか。俺も分かんねえのに十二年潜ってるわ」
自分で言って、今度は本当に笑った。歯が一本欠けている。
大牟田は通路のほうへ二歩進んで、それから振り返った。
「兄ちゃん、あんた何なんだ。何やってんだ、こんなとこで」
答えられなかった。
畑を作っていますと言ったところで、育つかどうかはまだ分からない。四百二十粒のうち何粒が生きているのかも、まだ土の下だ。
黙っていると、大牟田は片手を上げた。
「まあいいや。飯、ありがとな」
「はい」
「……あー。返せるもんがなくてな。悪い」
「いえ」
それだけ言って、大牟田は昇降機のほうへ歩いていった。
足音が、通路の角で消えた。
◇
残ったおにぎりを、作業台の上で食べた。
梅のほうを渡せばよかったな、と思った。塩むすびは、塩の味しかしない。
海苔が湿気ていて、指にくっつく。ここは湿度が上がってきているから、乾き物は持ち込みに向かない。今度から包み方を変えよう。
それから測定器を見た。三十五。数字は動いていない。
トンネルのビニールを少しだけ持ち上げて、中を覗く。
二畝の作土の上に、まだ何も出ていない。土の色が、播いた日より少しだけ濃い。水は回っている。
発芽まで、あと十日ある。
工程表の今日の欄に、八項目を書き込んだ。地温十五・二度。含水率二十一パーセント。pH六・八。魔素三十五。発芽数ゼロ。
ゼロと書くのは、これで八日目だ。
立ち上がって、水路の詰まりを見に行った。塩ビ管の継ぎ目に灰土が溜まりかけていて、指を突っ込んで掻き出す。冷たい。地下水は十度もない。
手を拭きながら、さっきの声を思い出した。
あんた何なんだ、と男は言った。
俺にも、まだ分からない。
分かるのは十日後だ。




