第5話 三週間、俺にできることは何もない
三日前に吊ったばかりのLEDを、四本、外している。
脚立の上でナットを緩めると、金具が軋んだ。一本外すたびに、光の帯が一つ消える。四本外し終えたとき、照らされている面積は三分の二になっていた。
外した四本を床に並べて、次はその下の畝に取りかかった。
作土を掻き寄せて、灰土の上から取り除く。三日前に八十キロ担いで降ろしたうちの、三分の一を袋に戻す作業だ。
三畝が、二畝になった。
この二日、粘ってはみた。
LEDを間引かずに、換気扇の運転を一日四回に分けて回した。夜のうちに蓄電池へ溜めて、昼に吐き出させる手も試した。二日目の午後、換気の途中で発電機が落ちた。復旧までの十七分で、トンネル内の魔素濃度が四十二まで戻っていた。
二十で始めた馴致が、三日目にして四十二を浴びた。焼けなかったのは運がいい。運に頼る工程は、工程とは呼ばない。
電力計を見る。定格三・〇に対して、二・一キロワット。
換気扇とポンプを回す余力が、〇・九キロワット残った。
これで、回る。
畝を減らすということは、今年穫れる量が三分の二になるということだ。
増設に十八万。手元に三万四千円。
計算するまでもない。
袋に詰めた作土を、区画の隅に積んだ。全部で二十六袋。次に発電機を買えたら、また敷けばいい。
捨てなければ、いつでも戻せる。
最後の袋を積んだところで、手が止まった。
三日前、この三畝を敷き終えたときは、腕が上がらなくなるまで練っている。堆肥と燻炭の比率を三回変えて、握って崩して、握って崩して、ようやく指の力で崩れる粒になった。
その三分の一を、今、自分の手で戻している。
これも工程のうちだ。
電力が足りないまま二畝ぶんの水と光を三畝に配れば、全部が中途半端になる。三畝の半端より、二畝の完成のほうが、次に繋がる。
頭では分かっている。
分かっていても、袋の口を縛る手は速くならなかった。
◇
板橋の商店街は、平日の午後でも人が歩いていた。
種苗店は駅の反対側にあるが、そこまで行く電車賃を惜しんで、商店街の外れの八百屋に寄った。店先に苗のトレイが出ているのを、来るときに見た。
「まるとみ」と染め抜かれた日除けの下で、店主が大根の泥を落としていた。
六十過ぎの女性で、腕まくりした腕が日に焼けている。
「トマトの苗、ありますか」
「あるよ。桃太郎と、あと中玉が二種類」
指されたトレイを覗き込んだ。徒長していない。葉の色も濃い。育苗の管理がいい。
「これ、どこの苗ですか」
「埼玉。息子の同級生が作ってる」
女性が手を止めて、こちらを見た。
「あんた、農家かい」
「まあ、そんなところです」
嘘ではない。畑を借りている。
ただ、その畑がどこにあるか言えば、この人はもう俺に苗を売らないだろう。
「土は」
「え」
「どんな土でやってんの。砂質? 粘土?」
包丁を置いて、こちらを見ている。世間話の聞き方ではなかった。
「……無機質です。ほぼ砂に近くて、有機物がゼロなので、作土を上から敷いてます」
「ふうん。じゃあ水、抜けるでしょ」
「抜けます」
「大変だねえ」
それきり、女性は何も聞かなかった。
桃太郎を六株と、中玉を四株、新聞紙に包んでくれる。それから、トレイの端に残っていた小さいのを二つ、上に乗せた。
「これは」
「余りもん。育つかどうか分からないよ」
「いや、お代を」
「いらないよ」
女性は新聞紙の端を折り込みながら言った。
「うちはね、産地も肩書きも聞かないんだ。何十年も八百屋やってるとね、いい土で育ったもんは、切った断面で分かるようになる。味しか信じないの」
包みを俺のほうへ押し出す。
「育たなきゃゼロだし、育ったら、あんたが持ってくればいい」
新聞紙の包みを受け取った。土の匂いがした。
この一週間で嗅いだ中で、初めての、土の匂いだった。
「富田です」と女性が言った。「そこの看板の、とみ」
「笹倉です」
「じゃあね、笹倉さん。枯らしなさんな」
◇
アパートに戻って、机に工程表を広げた。
A3の方眼紙に、罫線を引く。縦に日付、横に測定項目。
地温、含水率、pH、電気伝導度、魔素濃度、葉色、草丈、発芽数。八項目。
毎日、同じ時刻に、同じ順番で測る。
四月十八日の欄に、最初の数字を書き込んだ。
その下、十九日、二十日、二十一日。
五月九日まで、罫線だけが並んでいる。
三週間。
この間、俺にできることは何もない。
水をやる。光を当てる。七日ごとに、魔素濃度を二十、三十五、五十と上げる。それ以外の操作は、全部が逆効果だ。肥料を足したくなり、土を触りたくなり、何かしてやりたくなる。
その全部を、我慢する工程だ。
父が畑を枯らしたのは、待てなかったからだ。
あの年、うちには金がなかった。改良材の袋には「投入後、四週間以上の養生期間を置くこと」と書いてあった。父はそれを読んでいた。読んだうえで、二週間で作付けした。
翌週、葉物が根元から白く抜けた。
俺は父を責めたことがない。
金がないときに待てというのが、どれだけ無理な話か、今なら分かる。
残高を見た。三万四千円から、苗代の千八百円が引かれている。
失業保険が下りるまで、あと二十六日。
その間に、区画の八万が引き落とされる。足りない。
携帯を開いて、日雇いの求人アプリを入れた。倉庫内仕分け、日給九千八百円、翌日払い。週に二日入れば、なんとかなる。
午前中に畑、午後に倉庫。
工程表の余白に、勤務の予定を書き足した。
◇
冷蔵庫にあった卵で、飯を食った。
卵かけご飯と、味噌汁。味噌汁の具は乾燥わかめだけだ。
もらった苗を流しの横に置いてある。新聞紙を開いて、根鉢の湿り具合を指で確かめた。乾きかけている。霧吹きで水をかけて、また包んだ。
明日の朝、こいつらを地下六十二メートルに連れていく。
テレビをつけると、ダンジョン関連のニュースをやっていた。第一ダンジョンの深層で、大手クランが新しい素材を採ったという話。スタジオのコメンテーターが、年間の市場規模を億の単位で読み上げている。
浅層の話は出てこない。
金にならないからだ。
消して、工程表に戻った。
工程表の隣に、もう一枚紙を出した。
思いつく限りの「失敗しそうなこと」を書き出していく。水路が詰まる。発電機が止まる。LEDが落ちる。魔素濃度が跳ねる。誰かに畑を荒らされる。魔物が出る。
最後の二つには、対策の欄に何も書けなかった。
資格がないから、魔物が出たら逃げるしかない。逃げ方も知らない。
明日やることを書き出す。
六時に起きる。七時のゲートに並ぶ。灰土を握って匂いを嗅ぐ。八項目を測る。水路の詰まりを見る。LEDの照度を測る。苗を植える。
所要時間、四時間。
残りの時間は、何もすることがない。
ペンを置いて、天井を見上げた。
四月の夜は、まだ少し冷える。窓の外を電車が通って、部屋がわずかに震えた。
三週間後、四百二十粒のうち何粒が生きているのか、誰にも分からない。
俺にも分からない。
教科書には、全部枯れると書いてある。書いたのは、俺より土に詳しい人たちだ。実験は何百回もやられていて、結果は全部同じだった。
俺がやろうとしているのは、その何百回と同じことではない。
違うのは、慣らす工程を挟んでいることだけだ。それが効くかどうかは、五月九日に分かる。
効かなかったら、どうするか。
考えて、やめた。考えても、明日やることは変わらない。
工程表の一番下の余白に、一行だけ書き足した。
『五月九日 発芽数確認』
その日まで、四百二十粒は、灰土の下で、俺の見えないところにいる。




