第4話 この層で、初めて緑の光が点いた
区画に降りて、最初にやることは決めている。
しゃがんで、灰土を一握り取る。指で潰す。鼻に近づけて、匂いを嗅ぐ。
昨日と同じだった。崩れずに粉になって、乾いた鉱物の匂いがする。
実家では、父が毎朝これをやっていた。天気予報より土のほうが正確だと言って、雨の日も長靴で畑に入っていた。理屈は後から知った。土の匂いは、その日の水分量と微生物の活動で変わる。数値を測る前に、鼻のほうが先に気づく。
だから、俺も毎朝これをやる。
この層の灰土は、まだ何の匂いもしない。それが今の状態だ。
手を払って、立ち上がった。
ツルハシの先が壁に食い込む音は、思っていたより高かった。
乾いた、陶器を叩くような音がする。灰土は柔らかいが、壁のほうは硬い。三十分振り続けて、削れたのは深さ十センチほどの溝だった。手のひらが痺れている。
滲み出していた水が、溝の底に細い筋になって落ち始めた。
ヘッドライトを近づける。
毎分、六十ミリリットルくらい。一時間で三・六リットル。一日で八十六リットル。
初日の目分量では、その五分の一もないと踏んでいた。壁で蒸発し、灰土に散っていたぶんが溝に集まったのだ。掘れば増える。掘るまでは分からない。
三十アールを潤すには、まるで足りない量だ。
だが、ゼロではない。
◇
溝を掘り進めるのに、そこからさらに二日かかった。
壁際から区画の中央まで、二十二メートル。深さ十五センチ、幅二十センチ。傾斜はほとんど取れないから、水は自分の重さでしか動かない。
問題は灰土だった。掘るのは楽なのに、掘った側面が翌日には崩れている。粒と粒がくっつかないので、垂直の面が保てない。
通い始めて五日目、ホームセンターで買った塩ビ管を担いで降りた。
直径五十ミリを二十本。それと、園芸用の防草シート。
溝の底にシートを敷いて、その上に管を並べ、継ぎ目をテープで巻く。管には四十センチおきに、電動ドリルで穴を開けてある。穴は下向きだ。上に開けると、灰土が入って詰まる。
最後の一本を繋いで、壁際の溝に水を落とした。
管の中で音が変わっていく。空洞を叩く音から、水が満ちていく音へ。
二十二メートルの端まで、四分かかった。
中央に置いたバケツに、水が落ちた。
しゃがんで、その音を聞いていた。
落ちる音の間隔が、少しずつ短くなる。管の中が満ちて、流れが安定してきた証拠だ。
誰も見ていない。ヘッドライトの光の輪の中で、バケツの水位が上がっていく。
◇
次は、光だ。
地上から降ろした荷物は、中古の発電機が一台と、リサイクルショップで買ったLEDバーが十二本。
植物工場で使っていたものと、性能は比べものにならない。あちらは一台三十万の専用機だった。こちらは一本三千八百円の、水耕栽培キット用の安物だ。
だが、必要なのは値段ではなく、波長と照度と、当てる時間だ。
植物は光の全部を使うわけではない。赤の六百六十ナノメートル付近と、青の四百五十ナノメートル付近。この二つがあれば光合成は回る。緑は葉が跳ね返すから、ほとんど要らない。
安物のLEDでも、その二色が入っていれば使える。足りないのは光の強さのほうで、それは近づければ解決する。前の会社で、予算の出ない試験区はいつもこの方法でやっていた。
脚立を立てて、天井から吊るためのワイヤーを張る。天井は八メートルある。届かない。
結局、単管パイプを組んで高さ二メートルの架台を作った。半日かかった。
LEDを一本ずつ吊っていく。間隔は九十センチ。葉物なら、株の上二十センチに置いて、一日十四時間。赤と青の比率は五対一。
最後の一本を繋いだところで、いったん手を止めた。
汗が背中を伝っている。層内は十五度で一定だから寒いはずなのに、作業をしていると暑い。ペットボトルの水を飲んだ。金気の味がした。壁の水ではなく、地上から持ってきたほうだ。
発電機の紐を引いた。
二回目でかかった。排気の匂いが広がって、それが少しだけ、実家のトラクターを思い出させた。
ブレーカーを上げる。
緑の光が点いた。
正確には赤と青の混ざった紫だが、灰白色の地面に落ちると緑がかって見える。
十二本の光の帯が、区画の一角を切り取っている。その外側は真っ暗だ。
十八年間、この層は常夜灯以外の光を知らなかった。
しばらく、その光を見ていた。
◇
帰りの昇降機ホールで、探索者の二人組が通路のほうを振り返っていた。
「なあ、あっち。光ってなかったか」
「東区画? 何もねえだろ、あそこ」
片方が首を伸ばして、二百メートル先の暗がりを覗いている。区画の照明は、通路の角を曲がった先からでも、うっすら届くらしい。
「いや、紫っぽいのが見えた」
「気のせいだって」
二人は昇降機に乗って、それきり話題を変えた。
俺は少し離れて立っていた。声をかけようかと思って、やめた。畑ですと言ったところで、さっきの男と同じ顔をされるだけだ。
ただ、見えるのか、と思った。
あの光は、通路からでも見える。
◇
作土を作る。
持ち込んだのは、市販のバーク堆肥と、もみ殻燻炭と、ゼオライト。全部ホームセンターで買える。合わせて八十キロ、四回に分けて降ろした。
灰土をそのまま使うことはできない。粒がガラスのように角張っていて、水も肥料も抱えない。
だからその上に、五センチだけ、本物の土に近いものを敷く。
堆肥と燻炭を混ぜて、水で練った。
握る。
崩れる。
もう一度、混合比を変えて練り直す。握って、指で押す。ほろりと崩れた。粒と粒の間に隙間ができている。
これでいい。
三畝ぶんを敷き終えたときには、腕が上がらなくなっていた。
畝幅六十センチ、長さ八メートルが三本。三十アールのうちの、〇・一四アール。
全体の五百分の一にもならない。
◇
最後に、魔素濃度を落とす。
携帯型の測定器を地面に刺した。基準値の三百二パーセント。周辺層の三倍というのは本当だった。
このまま種を播けば、確実に枯れる。教科書の通りだ。魔素は代謝を加速する。加速しすぎれば、細胞が自分で自分を焼く。
だから、慣らす。
畝の上に、二重のビニールでトンネルをかけた。中の空気を換気扇で外へ押し出して、地上から持ち込んだ空気を入れる。
測定器の値が、ゆっくり落ちていく。
二百五十。百八十。百二十。六十。
基準値の二十パーセントまで落として、換気を止めた。
ここが出発点だ。ここから七日ごとに、少しずつ戻していく。
それから、種を播いた。
トマトが二畝、カブが一畝。指で穴を開けて、一粒ずつ落として、土をかぶせる。
全部で四百二十粒。
播きながら、指が勝手に間隔を測っていた。トマトは三十センチ、カブは十二センチ。定規は要らない。七年やっていると、指の開きが定規になる。
最後の一粒を落として、上から灰土混じりの作土をかぶせた。
腰を伸ばした。
時計を見ると、十九時を過ぎている。ここには日没がないから、時間の感覚が完全に狂う。
「三週間かかります」
誰もいない場所で、声に出した。
二十から三十五、三十五から五十。七日ずつかけて、三段階で上げる。段階を飛ばせば焼ける。飛ばさなければ、根が慣れる。
塩害地でやったのと、同じ手順だ。あそこでは三年かけた。ここでは三週間で済む。魔素は塩と違って、植物が使えるものだからだ。
使えるはずだ。
誰も試したことがないだけで。
◇
発電機の脇に、電力計を置いてある。
帰る前に、数字を確認した。
定格三・〇キロワット。現在の消費、二・八四キロワット。
針が、赤い帯に触れている。
LED十二本を全灯すると、換気扇とポンプを回す余力がほとんど残らない。今日は換気を止めてから灯を入れたから足りた。明日から、両方を同時に動かさなければならない。
増設するには、もう一台要る。中古で十八万。
残高は三万四千円だ。来月の家賃と、区画の八万が引き落とされる。
どちらが先に落ちるかを、俺はもう調べてある。区画のほうが三日早い。
手帳を出して、電力計の数字を書き写した。
その下に、しばらく考えてから、こう書いた。
『畝、減らす』




