第3話 誰もいない層の、湿度が上がっている
午前六時十七分。日本ダンジョン管理協会 板橋支部、観測分析室。
三雲静は、届いたばかりの定時観測データの前で手を止めていた。
第三ダンジョン第三層。相対湿度、四十一パーセント。
前日の同時刻は二十九パーセントだった。
部屋には彼女しかいない。空調の唸りと、端末のファンの低い音だけがしている。三系統の観測ユニットから上がってくる数字は、毎朝六時十五分に自動で届く。九年間、一日も欠けたことがない。
淹れたばかりのコーヒーは、まだ湯気を立てていた。
まず、自分の目を疑った。
次に、機器を疑った。
観測ユニットは三系統ある。故障率の計算はすぐに終わる。同一機種の三台が、同じ夜に、同じ方向へ同じ幅だけ狂う確率は、天文学的に低い。
それでも彼女は、引き出しから予備の眼鏡を出した。
度の強いほうだ。数字を疑う日のために置いてある。
掛け直して、もう一度、画面を見た。
四十一パーセント。
◇
「再計測」
端末に指を走らせる。応答まで九十秒。
その間に、第三層の基礎情報を呼び出した。
深度六十二メートル。面積十七ヘクタール。魔素濃度は浅層で最も高く、周辺層の三倍。魔物湧出頻度は年間で二件から四件。素材産出はほぼゼロ。
湿度は、観測開始から九年間、二十六から三十一パーセントの間で動いている。四十一という数字は、一度もない。
再計測、完了。
四十一パーセント。
三雲はマグカップに口をつけて、コーヒーが冷えきっていることに気づいた。
淹れたのはいつだったか。窓の外は、もう白み始めている。
冷めたコーヒーを流しに空けて、新しく淹れ直した。ドリッパーから落ちる音を聞きながら、頭の中では別の計算が走っている。湿度が十二ポイント上がるということは、この層に、それだけの水が新しく入ったということだ。十七ヘクタールの空間で。
どこから。
層内マップを開いた。
湿度センサーは十四か所。数字を地図の上に並べていく。
北西の四か所は変化なし。中央は微増。
東の端に近い三か所が、跳ねている。
等値線を引いた。
同心円だった。
東区画A-7を中心にして、外へ向かってきれいに薄くなっている。
自然発生の湿度変動が、こんな形になることはない。地下水の湧出なら断層に沿って線状に広がるし、結露なら温度勾配に従う。
これは、点だ。
一点から始まって、外へ広がっている。
三雲はペンを置いて、椅子の背にもたれた。
天井の蛍光灯が一本、ちらついている。
◇
内線が繋がるまで、コールは六回かかった。
「三雲です。観測分析課の。第三層の定時データを、ご確認いただけますか」
『……何時だと思ってる』
「六時三十八分です。湿度が、前日比で十二ポイント上がっています」
『センサーだろ。交換申請出しといて』
「三系統照合済みです。全部同じ値を返しています」
受話器の向こうで、布が擦れる音がした。起き上がったらしい。
『……三系統?』
「はい。それから、分布が同心円です。東区画A-7が中心です」
『A-7』
「はい」
『あそこ、何かあったか』
三雲は区画台帳を開いた。
該当欄に、三日前の日付で更新履歴が入っていた。
「賃借者がいます」
『は?』
「区画貸与制度です。三日前に契約されています」
『あの制度、まだ生きてたのか』
「生きています。今年度の予算書にも項目があります」
『で、そいつが何かしたと』
「分かりません。ただ、中心は明確にA-7です」
受話器の向こうで、しばらく沈黙があった。
『三雲さん。前も言ったけどな。原因が分からんうちは、報告書に断定を書くなよ』
「承知しています」
『それと、あんまり一人で抱えるな。九年やってるんだから分かるだろ。三層なんて、誰も気にしてない』
◇
八時過ぎ、出勤してきた職員が三雲の席の後ろに集まってきた。
誰かが「演習じゃないの」と言い、誰かが首を振った。
「三層でしょ? 誰もいないじゃん」
「センサーの結露じゃないですか」
「三台同時に?」
背後の会話を、三雲は聞き流していた。全部、彼女が一時間前に潰した仮説だ。
観測部長がコートも脱がずに入ってきて、等値線の図を五秒見てから言った。
「掘ったんだろ」
「掘った、と言いますと」
「その賃借者が、なんか掘ったんだよ。地下水脈に当たったんだ。よくある」
三雲は口を開きかけて、やめた。
よくある、という話ではない。第三層で地下水の湧出が観測された例は、九年で一件もなかった。
だが、その一度もないことが起きた理由を、彼女は説明できない。説明できないものを会議に持っていっても、部長の言った一言のほうが通る。掘ったんだろう。それで済んでしまう。
「区画管理課に照会してみます」
「ああ、頼む。まあ、二、三日で戻るよ、こんなの」
◇
区画管理課の滝本という職員は、電話口で声が弾んでいた。
『A-7ですね。ええ、契約されてます。笹倉悠真さん、三十二歳』
「使用目的は」
『栽培試験、と書いてありますね』
「栽培」
『はい。畑にするそうです』
三雲は、受話器を持ったまま数秒黙った。
「……第三層に、ですか」
『そうなんですよ。いやあ、十三年ぶりですよ、この制度使う人。うちの課、もう書式も探すのに一苦労で』
滝本の声は、心底楽しそうだった。
礼を言って、受話器を置いた。
畑。
魔素濃度が周辺層の三倍ある層で。有機物ゼロの灰土の上で。光のない場所で。
高校の教科書に書いてある。魔素環境下において、植物は生育しない。魔素は細胞の代謝を過剰に加速させ、根から順に壊死させる。実験は何百回も行われていて、結果は全部同じだ。
無理だ。
誰がやっても、無理なはずだ。
それでも三雲は、等値線の図をもう一度開いた。
同心円の中心。杭が四本立っているだけの、何もない三十アール。
そこで、誰かが何かをしている。
その結果として、九年間動かなかった数字が動いた。
彼女の仕事は、数字が動いた理由を書くことだ。理由が分からないなら、分かるまで測るしかない。
◇
昼までに、報告書を仕上げた。
様式に沿って、事実だけを書く。湿度の変動幅、三系統の照合結果、分布形状、区画の契約状況。
最後の一行の前で、カーソルが止まった。
考察欄に「地下水脈への到達によるものと推定される」と書けば、報告書は今日で終わる。部長も納得する。誰も困らない。
だが、それを裏づける観測値が一つもない。水位計にも地温にも、変化は出ていなかった。
三雲は、九年間この部屋にいる。ここで書いた報告書は千八百通を超える。そのうち、誰かが読んだと確認できたものが何通あるか、彼女は数えたことがない。
彼女は指を止めて、天井のちらつく蛍光灯を見上げた。それから考察欄に、こう打った。
『要因不明。同区画の継続観測を推奨する』
保存して、送信した。
その報告書を、この日、誰も開かなかった。
だが継続観測は、この日から始まった。




