第2話 これは、土じゃない
「※当該区画において生じたいかなる損害についても、協会は責を負いません」
入場証を受け取りに行くと、滝本は控えの契約書の但し書きをわざわざ読み上げてから、こう付け足した。
「まあ、誰も何も起きないんですけどね。何も無いんで、あそこ」
三日待って発行された入場証は、探索者のものより一回り小さいカードだった。裏に赤字で「区画賃借者・単独入場不可」と刷ってある。
ゲートは朝七時が一番混む。
列に並んでいるのは全員が探索者で、金属の擦れる音と、消毒液に似た匂いがした。俺の格好は作業着にゴム長で、担いでいるのは剣ではなくスコップと湿度計だ。前に並んだ二人組が振り返って、また前を向いた。
読み取り機にカードをかざす。短く鳴る。
誰にも止められなかった。
◇
第三層は、思っていたより明るかった。
通路に常夜灯が等間隔で入っていて、コンクリートの壁が地下鉄の工事現場に似ている。整備されているのは昇降機ホールまでで、そこから東へ二百メートル歩くと、灯りが途切れた。
ヘッドライトを点ける。
天井が高い。八メートルはある。音が返ってこないので、そのくらいだと分かる。空気は十五度くらいで、湿っていない。乾いた金気の匂いがした。
東区画A-7。
境界を示す杭が四隅に立っているだけの、何もない場所だった。三十アール。学校のグラウンドより少し狭いくらいの広さが、灰白色に沈んでいる。
しゃがんで、地面を一握り取った。
指で潰す。
崩れない。
土なら、握れば固まって、指で押せばほろりと崩れる。粒と粒が団子になっていて、その隙間に水と空気が入る。根はその隙間で呼吸している。俺が七年やってきたのは、要するにその隙間を作る仕事だ。
もう一度、力を入れた。潰れずに、粉になった。指の腹でこすると、細かいガラスを触っている手応えがある。ざらついて、水気が一切ない。
鼻に近づけた。
匂いがしない。土なら必ずある腐葉の匂いも、雨に濡れた石の匂いもしない。乾いた鉱物の匂いだけがした。
スコップを刺した。
三十センチで、金属が硬いものに当たった。掘り出してみると、同じ灰白色が続いている。下も上も、全部これだ。深さの見当がつかない。
「これは、土じゃない」
声に出したのは、たぶん、認めたくなかったからだ。
俺が七年やってきたのは、土を直す仕事だ。悪い土でも、土でありさえすれば直せる。粘土質なら砂を入れる。酸性なら石灰を入れる。塩が入っているなら洗う。
だが、これは違う。
これは、土の残骸ですらない。魔素が結晶化して積もった、無機質の層だ。有機物はゼロ。水を保たず、肥料も抱えず、微生物が一匹もいない。
塩害地のほうが、まだ土だった。
ポケットからペットボトルを出して、キャップを開けた。
二リットル。手のひらほどの範囲に、ゆっくり注ぐ。
地面が黒く濡れた。
腕時計の秒針を見る。
五秒。濡れた円が、内側から白く戻り始めた。
十秒。半分になった。
三十秒。
跡形もなかった。
濡れていた場所を指でなぞる。乾いている。表面だけではなく、掘ってみても三センチ下がもう乾いていた。水が横に広がらず、真下に抜けている。
三十アール。ここに水をやり続けたら、一日で何トン要るのか、計算する気にもならない。
膝に手をついて、立ち上がった。
ヘッドライトの光が、四隅の杭を順に舐めていく。何もない。本当に、何もない。
誰も借りないわけだ、と思う。
◇
昇降機ホールまで戻る途中で、妙なことに気づいた。
静かすぎる。
ダンジョンには魔物がいる。浅層でも湧く。俺は資格を持っていないから、いつ出るかも、出たらどうなるかも知らない。だから来る前に何度も動画を見た。第五層の探索者が、通路で三体に囲まれている映像。
だが、ここには何もいない。
地面に足跡がない。爪の跡も、掘り返された痕も見当たらなかった。二時間いて、聞こえた音は自分の靴音と、遠くで昇降機のワイヤーが鳴る音だけだ。
ホールで休んでいた探索者に、思い切って聞いてみた。日焼けした四十くらいの男で、缶コーヒーを飲んでいた。
「あの、この層って、魔物は」
「三層? 出ねえよ」
男は缶を持ったまま、顎で通路のほうを指した。
「痩せてんだよ、ここ。魔素が濃いのに、なんも湧かねえ。素材も出ねえし、誰も来ねえ。昼寝には最高だけどな」
「なるほど」
「兄ちゃん、資格は」
「持ってません」
男が缶を口から離した。
「じゃあ、なんで三層にいるんだ」
答えに詰まった。
畑を作ります、と言えばよかったのかもしれない。だが、この二時間で、俺はそれが冗談にしか聞こえないことを理解していた。
「区画を、借りたので」
「区画? ああ、あれか。貸してんの、まだ」
男は缶を振って、中身が残っているか確かめた。
「昔いたぞ、鉱石掘ろうとした人。三か月で消えたな。何も出ねえもん、ここ」
そう言って、昇降機のほうへ歩いていった。背中に「頑張れよ」と一度だけ声が飛んできた。振り返りはしなかった。
◇
帰る前に、もう一度だけ区画に戻った。
東の端。境界の杭の向こうは、剥き出しの岩壁になっている。ヘッドライトを当てると、壁の色が上と下で違った。上は灰色、下の一メートルほどが、濃い色をしている。
近づいた。
手を当てる。
濡れていた。
壁の内側から、水が滲んでいる。指を押し当てると、指紋の隙間に水が溜まった。舐めてみると、わずかに金気の味がした。鉄分だ。地下水脈が近い。
滲む量は多くない。壁に沿って三十センチほどの帯があって、そこ全体からゆっくり染み出している。一分でコップ一杯にもならないだろう。
だが、止まっていない。
携帯のライトで壁際を照らすと、灰土の色がわずかに濃い筋になって、区画のほうへ二メートルほど伸びていた。そこで消えている。染みた水が、そこまでで真下に抜けているということだ。
俺が来る前から、たぶん十八年間ずっと、この壁は水を出し続けている。誰にも使われずに、そのまま灰土に吸われて、地下へ抜けていた。
壁に手を当てたまま、しばらく動けなかった。
保水しない地面。光のない天井。濃すぎる魔素。
条件は何一つ揃っていない。
だが、水はある。
頭の中で、暗渠の図面が引かれ始めていた。壁の滲出を集めて、区画の中央まで持っていく。傾斜はほとんどないから、落差で流すには溝を深く掘るしかない。灰土は柔らかいが崩れる。側面を固める材料が要る。ホームセンターで買えるもので済ませるなら――
気づいたら、手帳を出していた。
一ページ目に、日付を書いた。四月十一日。
その下に、こう書いた。
『壁面滲出 約〇・八L/h(要実測) 溝、東端から中央へ二十二メートル』
畑にするなら、まず、水の通り道を作るところからだ。
三十アールの何もない灰色を、もう一度見渡した。
ここが土になるまでに、何日かかるだろう。
塩害地は三年だった。あそこには、少なくとも土があった。




