第1話 土いじりしかできない男
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「土いじりしかできない人間に、払う給料はもうないんだ」
差押えの赤い札が貼られた事務室で、矢代専務はそう言った。
穏やかな声だった。責めるというより、決まった書類を読み上げるような声だ。
窓の外では四月の雨が駐車場を叩いている。俺が七年通った建物は、来月には別の会社の倉庫になるらしい。机はもう半分が運び出されていて、残ったスチール机の上に、蛍光灯の光が平たく乗っていた。
「笹倉くん。君の部署は、七年間、一度も売上を立てていない」
管財人が机の端で書類を繰る。乾いた音が二回した。
「土壌設計。正直に言うがね、私は最後まで、あれが何の仕事なのか分からなかった」
反論の材料なら、ある。
塩害で放棄された千葉の農地、四ヘクタール。海水をかぶって六年、雑草すら生えなかった土地だ。俺はそこに、三年通った。
ナトリウムを抜く暗渠を四百メートル引いて、有機物を三度に分けて入れた。電気伝導度が下がり切るまで待って、下がってからさらに一年待った。三年目の秋、あの畑でキャベツが穫れた。三百二十玉。
だが、あれは売上にならなかった。プロジェクトは採算が合わないという理由で打ち切られ、報告書は棚の奥に入った。
数字にならない仕事の価値を、俺は一度も、誰かに説明できたことがない。
「七年間、お世話になりました」
椅子を引いて、頭を下げた。
顔を上げたとき、矢代は少しだけ拍子抜けした顔をしていた。泣くか、食い下がるかすると思っていたんだろう。
三十二にもなって、そんな体力は残っていない。
部屋を出るとき、ドアの横に立っていた経理の若い子が目を伏せた。今日が何人目の面談なのかは、聞かなかった。
廊下の掲示板には、去年の安全週間のポスターがまだ貼ってある。角が一箇所だけ剥がれて、めくれ上がっていた。
◇
私物を段ボールに詰めるのに、四十分かかった。
生産技術部の棚は、ほとんどが土のサンプル瓶で埋まっている。蓋を開けなくても、この部屋は土の匂いがする。乾いた粘土と、腐葉土と、少しだけ鉄が混じった匂いだ。七年かけて、鼻がそれを覚えた。
瓶を一本ずつ新聞紙に包んでいく。会社のものだから置いていけと言われたが、誰も取りに来ないことは分かっていた。
棚の一番下から、青いファイルが出てきた。
背表紙に、自分の字で書いてある。『第二農地 土壌改良記録』。
開くと、方眼紙が三百枚以上綴じてある。日付、気温、水分量、電気伝導度、団粒率。三年ぶん、一日も欠けていない。雨の日も、正月も、測っている。
俺にできることは、正直、これだけだ。
土を読んで、足りないものを足して、待つ。派手なことは何もない。誰かの土を、時間をかけて、育つ状態に持っていく。それだけ。
ただ、それだけは人よりできた。
ページをめくる指が、途中で止まった。
十四のとき、うちの畑が全滅した。父が、新しい改良材を規定の期間を待たずに一気に入れたからだ。その年、どうしても金が要った。翌週、三ヘクタールの葉物が根元から白く抜けた。
母がハウスの前でしゃがみ込んでいたのを覚えている。父は何も言わずに、枯れた株を一列ずつ抜いていた。全部抜き終わるのに、三日かかった。
父は農業をやめた。やめる前の晩に、一度だけこう言った。
――土は嘘をつかない。嘘をつくのは、急いだ人間のほうだ。
ファイルを段ボールの一番上に入れて、蓋を閉じた。
廊下に出ると、蛍光灯が一本、切れかけて点滅していた。誰も直さない。もう、直す会社がない。
◇
ハローワークの帰りだった。
土壌設計。検索窓に打ち込んで、求人はゼロ件。窓口の職員は気の毒そうな顔をして、農業関連の派遣を三件出してきた。時給千百円、収穫作業、経験不問。
電車を降りて、板橋の駅前を歩いていたら、白い建物の前で足が止まった。
日本ダンジョン管理協会 板橋支部。ガラス張りの入口の横に、屋外用の掲示板がある。探索者向けの通達がびっしり貼ってあって、その一番下に、日に焼けて端の丸まった紙が一枚残っていた。
『区画貸与のお知らせ/第三ダンジョン浅層 第三層 東区画A-7/面積約三十アール/月額八万円
※当該区画は魔素濃度が高く、作物栽培等には適しません』
夕方の風が、紙の端をめくっていた。すぐ横をトラックが通って、排気の匂いが流れてくる。
魔素が濃い。だから何も育たない。それが十八年間、誰もが知っている常識だ。教科書にもそう書いてある。実際、魔素の濃いところに種を播けば枯れる。俺もそう習った。
三秒、その紙を見ていた。
濃すぎるなら、吸わせればいい。
塩害地でやったのと、理屈は同じだ。抜けないものは、抜かなくていい。植物に持っていってもらえばいい。塩はどうやっても無理だった。塩は植物にとって役に立たないからだ。
だが魔素は違う。魔素は生き物の代謝を速める。速すぎれば毒になる。ということは、速さを調整できれば――肥料になる。
いや、待て。地下に光はない。層の地面は土じゃない。濃度が高すぎれば、作物のほうが先に焼ける。
三つとも、詰んでいる。
詰んでいるが、三つとも、俺が七年やってきたことだ。
スマホで残高を見た。十九万四千円。失業保険が下りるまで、ひと月ある。
月八万。二か月で消える。二か月で結果が出る仕事ではない。塩害地には三年かかった。
それでも、指は勝手に建物の入口へ向かっていた。求人ゼロ件の窓口で頭を下げているより、たぶん、土を触っているほうがましだ。
自動ドアをくぐった。
◇
「区画貸与? ……ええと、区画貸与ですね」
窓口の職員は五十手前くらいの男で、名札に滝本とあった。カウンターの下を三段ぶん引き出して、書類の束を掻き回している。
「あるはずなんですけどねえ。うちの課、二人しかいないもんで」
紙の擦れる音と、判子を探す音がしばらく続いた。四段目の引き出しから、黄ばんだ用紙が出てきた。
「ありました、これです。探索者資格は要りません。区画賃借者っていう別の枠になります。保険の加入と、あとは単独では入れないので、資格をお持ちの方に同行してもらうか、滞在届を出していただくか」
滝本が用紙をカウンターに滑らせて、それから顔を上げた。
「失礼ですが。何に使われます?」
「畑にします」
滝本の手が止まった。
三秒くらい俺の顔を見てから、判子のキャップを開けて、こう言った。
「いやあ。十三年ぶりですよ、この制度使う人」
用紙は二枚だけだった。氏名、住所、使用目的。使用目的の欄は五センチ四方しかなくて、俺は「栽培試験」とだけ書いた。畑と書くには、枠が小さすぎた。
滝本が控えに判子を押す。インクの匂いが、カウンター越しに届いた。
「初回は前家賃と保証金で、十六万になります。入場証は三日後です」
十九万四千円から、十六万が引かれる。残りは三万四千円。
俺は財布を出した。
止められると思っていた。危ないですよとか、無駄ですよとか。
誰も、何も言わなかった。
それくらい、誰にとってもどうでもいい場所だった。
控えを受け取って帰りかけたところで、滝本が思い出したように呼び止めてくる。
「あ、笹倉さん。ひとつだけ」
「はい」
「あそこ、十八年間、誰も何も育てたことがないんですよ。記録上は」
滝本はまだ笑っていた。悪気はまったくない顔だった。
「まあ、うちの記録が正しければ、ですけど」
自動ドアを出ると、雨は上がっていた。
十八年間、誰も。
その数字を、俺は帰りの電車でずっと数えていた。




