第44話 守らせるのが、あなたの仕事でしょう
スーツを着たのは、七年ぶりだった。
入社の面接で買ったやつで、それ以来、冠婚葬祭でしか出していない。袖が少し短い。
鏡の前で、ネクタイを三回結び直した。
手が覚えていない。灰土の粒径は指が覚えているのに、こちらは十年かけても覚えなかった。
◇
協会本部、四階の会議室。
長机が二つ並んでいて、片側に俺が座った。
向かい側に五人。蒲田正之、環境保全部の職員が三名、そして三雲静。
◇
「お時間、ありがとうございます」
俺はそう言って、鞄から二つ出した。
◇
机の上に、紙束が二つ並んだ。
片方は変色している。表紙に『第二農地 土壌改良記録』。九年前から六年前まで、方眼紙で三百枚以上。
もう片方は新しい。『魔素環境下における作物栽培の工程と、その失敗記録』。
高さが、ほとんど同じだった。
◇
「これが、俺の持っている全部です」
職員の一人が、厚みを目で測るような顔をした。合わせて六百枚を超える。
◇
職員の一人が、書類を確認しながら言った。
「本日は、技術提案として伺っております。ただ、様式の件は」
「様式は、ありません」
「はい。個人からの提案を受け付ける様式が、当協会には存在しません」
「聞きました」
◇
「では、本日はどういう」
「持ち込みです」
「持ち込み、といいますと」
「様式がないので、そのまま持ってきました」
職員は困った顔をした。困らせるつもりはなかったが、他にやり方を思いつかなかった。
◇
俺は、七年勤めた会社で、一度も昇給を頼んだことがない。
部署の予算を要求したこともない。プロジェクトを続けさせてくださいとも、雇い続けてくださいとも言わなかった。
言えば通ると思っていなかったからだ。
通らないものを頼むのは、みっともないと思っていた。
いま思えば、それは謙虚ではない。頼まなければ、断られることもない。断られないでいるために、頼まなかった。
◇
俺は、口を開いた。
◇
「この工程は、三週間かかります」
◇
「それを、制度にしてください」
◇
会議室が、静かになった。
◇
「制度、といいますと」
「基準です。守るべき手順として、決めてください」
◇
「あなたの手法を、公的な基準にする、ということですか」
「俺の手法かどうかは、どうでもいいです」
◇
「俺が正しいかどうかも、どうでもいいです。俺がいなくなったあと、誰かが急いだときに、止まる仕組みが要ります」
◇
蒲田正之は、何も言わなかった。
紙束の、新しいほうに手を伸ばした。
◇
表紙をめくる。
◇
一ページ目に、目次がある。
第一部 失敗記録
第二部 測定十七項目の定義
第三部 工程
◇
蒲田さんの指が、目次の上で止まった。
◇
「失敗記録が、最初ですか」
◇
「はい」
◇
俺は、該当のページを開いてみせた。
◇
『失敗一 四月二十六日/第三層A-7/三株枯死
原因 同一畝内で灰土の粒径が異なり、壁際の魔素濃度が四十九まで上昇。中央の三十五を、畝全体の値として扱った。
結果 根の先端が炭化。抜去。壁際一メートルを掘り出し、粒径を揃えて再馴致(三週間)。
防ぐには 測定点を一点にしない。最低三点。壁際・中央・通路側。』
◇
『失敗二 八月十六日/第五層西区画/三十株全滅
原因 第三層の手順をそのまま適用した。第五層の魔素は空気中に分布し、葉から侵入する。
結果 維管束の閉塞。全株抜去。畝高を三十センチに変更、測定を葉面高で行う設計に変更。
防ぐには 着手前に、その層で人体のどこに症状が出るかを探索者に聞く。三層は手、五層は喉、七層は目。記録には無い。』
◇
『失敗三 九月十六日/第三層B-1三番畝/滞水
原因 その朝、灰土を握って匂いを確認する工程を省略した。理由は、内容証明を読んでいたため。
結果 水路の継ぎ目が緩み、三日から四日、滞水していた。発見は当日の夜。
防ぐには この工程を省略しない。省略した日は、工程表にその旨と理由を記載する。』
◇
『失敗四 十一月四日/第八層産の作物による健康被害
原因 馴致期間を二十一日から十四日に短縮した作物が、「第三ダンジョン浅層産」として流通した。
結果 摂取者十九名に体調不良。二名が入院。
防ぐには 工程を文書にする。口頭で伝えたものは、伝わっていない。
※この失敗は、著者が工程を文書化していなかったことによる。』
◇
蒲田さんは、そのページを長く見ていた。
◇
「四つ目は」
◇
「あなたの失敗ではありません」
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「工程を、書いていなかったのは俺です」
◇
「三週間かかります、と何度も口で言いました。あなたにも言いました。紙にしていませんでした」
◇
「紙になっていないものは、誰も守れません」
◇
蒲田さんは、ページをめくる手を止めた。
◇
それから、こう聞いた。
◇
「……これを、誰が守らせるんですか」
◇
俺は、その質問を待っていた。
この人は十六年、その質問だけを考えてきた。
斜面の草を、大丈夫だと言った日から。
◇
「守らせるのが、あなたの仕事でしょう」
◇
蒲田正之は、数秒、何も言わなかった。
◇
それから、口の端が動いた。
◇
笑った、と言えるほどではない。
だが、この人が表情を変えたのを、俺は初めて見た。
◇
「そうですね」
◇
蒲田さんは紙束を閉じて、隣の三雲さんに渡した。
◇
「三雲さん。起草に入ってください」
◇
「はい」
◇
三雲さんは紙束を両手で受け取った。厚みで、少し腕が下がった。
受け取ってから、彼女は一度だけ、俺のほうを見た。
何も言わなかった。九年間、誰にも読まれない報告書を書いていた人の顔だった。
◇
最後に、蒲田さんが一点だけ確認した。
◇
「産地と、工程の表示は、どうしますか」
◇
俺は、その質問に、答えを持っていた。
◇
「書きます」
◇
「どこの土か、聞かれたことがあるので」
◇
板橋の商店街の八百屋で、断面を見た人が、俺に聞いた。
あのとき、俺は答えられなかった。産地を書く欄が、この国のどこにも存在しなかったからだ。
◇
「区分を、作ってください。ダンジョン産という表示と、層の番号と、馴致の完了日。三つです」
「層の番号まで、ですか」
「はい。同じダンジョンでも、層が違えば別の作物です。第三層と第八層は、産地としては別の場所です」
蒲田さんが顔を上げた。
「その区別があれば、十一月の件は防げましたか」
「防げました」
◇
蒲田さんは、メモを取った。
◇
会議は、四十分で終わった。
最後に職員の一人が、こう聞いた。
「笹倉さんは、この基準ができたあと、どうされるおつもりですか」
「畑に戻ります」
「それだけですか」
「それだけです」
その職員は、少し不思議そうな顔をした。
◇
廊下に出たところで、三雲さんが追いついてきた。
「笹倉さん」
「はい」
「基準の施行日ですが」
◇
「四月八日です」
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俺は、足を止めた。
◇
一年前、俺が最初に灰土を握った日だ。
◇
「偶然です」
三雲さんが言った。
◇
彼女は、少しだけ笑った。
◇
偶然ではないことを、二人とも知っていた。




