第45話 今日、カブ抜きますよ
「農区の書式、どこ置いたかな」
滝本さんは、書類棚の三段目を開けて、それから四段目を開けた。
一年前と、同じ動きだった。
違うのは、探しているものが新しく作られた書式だという点だけだ。
◇
四月八日。
協会板橋支部、区画管理課。
窓口の脇に、施行されたばかりの冊子が置いてある。
『魔素環境下における生物利用に関する安全基準』
◇
三雲静が、その一冊を持ってきた。
「本日付で施行されました」
彼女は復職して、いまは基準管理室という新しい部署にいる。人員は三名。うち一名が彼女で、あとの二名は環境保全部からの異動だった。
予備の眼鏡は、机の引き出しではなく、鞄に入れているそうだ。数字を疑う日が、分析室の外にも来るようになったからだと言っていた。
◇
俺は、表紙をめくった。
第一条に、表示の義務が書いてある。
『魔素環境下で生産された作物を譲渡または販売する場合、次の三項目を表示しなければならない。
一 生産されたダンジョンの名称
二 層の番号
三 馴致工程の完了日』
◇
第二条から第十九条までが、工程の規定だった。
馴致は三段階。基準値の二十パーセントから開始し、七日ごとに三十五、五十へ。
測定点は、同一区画内で三点以上。壁際・中央・通路側、あるいはそれに準ずる分布。
各工程を省略した場合の記録義務。省略した理由まで書くことになっている。
第八条に、土壌の匂いの三段階評価。第十二条に、握ったときの崩れ方。どちらも、参照映像のタイムスタンプが条文に書き込まれていた。
◇
付録として、失敗記録が四件、全文が載っていた。
削られていなかった。
四件目の末尾の但し書きも、そのままだ。
『※この失敗は、著者が工程を文書化していなかったことによる』
◇
「これ、そのまま載せたんですか」
俺が聞くと、三雲さんは頷いた。
「削る案は出ました。基準に失敗事例を載せる前例がないので」
「通したんですか」
「蒲田課長が」
◇
「『そっちが本体です』と、そう仰いました」
◇
滝本さんが、四段目から用紙を引っ張り出してきた。
「ありました。これです。新しい書式ですよ。区分が『農区』です」
◇
俺は用紙を受け取った。
第三ダンジョン浅層 第三層 東区画A-7およびB-1。
使用目的の欄が、五センチ四方ではなくなっている。三行ぶんある。
俺は「栽培」とだけ書いた。三行はいらなかった。
◇
「封鎖は、本日解除です」
三雲さんが言った。
「立入禁止措置の解除通知が、掲示板に出ています」
◇
滝本さんが判子を押した。
「いやあ、これで農区の第一号です。制度ができた日に、契約者がいるって、なかなかないですよ」
「一年前は、十三年ぶりでしたね」
「そうでした。あのときは書式を探すのに二十分かかりました」
滝本さんは判子を戻しながら、こう続けた。
「うちの課、来年度から人が一人増えます。二人から三人です」
◇
「あと、笹倉さん」
三雲さんが、封筒を出した。
「協会から、表彰の案内が来ています。それと、取材の申し込みが十一件」
◇
「断ります」
◇
「両方ですか」
「両方です」
「理由をお聞きしても」
◇
「土が乾くので」
◇
三雲さんは、それをメモ帳に書いた。
書いてから、少し笑った。
◇
ゲートは、朝七時が一番混む。
列に並んでいるのは、ほとんどが探索者だ。金属の擦れる音と、消毒液に似た匂いがする。
俺の格好は作業着にゴム長で、担いでいるのはスコップと測定器と、種の袋。
読み取り機にカードをかざした。
◇
短く、鳴った。
◇
第三層は、四か月半ぶりだった。
通路の常夜灯が等間隔で入っている。二百メートル歩くと、灯りが途切れる。
ヘッドライトを点けた。
◇
東区画A-7。
畝は荒れていた。
豆の茎が支柱に絡まったまま倒れていて、葉は茶色く縮れている。トマトの株は上のほうが全部枯れて、落ちた実が黒くなっていた。
だが、壁からの水は、止まっていない。
◇
塩ビ管は、まだ埋まっていた。
継ぎ目のテープが何箇所か剥がれている。指を入れて、溜まった灰土を掻き出した。冷たい。地下水は十度もない。
流れが戻る音がした。
◇
俺は、しゃがんだ。
◇
作土の上から、一握り取った。
◇
指で潰す。
◇
崩れた。
◇
握れば固まって、指で押せばほろりと崩れる。粒と粒が団子になっていて、その隙間に水と空気が入る。
団粒だ。
四か月半、誰も手を入れていない。それでも、崩れ方が変わっていない。
◇
一年前、ここの灰土は、握っても粉になった。
細かいガラスを触っている手応えで、水気が一切なかった。
◇
鼻に近づけた。
◇
匂いがした。
◇
湿った、青い匂いだ。
腐葉の匂いが、はっきりある。四月八日の記録には、無臭と書いた。あれが基準点になって、いまは冊子の第八条に載っている。
◇
土だ。
◇
――土は嘘をつかない。嘘をつくのは、急いだ人間のほうだ。
◇
父の言葉が、一行だけ浮かんだ。
それ以上は、何も浮かばなかった。
◇
手を払って、立ち上がった。
◇
「悠真さん」
◇
振り返ると、灯がカメラを構えていた。
◇
配信ではない。収益化は切ったままで、彼女はもう数字を追っていない。
撮ったものは、基準の参照映像として登録される。第八条と、第十二条と、第十五条。三つの条文が、彼女のアーカイブのタイムスタンプを指している。
◇
携帯が鳴った。三雲さんからだった。
『第十二層の初期データを送ります。魔素濃度、基準値の八百四十パーセント。系統は混合。既存の作物では馴致に半年かかる見込みです』
◇
半年。
◇
昇降機のほうから、音がした。
台車の車輪が、灰土を踏む音だ。新品の車輪は、沈まない。
◇
俺は、その音を聞いていた。
◇
畝には、根が残っている。壁からの水が届く範囲だけ、茎の根元がまだ緑色をしていた。
抜かずに済む株が、二十七ある。数えた。
二十七株が四か月半、灌水も光もなしで生き延びたのは、壁の滲出水が二十二メートル先まで届いていたからだ。あの溝を掘ったのは、去年の四月十五日。ツルハシで三十分振って、深さ十センチしか削れなかった日だ。
残りは、播き直しだ。
種は持ってきている。カブと、葉物と、豆。
トキさんの店で買った。値段は一年前と同じだった。品薄でも値を上げない人が、種でも同じことをしていた。
◇
俺は、いちばん手前の畝を見た。
枯れた葉の下に、白いものが見えている。
しゃがんで、葉をどけた。
◇
カブが、残っていた。
◇
四か月半、誰も収穫しなかったぶんだ。
葉は枯れている。根だけが、土の中で残っていた。
地上なら、とっくに腐っている。ここは十五度で一定で、湿度も安定している。層内では劣化が遅い。理由は、まだ分かっていない。冊子の付録に「要検証」と書いた。
◇
葉の付け根を持って、まっすぐ上に引いた。
抵抗が一瞬あって、それから土が割れた。
◇
白い。
◇
俺は、それを持って立ち上がった。
◇
灯が、カメラを回している。
三雲さんのメールには、半年と書いてある。
昇降機のほうから、台車の音が近づいてくる。
◇
振り返って、俺は言った。
◇
「灯さん。今日、カブ抜きますよ」
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