第42話 名前は、技術ではありません
事務所の壁一面に、段ボールが積まれていた。
全部、返品だ。
三段重ねで、床から人の背の高さまで。通路が一本しか残っていない。
開封済みのものと、未開封のものが混ざっている。未開封のほうが多い。届いた箱を開けずに送り返した人が、それだけいたということだ。
矢代淳は、その通路に立って、電話に出ていた。
◇
「ですから、当社としましては、いえ、そちらの保管状況の問題では、いえ、そうは申し上げておりません」
◇
電話が切れる音がした。
◇
最初の返品が来たのは、出荷の五日後だ。
「食べたら胸が焼ける」という電話が三件。翌週に十二件。三週目に、返品が段ボールで届き始めた。
健康被害の報告が、消費者庁に上がったのは十二月だった。
二百三十七件の初回注文のうち、四十一件がまとめ買いだった。そのうち、体調不良を訴えた人が十九人。入院が二人。
まとめ買いの客ほど症状が重い。届いた量が多く、毎日食べたからだ。
一人は、大牟田源治という探索者だった。
◇
「社長」
技術者が、通路の奥から来た。
彼は、十一月の出荷のときに「これは出せません」と言った男だ。それから一度も、その話をしていない。
◇
「協会から、照会が来ています」
「またか」
「今度は、環境保全部です。魔素対策課の、蒲田という方から」
「知らんな」
「規制を出した部署です。第三層を止めた」
◇
矢代は電話機を置いた。
「何を聞いてくる」
「第八層の区画の、作業記録です。作付け日、馴致の開始日と各段階の日付、測定記録」
「渡すな」
「もう渡しました。昨日です」
◇
矢代が振り返った。
◇
「誰の判断だ」
「私です」
「お前」
「私が測った記録です。私が渡しました」
◇
技術者は、紙を一枚差し出した。
協会への提出書類の控えだった。
◇
『四月十八日 作付け準備開始
五月二日 馴致開始(基準値の20%)
五月十六日 作付け(馴致14日)
※資料上の推奨は21日。社長判断により14日で実施。
技術担当より、期間不足につき出荷不可と進言。同日、却下』
◇
「これは、記録だな」
矢代が言った。
「事実です」
「記録は、書き方でどうにでもなる」
「なりません」
技術者は、その一言だけは強く言った。
「日付が入っていますので」
◇
「私は、進言したと書いてあるな」
「はい」
「却下したのは私だと」
「はい」
◇
矢代は、その紙を持ったまま動かない。
◇
「なぜだ」
「進言したのに、と言いたいわけじゃありません」
「じゃあ何だ」
「私が測って、私が黙って、私が出荷を止めなかったんです」
◇
「三週間って、書いてあったんです」
◇
技術者は、それだけ言って通路を戻っていく。
段ボールの間を抜ける背中が、途中で一度止まった。止まって、何か言いかけて、やめた。
◇
同じ週、協会本部。
技術管理課の窓口で、矢代は職務発明に関する主張の結果を受け取った。
◇
「本件は、実施可能要件を満たさないと判断されました」
担当者は三十代の女性で、書類を読み上げる声に抑揚がなかった。
◇
「どういう意味だ」
◇
「職務発明として権利を主張するには、その発明を実施できることが前提になります。御社の第八層試験区画では、同一の手法で三回の作付けを行い、三回とも所期の結果が得られていません」
◇
「三回とも失敗した、という記録が、御社から提出されています」
「誰が出した」
「御社の技術担当の方です。退職前に、ご自身の署名で」
◇
矢代は、それを聞いていた。
三回。四月、七月、十一月。全部、技術者が記録を取っていた。
◇
「手法は同じだ」
矢代は言った。
「土壌設計も、層構造も、馴致という手順も、全部同じものだ。名前も同じだ」
◇
担当者は、書類を揃えた。
◇
「名前は、技術ではありません」
◇
矢代は、その一言を聞いて、口を開きかけた。
開いて、言葉が出てこなかった。
窓口の担当者は、書類を封筒に入れて差し出した。
「控えです。異議申立ての期間は三十日です」
「……そうか」
「お手続きされますか」
「いや」
◇
その帰り、矢代は協会の一階で立ち止まった。
掲示板に、第三ダンジョン第三層の封鎖通知がまだ貼ってある。日に焼けて、端が丸まり始めていた。
二月の第二週、会社は事業を停止した。
運転資金の返済期日が来て、投資家は次の資金を出さなかった。
技術者は退職した。転職先は、種苗会社の研究部門に戻る形になったと、あとで聞いた。
◇
矢代淳から連絡が来たのは、その三日後だった。
◇
駅前のチェーンの喫茶店で、俺は待っていた。
同じ店だ。十二月に、蒲田さんと会ったときと同じ席が空いていた。
窓の外を、通勤の人が流れていく。二月の朝はまだ暗い。
◇
矢代さんは、名刺を出さなかった。
出す名刺が、もうないのだろう。
スーツは同じものだった。膝のあたりに、灰土の粉が薄くついている。第八層の灰土は赤黒いから、それは第八層のものだ。まだ通っているのかもしれない。
◇
「久しぶりだね」
「はい」
「二か月ぶりか」
「三か月です」
◇
それから、二分ほど、何も話さなかった。
◇
コーヒーが二つ来た。矢代さんは砂糖を二つ入れて、かき混ぜて、飲まなかった。
七年間、この人がコーヒーを飲むところを、俺は会議室で何度も見ている。いつも一口目が早い人だった。
俺は、鞄から一冊出した。
『魔素環境下における作物栽培の工程と、その失敗記録』。
三雲さんに清書してもらったコピーだ。
机の上に置いた。
◇
矢代さんは、その表紙を見た。
「失敗記録」の四文字のところで、目が止まった。
◇
「これは」
「工程です」
「君の」
「俺のと、他の人のと、全部です」
◇
「公開してあります。誰でも読めます」
◇
矢代さんは、表紙をめくらなかった。
めくらずに、俺のほうを見て、こう聞いた。
◇
「……どうやったんだ」
◇
俺は、その質問を受け取った。
◇
説明はできる。灰土の粒径を揃える。作土を五センチ敷く。馴致を七日ずつ三段階。測定点を三点にする。毎朝、握って、匂いを嗅ぐ。
全部、その冊子に書いてある。書いてあるものを、この人はめくらない。
七年前も、そうだった。俺の報告書は棚の奥に入って、この人はその棚を一度も開けなかった。
だが、この人が聞いているのは、そういうことではない気がした。
◇
「三週間です」
俺は言った。
◇
「それだけです」
◇
立ち上がった。
伝票を取ろうとしたら、矢代さんが先に手を伸ばしていた。
「これくらいは」
俺は、それ以上は言わずに店を出た。
◇
振り返らなかったので、あの人がその冊子をめくったかどうかは、知らない。
◇
駅に着いたところで、携帯が鳴った。
灯からだった。
◇
『悠真さん! 大牟田さん、明日退院です!!!』
◇
俺は、その三つの感嘆符を、しばらく見ていた。
◇
それから、少しだけ、口の端が上がった。
この物語で、俺が二度目に笑った瞬間だった。一度目は、四月にトマトを最初にかじったときだ。




