第41話 そっちが本体です
六畳の部屋に、三人いた。
机の上に紙束が二つと、灯のノートパソコン。壁際に段ボールが積んである。座る場所が足りないので、俺が床に座った。
三雲静は、椅子に座って、俺のノートの一ページ目を見ていた。
◇
「これ、第八項が曖昧です」
最初の言葉が、それだった。
「排水速度、と書いてありますが、何をどう測るんですか」
「水を撒いて、引くまでの時間です」
「量は」
「そのときによります」
「時間の基準は」
「特にありません」
◇
「曖昧だと、人は自分に都合よく読みます」
三雲さんはペンを取った。
「『二リットルを一平方メートルに撒き、表面の水膜が消えるまでの秒数』と書いてください。数字が入ると、都合よく読めなくなります」
◇
俺は書き直した。
三雲さんは次の項目に移る。
十七項目のうち、彼女が「そのままでいい」と言ったのは四つだけだ。
照度。灌水量。作付け間隔。測定時刻。どれも、もともと数字で書いてあったものだった。
◇
「土壌の匂い、というのはどう書くんですか」
灯が横から聞いた。
「これ、数字にできないですよね」
◇
「できません」
三雲さんが答えた。
「ですので、比較で書きます。基準となる状態を先に定義して、それとの差で記録する」
「基準」
「四月八日の第三層の灰土です。無臭。これを基準点にします。以後は『基準点と同じ』『わずかに腐葉臭』『明確に腐葉臭』の三段階でいい」
「四月八日のって、残ってないですよね」
「残っています。笹倉さんの記録の一日目に、無臭と書いてあります」
◇
「三段階でいいんですか」
「いいです。五段階にすると、書く人が迷います。迷うと、書かなくなります」
◇
灯が笑う。
「三雲さん、それ、めちゃくちゃ現場のこと分かってますね」
「九年、書いていたので」
「協会って、そういうの教えてくれるんですか」
「教わっていません。書式が悪いと、自分が書けないので、直しているうちに覚えました」
◇
昼を過ぎて、作業は「手で握ったときの崩れ方」に入った。
これがいちばん難しい。
◇
「悠真さん、これ、どう説明するんですか」
「握って、指で押して、崩れるかどうかです」
「それは分かるんですけど、崩れるって、どのくらいですか」
◇
俺は答えに詰まった。
十四年やってきて、一度も言葉にしたことがない。手が覚えているだけだ。
父が毎朝やっていたのを見て、真似た。真似ているうちに、崩れ方の違いが分かるようになった。分かるようになった時期も、きっかけも、覚えていない。
◇
「映像、あります」
灯がノートパソコンを開いた。
「四月十一日、六月二十五日、九月十五日。悠真さんが握ってるとこ、全部撮ってあります。九月十五日のは、握ってない日の翌日です」
◇
三本の映像を、順に見た。
四月十一日。灰土が指の間から粉になって落ちる。
六月二十五日。作土が指で押されて、ほろりと二つに割れる。
九月十六日。B-1の三番畝。握ると形が残って、ぬかるみに近い。
◇
「これでいけます」
「映像を、基準にするんですか」
「文字より正確です」
三雲さんが言った。
「文字で定義せずに、参照映像を指定します。基準は三本。タイムスタンプで秒まで指定できますので、読んだ人が同じものを見られます」
◇
「それ、あたしの映像でいいんですか」
灯が聞いた。
「公開されていて、自由利用可で、日付とタイムスタンプが入っています。条件を全部満たしています」
◇
「基準として、これ以上のものがありません」
◇
灯は、しばらく画面を見ていた。
三年ぶんのアーカイブが、基準になる。
誰かが手を握るところを、六百三時間の中から秒単位で指定できる。
◇
「……あたし、これ、意味も分からずに回してただけです」
「意味が分からないまま回した映像に、日付が入っています」
三雲さんは、そこで一度、顔を上げた。
「三週間前に、私は同じことを申し上げました。あのときは、いまは何にもなりません、と言いましたが」
◇
「訂正します」
「え」
「記録にはなる、と申し上げました。いま申し上げるのは、これは基準になる、です」
◇
夕方、話は次の段階に入った。
◇
「これ、守らない人はどうするんですか」
灯が聞いた。
「三週間かかりますって書いても、二週間でやる人はやりますよね」
◇
「守らなくても分かるように書きます」
俺は答えた。
◇
「どういうことですか」
「各工程に、それを飛ばすと何が起きるかを書きます」
◇
俺はノートを開いて、四つの日付を書き出した。
四月二十六日。壁際で三株が焼けた。原因は灰土の粒径差。
八月十六日。第五層で三十株が全滅。原因は葉面侵入を想定していなかったこと。
九月十六日。B-1三番畝の滞水を見落とした。原因は、朝の確認を省略したこと。
十一月四日。
◇
最後の一行のところで、ペンが止まった。
◇
「十一月四日は」
三雲さんが聞いた。
◇
「人が倒れました」
◇
「俺の作物ではありません。ですが、原因は同じです。馴致が完了していないものを食べた。工程を七日削った作物です」
◇
「それも、載せます」
◇
三雲さんは、しばらく何も言わない。
それから、静かに聞いてきた。
「ご自分の失敗を、全部書くんですか」
「はい」
「四月と八月は、あなたの失敗です。九月も。ですが十一月は、あなたの失敗ではありません」
◇
「工程を、書いていなかったのは俺です」
◇
「三週間かかります、と口では言いました。紙にしていませんでした。紙になっていないものは、誰も守れません」
◇
三雲さんは、ペンを置いた。
◇
「分かりました」
◇
夜、作業を終えた。
紙束が、机の上で一冊の厚さになっている。まだ手書きで、清書もしていない。だが、順番は決まった。
最初に失敗記録。
次に十七項目の定義。
最後に工程の手順。
◇
「タイトル、どうするんですか」
灯が聞いた。
俺は表紙になる紙を出して、上のほうに書いた。
題名を考えるのに、三分かかっている。
◇
『魔素環境下における作物栽培の工程と、その失敗記録』
◇
「失敗記録、いります?」
灯が笑った。
◇
「そっちが本体です」
◇
二人が帰る前に、三雲さんが立ち上がって、こう言った。
「ご報告があります」
◇
「停職が明けました。今週から復職しています」
「そうですか」
「それと、辞令が出ました」
◇
「魔素環境下における生物利用に関する安全基準、その起草担当です」
◇
「何年かかりますか」
「三年と聞いています」
「長いですね」
「基準としては、短いほうです」
三雲さんは鞄の持ち手を握った。
「私は九年、誰にも読まれない報告書を書いていました。三年で読まれるものが作れるなら、悪くありません」
◇
俺は顔を上げた。
◇
「そんな基準が、あるんですか」
「ありません。作るそうです」
「作れるんですか」
「作ります。私が起草しますので」
◇
「誰が決めたんですか」
◇
「環境保全部の推薦です」
◇
三雲さんは、鞄を持ち上げた。
◇
「蒲田課長です」




