第40話 白川事件
喫茶店の窓際の席に、古いファイルが一冊置かれた。
厚みが四センチある。背表紙のラベルは変色していて、手書きで「白川」と書いてあった。
◇
「私は今日、規則を破りに来ました」
蒲田正之は、コーヒーに手をつけずにそう言った。
◇
俺は、そのファイルを見ていた。
十六年、と病室の廊下で彼は言った。以前にも生物経由の事例がある、と九月に畑で言った。
二つが繋がるのに、四か月かかっている。
喫茶店は駅前のチェーン店で、平日の午後だから空いていた。奥の席で学生が二人、教科書を広げている。この人が指定してきたのが、こういう場所だったことが、少し意外だった。
◇
「十六年前です」
蒲田さんはファイルを開いた。
「第一ダンジョン周辺の、作業拠点でした。当時はまだ、ダンジョンの外周部でも魔素の管理が確立していません。地下水の測定を始めたのが、その年です」
◇
開いたページに、見取り図があった。
プレハブが三棟。斜面。井戸の記号。
四十歳くらいの人が描いた手書きの図で、線が丁寧だった。
「この斜面に、雑草が生えていました」
◇
「魔素を含んだ地下水が、そこに集まる地形でした。当時は、そこまで分かっていません」
蒲田さんはページをめくった。
「植物は魔素環境で育たない、というのが当時からの定説です。ですが、その斜面の草は育っていました。誰も不思議に思いません。地下水に魔素が入っていることを、知らなかったからです」
「その草は」
「馴致という言葉もない時代です。誰も慣らしていません。自然に、十年か二十年かけて、そこで育つものだけが残ったんでしょう」
自然の馴致だ、と俺は思った。
時間をかければ、土は勝手にそれをやる。人間がやろうとすると、三週間かかる。
◇
「作業員が、それを食べました」
◇
俺は、顔を上げた。
「食べた、というのは」
「山菜のような形の草でした。現場は山の中で、食堂が遠い。昼の弁当が足りない日に、誰かが摘んで、茹でて、食べたんです」
◇
「二日は、何も起きませんでした」
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「三日目に、一人が倒れました」
◇
蒲田さんは、そこで一度、言葉を切った。
コーヒーには、まだ手をつけていない。
◇
「私は、当時二十六でした」
◇
「現場責任者でした。作業員から、これは食べても大丈夫かと聞かれました」
◇
「私が、大丈夫だと言いました」
◇
ページがめくられた。
一枚の紙に、名前が六つ並んでいる。
右端に、年齢が振ってあった。
二十四。三十一。三十三。四十六。五十二。五十五。
◇
「六人です」
◇
俺は、その紙を見ていた。
様式の見出しに『被災者一覧』と印字してある。
いちばん下の五十五の欄にだけ、家族構成の記入があった。当時の様式では、扶養者がいる場合だけ書く決まりだったのだと、蒲田さんが言った。
◇
「二十四の方は」
俺が聞いた。
「入って三か月でした」
◇
蒲田さんはファイルを閉じた。
◇
「魔素の生物濃縮という言葉は、この事故のあとにできました。それまで、そういう概念がありませんでした」
◇
「私は十六年、この部署にいます。除染事業の管理です。魔素を分解して、排気して、また分解する。年間四十一億かかります。値は、ほとんど下がりません」
◇
「意味のない仕事だと、言われます」
◇
「私も、そう思っています」
◇
「ですが、十六年やめませんでした。やめると、あの斜面のようなものが、どこかにまた出るからです。出たときに、誰かが大丈夫だと言います」
◇
俺は、何も言えなかった。
◇
「笹倉さん」
蒲田さんが、こちらを見た。
「あなたの工程は、正しいと思います」
◇
「三雲さんが、数字で示しました。私も現場を見ました。作物が魔素を固定していることは、もう疑っていません」
◇
「それでも、私はあなたを止めます」
◇
「なぜですか」
俺は聞いた。
◇
「あなたの工程を守らない人間が、必ず出るからです」
◇
「矢代さん、という方がいます」
◇
その名前が、この人の口から出るとは思っていなかった。
「第八層で、十四日で作付けしています。三週間の工程を、七日削りました」
「知っていたんですか」
「調べました。区画の記録は協会にあります」
◇
「削った理由は、悪意ではありません。資金繰りです。人はそういう理由で、一週間を削ります」
◇
「削っても、見た目は変わりません」
◇
「あなたと同じ品種、同じ形、同じ色のものが、三週間かけずに出てきます。あなたには見分けられますか」
◇
「ヘタの形で分かります」
俺は答えた。
「うちのは五枚に割れて、反り返ります。あちらは六枚で、反っていません。断面のゼリー部分も違います」
◇
蒲田さんは、しばらく黙った。
◇
「あなたには、分かるんですね」
◇
「はい」
◇
「私には、分かりません」
◇
「大牟田さんにも、分かりませんでした」
「あの人は」
「今週、退院の見込みだそうです。私が聞いたのではありません。病院に確認しました」
◇
◇
その一言で、喫茶店の中の音が、遠くなった。
◇
「あの方は、あなたの作物を四か月食べています。毎日食べていた人が、見分けられなかった」
◇
「見分けられる人は、日本に何人いますか」
◇
答えられなかった。
トキさんは分かる。断面を見て仕入れる人だ。
だが、あの人は日本に一人しかいない。
◇
「私が申し上げているのは、そういうことです」
◇
蒲田さんは、ファイルを鞄に入れた。
◇
立ち上がりかけて、止まった。
それから、声の高さが変わった。
◇
「あんたは」
◇
敬語が、崩れた。
◇
「あんたは、人が死ぬところを見たことがないんだ」
◇
俺は、その言葉を受け取った。
◇
反論の材料が、一つもない。
俺は十四のときに、父の畑が枯れるのを見た。九月に、大牟田さんが倒れたと聞いた。病室の外で二時間待った。
だが、人が死ぬところは、見ていない。
◇
「……失礼しました」
蒲田さんは、そう言って座り直した。
自分の言ったことに、自分で驚いた顔をしていた。
◇
それから、こう続けた。
「私は、あなたを止める仕事を続けます」
◇
「止め方が変わるまでは」
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喫茶店を出て、俺は三日、何も言わなかった。
◇
灯から連絡が来ても、返さない。
三雲さんからのメールも、開いたまま返信していない。
◇
畑にも入れず、売る先もなかった。することがないので、記録の整理だけを続けている。
塩害地の三年と、第三層の百九十日。突き合わせながら、頭の中では別のことが回っていた。
三日目の夜、ノートを開いた。
一ページ目に、十七の項目が並んでいる。
その下は、白紙だった。
◇
俺は、そこに一行だけ書いた。
◇
『守らない人が出る前提で、書く』
◇
書いてから、ペンを置いた。
これまで俺が書いてきたのは、うまくいった手順だけだ。
九年前の報告書も、第三層の工程表も、成功した日の数字が並んでいる。失敗した日は、余白に短く書いただけで済ませた。
順番を逆にする。
守らないとどうなるかを先に書き、そのあとに手順を置く。
そういう文書を、俺はまだ一度も見たことがなかった。




