第39話 人が入っていないのに、戻らない
協会本部の会議室で、スクリーンに一本の線が映っている。
第三ダンジョン第三層、魔素濃度。
右下がりに落ちてきた線が、十一月十七日を境に、水平になっていた。
二か月、動いていない。
◇
「これは、どういうことかね」
管理局長が言った。
出席者は八人。管理局長、観測部長、渉外担当、技術管理課長。本部から二名。
そして、環境保全部の蒲田正之。
もう一人、末席に、外部の助言者として臨時に呼ばれた人間がいた。
名札が用意されていない。所属を書く欄が埋められないからだ。
◇
三雲静は、停職三か月の二か月目に入っている。
協会の建物に入れるのは、正式な招請があったからだ。招請状を出したのは、環境保全部だった。
◇
「ご説明します」
三雲は立ち上がった。
「階層機能の低下が原因である場合、封鎖後も低下は継続します。継続していません」
◇
「外部からの流入が止まっていた場合、封鎖によって流入が回復し、値も戻ります。戻っていません」
◇
「値は、封鎖の日から、誤差の範囲で一定です」
◇
管理局長が、資料を繰った。
「では、何が起きている」
◇
「固定されています」
三雲は答えた。
「作物が魔素を体内に取り込み、安定した形で保持しています。作物が生きている限り、その分は空気中に戻りません。だから値が動きません」
「作物は、生きているのか」
「分かりません。封鎖から二か月、灌水されていませんので」
「枯れていたら」
「枯れて分解が進めば、値は戻ります」
◇
「戻っていないということは」
技術管理課長が、言葉を継いだ。
「まだ、生きているということですか」
◇
「その可能性が高いと考えます。断定はできません。現地を見ていないので」
◇
会議室が、静かになった。
◇
二か月前、この部屋で「第三層は死にかけている」という言葉が出た。
言ったのは、いまスクリーンを見ている管理局長だ。
同じ資料の同じ数字を、正反対に読んでいる。
誰も嘘をついていない。
前提が一つ違っただけだ。魔素が減るのは、階層が弱ったから。十八年、誰もそれを疑わなかった。疑う理由がなかった。
◇
「現地の確認が必要です」
蒲田正之が、初めて口を開いた。
「封鎖中ですが、調査目的の立入は環境保全部の権限で可能です。私が入ります」
◇
管理局長が眉を寄せた。
「課長が自分で行くのか」
「はい」
「調査は下の者に」
「私が行きます」
「理由は」
「見ていないもので判断したくないので」
管理局長は、それ以上言わなかった。
◇
その日の午後、第三層。
封鎖されてから二か月ぶりに、昇降機が三層で止まった。
◇
降りたのは四人。蒲田、技術管理課の職員が二人、そして三雲静。
通路の常夜灯は、封鎖後も点いている。設備の電源は落としていない。
二百メートル歩いた。四人とも黙っていた。足音以外に音がない。
東区画に着いた。
◇
LEDは、消えていた。
発電機の燃料が切れたのが、封鎖から四日後だ。それ以降、光はない。
ヘッドライトの光の中に、単管の架台が浮かんだ。
◇
畝は、荒れていた。
二か月前まで、ここは毎朝手が入っていた場所だ。水路の継ぎ目に指を入れて灰土を掻き出し、支柱の麻紐を結び直し、葉を一枚ずつ裏返して見る。その全部が、二か月止まっている。
豆の茎が、支柱に絡まったまま倒れている。葉は茶色く縮れて、触ると崩れた。
トマトの株も、上のほうは全部枯れている。落ちた実が、灰土の上で黒くなっていた。
三雲は、その光景を見て、手元の測定器を見た。
◇
基準値の三十一パーセント。
◇
「戻っていませんね」
技術管理課の職員が言った。
「これだけ枯れていて、戻っていない」
「枯れた範囲だけ、局所的には上がっています」
三雲が答えた。
「区画全体では、まだ動いていません」
◇
三雲は、区画の東側へ歩いた。
壁際。四月に、笹倉悠真が最初に溝を掘った場所だ。
塩ビ管が二十二メートル、まだ埋まっている。継ぎ目のテープは、ところどころ剥がれていた。
その管の下、灰土の色が、濃い。
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濡れている。
◇
壁からの滲出は、止まっていなかった。
人がいなくてもポンプは要らない。落差で流れる設計になっている。四月に、そう作られている。
◇
三雲は管に沿って歩いた。
二十二メートル先、区画の中央。
水が届いている範囲の畝だけ、株が生きていた。
◇
葉の色は薄い。徒長もしている。光がないので当然だ。
だが、根が残っている。茎の根元が、まだ緑色をしていた。
◇
「生きています」
三雲が言った。
「壁からの水が届く範囲だけです。畝で言うと、二本のうちの、一本の半分ほど」
◇
「その範囲と、濃度の分布を照合します」
三雲は測定器を持って、区画の中を歩いた。
壁際、中央、通路側。三点。
それから、水の届いていない範囲でも三点。
測り方は、彼女が考えたものではない。六月に一度だけ現場に来たとき、区画賃借者がやっていた手順を、そのまま真似ている。
一点で代表させると間違える。それを教えたのは、この畝で焼けた三株だった。
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二十分後、彼女は顔を上げた。
「一致します。誤差は測定器の分解能の範囲内です」
◇
「生きている株の周囲で、値が低いままです。枯れた範囲では、局所的に戻り始めています」
◇
蒲田正之は、その説明を聞きながら、畝の前にしゃがんでいた。
◇
手を伸ばして、灰土を一握り取った。
◇
指で潰す。
崩れなかった。第三層の灰土は、握っても粉になる。
だが、作土の敷いてある範囲は違った。潰すと、ほろりと崩れる。粒と粒の間に、隙間がある。
◇
蒲田は、それを鼻に近づけた。
匂いを嗅ぐ。
◇
やり方は、知らない。
映像で見たものを、真似ているだけだ。六百三時間のアーカイブの中に、その動作は数百回記録されている。彼はこの二週間で、そのうち六十回ぶんを繰り返し見た。
匂いが何を意味するのかも、彼には分からなかった。
◇
ただ、匂いがあった。
九年間、この層の灰土には匂いがなかったと、記録には書いてある。
◇
蒲田は立ち上がって、手を払った。
「三雲さん」
「はい」
「これを作った方は、いま、どちらに」
◇
「自宅だと思います」
三雲は答えた。
「入れませんので」
◇
蒲田は、しばらく畝を見ていた。
それから、こう言った。
「会わなければ、いけませんね」
◇
「規制を、解かれるんですか」
三雲が聞いた。
蒲田は首を横に振った。
◇
「その前に、話さなければいけないことがあります」
◇
昇降機へ戻る途中、蒲田は一度だけ足を止めた。
通路の、区画から四十メートルほどの地点だった。
特に何もない場所だ。灰土の上に、台車の轍が何本も残っている。
彼はそこで、灰土の上に置かれたままの、四つの黒い塊を見た。
等間隔に並んでいる。誰かが置いたものだ。二か月経って、原形は残っていない。
◇
何だったのかは、分からなかった。
三雲に聞くこともしなかった。
しなかったが、跨がずに、脇を通って歩いた。




